チキンなワイフ、イタリアの日々

チキンなワイフ、イタリアの日々

南国生活5年を経て、今度はイタリアで暮らすことになりました。
駐妻初級編から中級編へ。
色々比較しながら日々の事を綴ります。


日本人に割と多いあがり症。

私も漏れなくその1人だった。

 

目立たぬように生きていても、人目に晒されねばならない時はあるわけで。

 

ピアノの発表会ではペダルに置いた脚の震えが止まらない。

自己紹介では唇が震える。

友達の結婚式でのスピーチで高級ホテルのふわふわの絨毯に立つ私は、生まれたての小鹿状態。

 

数え上げればキリがない。

こういう時の私の様子は、もはやあがりSHOWだ。

 

マイクは握りしめた方が震えは目立たないだろうか、それとも脱力した方が良いか?

咳払いは有効か否か?あぁ声がいつもと違う。

私は今笑顔だが、目は座っているし唇は震えている。上がっているのがバレバレに違いない!

みんなじゃがいもと思え?無理だ、なんだあの妙に同情のこもった優しい笑顔は!!

 

心臓の鼓動は口どころか目からも耳からも飛び出していそうだし、頭はフル回転で震えをどうにかしようと必死。

ところがある瞬間からバクバクだった心臓が氷の如く冷たく感じられて、私は滑稽な自分を外側から感じ始める。

気絶した?いや、いわゆる離人感というやつだ。

 

今でも人前に出るのは嫌だ。

だけどどうしても学生に伝えたい事ができて、先日オンラインだが人前に出た。

 

あがり症の人に、アドリブは厳禁である。

原稿を作り、音読して時間内に収まるか確認。その上で、メモを読み続けないように一部は箇条書きに変えた。

そして30分のプチ講義をした。

 

今回もあがりSHOWだったか?

答えは否だ。

オンラインとはいえ緊張はしたが、私は私から離れることなく、存在し続けた。

 

あがり症を克服するには、

・本番に向けて準備と練習をたくさんする事

・場数をたくさん踏む事

そんな風に教わった事がある。

 

今回もう一つ学んだ。

あがり症を克服するのに大切なのは、緊張を上回る熱意だ。

 

どうしても見て欲しい、どうしても知って欲しい。

伝える「私」がどう思われるかなんていう事より、伝える「事」への想いが大事。

そう思っていたから、我を忘れたんだ。

 

その昔、親友が結婚する時に「私の事を想うならスピーチをさせないで」と頼んだ。

彼女の素晴らしさを誰よりも知っている私。あの時スピーチしたら、案外大丈夫だったかもしれない。


ちなみに私が夫を紹介した時、彼女は開口一番くらいの勢いで、私を泣かせたら許さないと夫に言った。

実は泣いた事はある。でも幸せだから、これも許してもらおう。

 

 

 

何年経っても腑に落ちない事がある。

 

高校生の国語の授業の事である。

多感な年頃なのに、悩み深くなるような事ばかり教えるのだ。

私がそういうことばかり記憶したのか?もしかしたらそうかもしれない。

とにかく私は、現代文から「絶望」しか学べなかった。

 

例えば夏目漱石の「こころ」。ストーリーは主人公の友人Kの自殺を扱っている。先生は、「自殺する作家が多かった中、夏目漱石はこの小説でKという人物に自殺させることで自分を救ったかもしれない」という独自の見解を語ってくださった。

 

悩み深い私には、それは救いではなくその場しのぎの行為に思えた。

 

それから梶井基次郎。の「檸檬」。

「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた。焦躁しょうそうと言おうか、嫌悪と言おうか(中略)以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。(中略)何かが私を居堪いたたまらずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。」

 

まさに、当時の私の気持ちそのものだった。だから、友達と「丸善に檸檬爆弾を置いて」みたが、真似事をしたところで効果はなかった。

 

芥川龍之介の「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」も、太宰治が抱え続けた死への欲求もそうだ。

 

彼らは生きることを労役か何かのように捉え、死に誘惑され続けた。

学校は、なんでそんな人達ばかりを紹介して私の心を抉り続けたのか。

国語の目的は、発達段階に応じて情緒と論理的思考を養う事らしい。

しかし情緒面で混乱を起こしやすい年頃に、それを追求して死を選んだ人達の文章ばかり学ばせるのはどういう了見だろうか。

 

極め付けは吉野弘の「I was born」だ。

I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は
生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね
-」

 

自分は「生まれさせられた」。

そうだ。作家達の抱えた虚しさや息苦しさの根源は、これに違いない。

私達はみんな、与えられてしまった人生の被害者なんだ。

 

これが、授業の結果導き出された私の答えだった。

 

あの頃の私に教えてあげたい。

望まざる人生は、苦しく虚しい。

でもそれは、人生が何かを与えてくれると期待しているからだ。

自分でも薄々感じているはずだ。

人生に期待しても得られないと分かってきたから、生き続けるのが苦しいのだ。

でもそれは、もうすぐ終わる。なぜなら、大人になるからだ。

 

大人になれば、人生を全うする責任は親から子に受け渡される。

そうすれば、自分であらゆる選択をするようになる。

その選択の一つ一つが、灰色だった人生をありとあらゆる感情に彩るだろう。

そのカラフルな日々に、生の実感が湧くだろう。

 

そしていつしか、自分自身に期待し、人生に期待されていることに気付く。

人生は相変わらず望んでもいないようなものを与えてくるだろう。

でも、大丈夫だ。

自分をどう歩ませるか決めるのは、いつも自分自身だから。

 

おまけにもう一つ。

苦しんだ分だけ、その後の日々は「当たり前」ではなく「輝かしい日々」に感じられるだろう。

その人生のご褒美を長く味わう為に、今はそこに進む為のエンジンをふかして唸っているだけなのだ。

だから、絶対に大丈夫だ。

 

あの頃の自分に、何度も何度も、心に染み渡るまで伝えてあげたい。

絶望ではなく、希望が灯るまで、何度でも。

 

駐妻は夫に帯同する事で、それまでの生活と引き離される。

夫には職場という居場所があるが、妻には無い。

しかも海外だから、言葉の壁もある。

 

というわけで、いかなる国に行こうと駐妻にはそれなりの苦労がある。

しかしそこにはレベルがあるわけで。

 

まず治安や医療に関する心配が少なければ、それだけ安心して暮らす事ができるだろう。

そして物価が日本と同等かそれより安ければ、コト消費やモノ消費への余裕が持てるだろう。

それに加えて在住日本人の数が多ければ、人間関係にも和食にも困らない可能性が非常に高い。

 

タイ駐在は、バンコクの場合これらが想像以上に満たされていて、日本語のみでの生活も何とかなる。

衣食住すべての領域に日系が進出していると言ってもいい。

もしインフラを整備して冠水や渋滞を(そしてゴキブリやネズミも!)防ぐことができたら、もし妻にも労働許可が下りるなら、妻のハードシップはぐっと下がるに違いない。

 

一方、現在のイタリアの小都市暮らしはというと、良い点は極めて少なくなる。

日常生活では治安の心配が無く(エリアを厳選したというのもあるが)、ゴキブリ遭遇率が極めて低い事くらいか。

特筆すべきは妻にも労働許可が出ていることだが、働けるかどうかは別問題である。

 

だから、これまでと同じ生活を望む限り、無い無い尽くしで不幸になること間違いなし。

ここならではの生活にチューニングを合わせて、駐妻の階段を上らねば。

 

それで、この数ヶ月にどんなアップデートが行われたかというと・・・

・業者を使わなくても自力で引っ越しが可能であると知った(つまり自力で引っ越した)

・「自家製」の幅が増えた(パスタや中華麺の他、ひよこ豆の豆腐も定番になりそうだ)

・夫の会社の人達を家に招いて食事会をした(基本的に仕事とプライベートは分ける主義だった)

・水回りのトラブルなど、応急処置ができるようになった(なぜなら業者は余程の事がないと何週間も来ない)

・交通機関のストライキの多さに驚かなくなった(ただし対処能力は低い)

 

駐妻の階段。レベルアップすべく階段を上る、というイメージだったが、いざ歩んでみると違った。

現代の生活には不要だったり面倒だったりして数段飛ばしにしてきたものを、上がり直しているような感覚だ。

その数段にあるのは、古き良き時代の再発見。

 

職人気質だった父と、比較的豊かな農家で育った母との間に生まれた私。

何だかんだとその価値観を受け継いでいるのだろう。

どう考えても自家製パスタの方が美味しいし、窓やトイレが壊れても紐さえあれば何とかなる。

 

無い無い尽くし、ハプニング多め。

なのにストレスが爆発するどころか、妙に「ミッションクリア」的な充実感がある。

 

タイ駐在帯同は「お金で時間を買う」が可能だから、新しい学びを得るのに相応しい。

そしてイタリア駐在帯同は、学んでこなかった大切な事を学び直すのに相応しい。

2カ国のギャップに感じた衝撃は決して小さくなかったが、なかなか幸せな、もうすぐ1年の新生活である。

花は「花」でしかない私が、また花を買った。

しかも、全く私の趣味ではないカラフルな花束を。


どうしてこの花束を選んだのか、心の底では分かっている。

この色味の構成が、仏花のようだからだ。

 

数日前、社会人になった頃にお世話になった先輩の訃報が届いた。

仕事中に帰らぬ人となったようだ。

誰にとっても、突然の出来事だった。

 

同期が3人配属されたその部署で、最も規範になってくれたのがその先輩だった。

気さくで、新人のミスに寛容で、しかしそこに慢心や軽率さがあればきちんと注意してくれた。

いつも最適な解決策を考え、一度これだと分かると大岩の如く動じることはなかった。

高圧的な相手に対してもその姿勢を崩す事はなく、いつの間にか相手の信頼を得てしまう、そんな人だった。

 

先輩然としているかと思いきや同期をあだ名で呼んでいたし、結婚の打明け話もしてくれた。

そして新妻を紹介してくれて、デレデレの姿も見せてくれた。

仕事中は大岩でも、家庭では忠犬の先輩だった。家庭における問題解決には柔軟さが最適であると考えたからか、単に愛の成せる技か。

とにかく幸せそうなその姿が、私が最後に見た先輩の姿だった。

 

社会人ではあったが、学校のように新人の私達を育ててくれた。

温室のように心地が良くてそこに甘んじていられなかったが、大好きな場所だった。

思い出すあの頃の日々は、とてもカラフルだ。

 

故人は四十九日までに仏花の強い色味に現世を振り返るらしい。

不義理な私がイタリアで買ったこの花も、故人の目に届くだろうか?

 

ところで、実際仏花にも用いられているこの花の名前は、スターチスという。

花言葉は、「変わらぬ心」「永久不変」「途絶えぬ記憶」だそうだ。

 

カラフルな思い出に感謝を込めて、あなたに相応しいこの花を捧げます。ご冥福と、ご家族が1日も早く笑顔を取り戻せますようお祈りいたします。

先日、半年ほど住んだ家を引っ越した。

 

実家の近所で一人暮らしを始めた時以来の、自力での引越しとなった。

夜な夜な自家用車で20往復以上して引っ越したが、誰も驚かなかった。

なぜなら、こういう事が「割とよくある」らしいのだ。

そんなイタリアでの引っ越しの話。

 

イタリアは賃貸物件が少ない。特に、不動産業者を介してまで賃貸に出そうというオーナーが少ない。

一般的な契約期間は4年。もし契約期間中に賃借人やその同居家族が病気になって支払いが滞っても、家主は追い出す事ができないそうだ。

だから、人づてという多少の担保を得て貸す方がいい。イタリアでは、良い情報は人づてでもたらされる。

 

しかし、アウェイの駐在員は良い情報を得られない。だからインターネットの賃貸情報サイトで探す。

ただでさえ少ない候補。良さそうな物件が見つかったら「英語で」問い合わせるなんてチャレンジはせず、イタリア人のスタッフに入ってもらう。彼のペースは日本人のそれとは異なるが、そこは尊重するしかない。

 

こうして3ヶ月アタックし続けて、内覧までたどり着いたのは1件だけだった。

内覧できなかった理由は色々あるだろう。内覧順番待ちや人づてで決まってしまった以外にも、知りたくない理由もあるかもしれない。

知り得た理由の中で興味深かったのは

・物件の1部が子供名義になっているから、借りた後で子供が異議を唱えてきたら非常に面倒な事になる

・法人契約の場合は家賃が掲載価格の3割り増しになるから、予算オーバーになる

の2つだ。

 

2つ目は本当に困るが、珍しいことではない。

賃借人と直接契約すれば税金を誤魔化せるが、法人の場合はそれができないから、という事らしい。

 

そもそもうちが引っ越す事になったのも、これが大きな要因だ。

賃貸価格がこの半年でも高騰し、若い社員の予算に合う家が見つからない状況に陥ってしまった。

この不便な新天地で、治安以外にも色々妥協しろというのは・・・酷だ。

 

幸い我が家ならば彼らの予算に合う。

スタッフに「あなた方の予算ならまだ家を見つけられるだろう」と言われ、覚悟を決めた。

内覧できた1件も、家賃は3割増しに変更。対象は我々になった。

そして時間との戦いは始まっていた為、即決した。

 

イタリアの家は、引き渡し前のクリーニングが入らないのが一般的らしい。内覧のためにオーナーがある程度掃除した後の事は、借主がする。

掃除は平日の日中に自転車で「通勤」して行ったのだが、所どころホラーな箇所があった。

イタリア人は家の中をピカピカにするというが、「見えるところは」という注釈が必要かもしれない。

 

契約後すぐに引っ越し業者の手配も始めたが、これは時間との戦いに負けた感がある。

この街の高い相場を提示してくる業者が1つ見つかっただけだったので、自分達で運べる物は運ぶ事になった。

幸い、衣装ケースはそのまま運べるし、スーツケースもある。

海外転居用の丈夫な段ボールや梱包材を少し残してあるし、会社から普通の段ボールや台車を借りる事もできた。

 

大きな家具や重い物は業者にお願いする話にはなっていたが、薄っすら予想していた通り、それはイタリア人スタッフがサラッと手伝ってくれて引越しは完了した。

 

こんな風に「自分達でやった方が早いし安上がり」というのがイタリアあるある。

20往復もしていればご近所さんにも知られるわけだが、「どこに引っ越すんだ?」「せっかく顔見知りになったのに残念だ」はあっても「大変だなぁ」という同情の声は一切なかったように思う。

 

ちなみに、不動産業者の仕事は仲介までだ。

契約が成立したら、後はオーナーと直接やりとりする事になる。

不具合が起きても、故障や破損以外は報告無用だ。

 

転居して数日後に壁の隙間から羽蟻が群れで侵入してきた。

私には恐怖の大事件だが、この程度の事はオーナーに対応依頼するものではない。勝手に隙間充填材で対処すべし。

その充填材を自分で買えない私は、スタッフが用意してくれるのを待っている。

「自分でやった方が早い」はこの場合にも当てはまる。

侵入した羽蟻に殺虫剤を浴びせた後、もう殺戮しなくて済むように隙間はダクトテープで塞いだ。

(しかし、そろそろスタッフにリマインドしようと思う)

 

カネなしコネなしスキルなし、な気持ちにさせられるイタリアでの引っ越し体験。

カネとコネに変化はないが、最終的には納期までに何とかしてしまうイタリア人の底力というスキルが、私にも少々身についた気がする。