●青い地球は誰のもの【その2】「食物連鎖・因果応報・終末預言等について」の巻(追記有)♡ | 青い地球は誰のもの~世界の終わりは近いのか~

青い地球は誰のもの~世界の終わりは近いのか~

聖書には、黙示録というのがあるんだそうで。やはり、本当に来るのかもしれませんね、なんちって^^;
「いいね」を入れていただいても、必ずしも内容を支持した旨、踏み絵だなんて、野暮なことは思ってません。

皆さん ごきげんよう~カエルヒヨコおすましスワン

 

こちらに お越しいただき どうも ありがとうございます。晴れ地球月見

 

 

昭和生まれ世代の若かった20世紀後半の頃に流行ったトレンドのひとつに、「ノストラダムスの大予言」というのがあって、 そのほかにも、当時脚光を浴びた預言者や、その類の文献は、いろいろあったもんでした。そうした一連の文献を時系列的にならべて眺めてみますと、大いなる存在(時空の管理者?)が、我々人類の歴史を刻みながら進む、生き様・あり様に、反省・修正して、未来へと至る際の試練・災厄を、どう回避するかの知恵を知らせていたもののよう?にも思えたりします。地球

 

そこで、それらを丸ごと信じるのかどうかはともかく、ひとつのヒントとして、大いなる存在が、後世の私たちに伝えたくて託した、戒め・期待したものが、一体何だったのか、私たちは、より良い未来に向かって、何を心がけて改善・修正していったらいいのか、主観故の偏りはあっても自分なりに自由に探ってみよう~、というのが、このシリーズの趣旨です。ちょうちょ特に、根拠資料参照などしておらず、思いつくままに書き進めたもので、言うまでもなく、拙い私見に過ぎません。そして、追って修正加筆する場合があります。

 

このシリーズ、こんな荒唐無稽で浮世離れした話、とてもついていけんわー、という向きも、出てこようかとは思いますので、そう思われましたら、どうぞ、早めにスルーされてくださいませ。龍 ここは地の果て拙ブログ、言ってみれば、愚者の私見、便所の落書き」的な戯言かなと捉えていただけますと幸いです。

 

今回は、タイトルにありますとおり、●青い地球は誰のもの シリーズ連載【その2】「食物連鎖・因果応報・終末預言等について」のお話となります。地球

 

 

さて、本題へと入る前ですが、このシリーズ、当初、【その1】から【その4】まで揃っていたところ、その中の【その2】を2024年1月下旬の投稿に投稿日を移そうとして誤って消してしまい、しばらく、止む無く欠番としておりましたもんでした。

当初、投稿したのは2022年10月頃のことで、今となっては、全く同じものを復刻する気力・体力もなく、あぁ、ヤッチまったなぁ~という次第でした。誠に恐れ入ります。カエル

ただ、朧げに覚えております大意は、なんだっけかな?あせると、つらつら改めて下記に書いてみましたところ、概ね、その代替となるものが書けたのかなと【その2】代替版として追ってアップしてみることにしたものです。宜しくご了知くださいませ。三毛猫 ★また、2024年7月に一部追記しています。(赤色)

 

(1)自然界の食物連鎖の理と因果応報・輪廻転生にかかる思索

肉体が新しく生まれ変わる際に、前世を持つ魂が宿って今世での修養をする?という、いわゆる輪廻転生について、考えてまして、次回【その3】の冒頭に書いた、その時代に生きた人々の、人間界のモラルによる解釈?!に起因した古来からの差別と、生き物を殺して食べなくては生きていけないこの世(三次元世界)の理とも言える、自然の生態系維持・食物連鎖と、無用の不殺生をはじめとする道徳、精進料理の意義から観た一概には云々出来そうにない動物猿と植物やしの木の命の重さ軽さの捉え方にかかる思索や、人・生きとし生けるものを、性差や人種・障がい等によって差別したり、虐げて満足していた者が、輪廻転生して再びこの世に生を受けたとき、今度はその、「虐げられる受け手側に回ってみて、味わってみてごらんよー」 かもしれない…という、「因果応報」の法則で動いているのかな? なんてことを思ってみたもんでした。 そう考えて得られた果実(エッセンス)はといいますと、そこには「御相手の立場になって考えてみる」とか「自分がされて嫌なことは相手にもするな(してもらったら嬉しいことを他者にしてみよ)」といった、黄金律に通じる教訓だったのかな?でした。

 

そして、仏教で言う「不殺生」から、全ての生き物は、宇宙、自然地球の管理者(神仏)の采配により、今世での修養のために産まれてきているのだとしたら、それを、人が気まぐれに殺生して、一方的にその天寿を全うする機会を奪うことは、管理者の敷いたシナリオに抵触するのかしら?という疑問を持ったりしたもんでした。

 

◆余談1 上記の考え方から派生して、地球上の生き物には、自然界における生態系の網がかかっていて、大まかには、特定の種が突出して増え過ぎないよう、各々天敵がいる形のところ、人間は、その中で武器を開発して覇者となり、命を脅かすのは、細菌・ウイルスと、加えて、ほかならぬ人間同士!となったのかなということも思います。覇者なりに、食物連鎖を健全に維持しつつ、全ての生きとし生けるものへの配慮もいるものかな?なんていうこと、そして、嫌な展開ではありますが、人口の個体数調整を人間の同士討ちでしなくちゃなんないのかしらびっくり?なんてことにも、思い至るもんでした。そこは、人の知恵の平和利用で、なんとか上手く回避したいもんですね。おにぎり 

 

(2)この世の法と神仏視点での人の罪・刑罰の乖離の有無について

例えば、自らを相手より心理的に一段上に置いて、はなから相手を見下し、過度に不当な圧力をかけて虐め、それを楽しむといった心の荒んだ上席(パワハラ)とか、天下を取るためなら夥しい大量殺戮・生きとし生けるものと その衣食住(つまり、ものを含めた森羅万象)などを貶めることを我欲を満たすために行ったというようなかたちで、特別に、罪=「負のカルマ」を積んだら、前世から持ち越して、次に生まれたときに それを味わう側を体験する定めのかな?とか、その人の一生に生起した数々の出来事を、閻魔大王(閻魔大王様は、一説には地蔵菩薩様の化身?若しくは、時空(過去~未来やあの世とこの世)を司る管理者かな? )は、果たして、トータル(個々の言動・行為を捉えて加点減点の累積)でジャッジされるのか? 例えて言いますと、日々、人等を不快にさせたり損な思いをさせたとか、昆虫てんとうむしを知らずに踏み潰して要らぬ殺生(仏教でいう「十善戒」)をしていたとか?? かような小さな罪を為しつつも、一日一善などで、1点ずつ営々と100点近く徳積みなどして、功罪相半ばする者が、1回、マイナス100点の悪行を為せば、トータルで、多少とも情状酌量・減刑も有り得るよね、なのか、否、善行は問わず、マイナス100点のみをもってアウトと判定される理なのか、そして さらに そこで、前世までの加点減点も加味されるのか、はたまた、極めて重い負のカルマを背負ったら、もう生まれてこられずに、改心するまで記憶を消されず、ずっと地獄に居なさいという罰を受けるのか、(マハカルマ=五島勉著「アマラの法則」より引用)もっと別の観点から、亡くなった時点での思念の有様の境地によるものか? というわけで、それは、人の持つ知恵を遥かに超え、洋の東西を問わず、神仏にしかわからないことかしらん? なんてことを書いた様に思います。

 

上記は、この世の人間の知恵や理屈で下すジャッジとは、別物かもしれないですね。(それは ひとつには、死刑宣告して執行した後に、ありゃ、経緯や事実誤認がありましたとか、価値観の再評価軸がありましたーでは、取り返しのつかない場合もあり、人を反省・改心させるためでなく、見せしめと恨みを晴らすために存在するのかな?と見方も成り立ち得るのかなと。対して、「こんなことしたら こうなる規則でしたでしょ!」という犯罪抑止力や被害者遺族の留飲を下げる、という観点も、理解はできるのですが…。(叱る と 怒る が似て異なるように。)

 

ここで言いたかったことは、この世の法の裁きは、公正を期しても神仏の意思には厳密には沿いきれず、だからといって、現実には外にやりようがなく、実際、間違いではないということになるのかな?と問いたかったことでしょうか。

 

そう考えてみますと、果たして、人が人をジャッジして死刑に処す資格は果たしてあるのかな?  また他方、「ノアの方舟」の事象をも起こし得る権原が神仏には備わっていて、例えば、「あなたは、早く輪廻転生にまわりなさい(つまり、死になさい)」と処されるのかな?とか。生き物の生殺与奪の御役目も、そもそもお持ちなので…。

 

拙者は生身の人間なので、護れる命は護れたらいいなとか、回避できる災厄は、例え人間・凡夫の浅知恵でも、出来れば回避出来たらいいのにな、と、考えたくなります。生きているものは、誰だって、命を取られるのが一番嫌な筈なんで。

 

◆余談2 この世での人の地位と役割について思うこと またここで、話がそれて、派生して思いついたことに、この項ではポンと話が飛びますが、前項で書いた、上席が部下を虐めるバワハラから思うことについて、たまたま、何でもいいのですが、或るドラマや映画を観たとします。それは、脚本(シナリオ)にそって、主役・脇役など、出演者のキャストに俳優・女優さんたちが各々当てられ、その中で、上席役と部下のやりとりが描かれている形だとします。(主役・脇役という見方にも、思うところはありますが、此処では多くは触れません。ただ、主観的に見た、野球でいうと勝利打点みたいな、陰の主役は誰かなとか、または、1人欠けても話が成立しないので、全員が主役とも言えそうとか思ってみたりですね。)

 

ここで、上司も部下も、同じ人間どうしで、肩書の前に 先ず「人」同志であること、そして、各々、人間界での、就職前後のそれまでの足跡・経緯によって評価され その地位に就いていること(上席者には、その役職にふさわしいとの組織の人事に拠っていること)。このことを踏まえて、バワハラ等を行ってくる上役を見たとき、その組織のしきたりでは、彼(彼女)は、その地位に就いているけれども、他方「人」としてみたとき、上役として敬うに足る人格を備えた器か否か、部下を格下と当然に見下ろす、自身を格上の資質と認識する思念の源泉は、一体なんだろうね?と、内心思われても仕方ないケースもあるよーな?!、なんてことを思うもんでした。つまり、権威をかさに着て身の丈以上に偉そうに振る舞う上席者は、かえって下からの信を失い、就業意欲も減殺し、その資質に疑問を抱かれ慕われない、いかにも損な結果を産みはしないか、なんていうことですね。「虎の威を借る狐」トラという諺もありますね。「臆病な犬ほどよく吠える」「人の不幸は蜜の味」とかも言いますね。犬

 

そんなことを思いながら、そのドラマや映画の中で演じておられる御方々をみてますと、その劇中人物を演じるキャスト、その役どころ(役割)をこなす人ということなんだな、それは実社会でもまた然り、という感想を持つものでした。繰り返し反復して観ると気づくこともあったり…。

 

しかし、一方では、その組織で生きていく上での、大げさに言えば、生殺与奪を握られたお相手なので、クビになって路頭に迷うと、養う家族まで困るので、うまく合わせてやっていくしかない、というのが、現実なんでしょうか。そうしますと、場合によっては、部下は、上に対してイエスマンにならざるを得ない立場でもあるのかな?と、今更ながら 思い至るものでした。これは、どの組織もそうだとは流石に言わないものの、巷間言われる、人を粗末にするような意味合いを感じる「ブラック企業」という言葉から、想起したものでした。ことによると、そうしたところは、現代の奴隷を産んでやしないか!と。

 

こうしてみますと、中間管理職という役どころも大変ですね。上からも下からもプレッシャーがあり、労働組合にも入れなかったりしますから。

ま、その階層の利益を護るユニオンがあると良い反面、そこに所属したいかどうかは 個々人が その職域のそうした組織に、何をどの程度期待したいかにも拠るのでしょう。毎月、どの程度の参加費を納めるのかということもありますし。「えっ月1万円?!…そのお金で、子を塾にいれてあげられるな~?」とか、可処分所得との兼合いですね。

 

さて、この構図を、いろんなところに当てはめて観ていきますと、たとえば、A国とB国とが、戦争という名の殺し合い・壊し合いをしている時に、誰の指図によるものかを考慮すれば、敵国勢力全員を短絡して恨むのは、ちと見当違いな場合もあるのかな?とも、思い当たるものでした。

 

普段の世界では、1人殺しても殺人罪に問われるのに、戦争下では、敵兵等を、より多く殺せばそれだけ手柄になる、なんだかなー、ですね。こうした理不尽・不条理を、ひとつひとつ、解消していきたいものかもですね。ただ、背広組も含めて、戦を執行している組織にも中間管理職はいて、上意下達で動きますね。その、上意を決めているトップが、A国B国双方に居て、互いに言い分があるのでしょう。「みんな仲良くね」と 言うばかり也ですね。この、幼稚園で子供さんに教えるような事柄が、大人の事情(ここでは国益?)では、古来未だに出来ずにいる。火中の栗を拾いに行けと指図して、それで潤う向き(漁夫の利 )もいそうで。はた迷惑なんで、生き物や自然地球まで巻き添えにせず「コップの中の嵐」にしてほしい気もします。その意味で「喧嘩両成敗」とは、言い得て妙かもです。

お天道様晴れは、すべて、ご覧になっているのでしょうね。

ただし、これもまた一般論で、時と場合により、例えば、やむなく自衛のため、窮鼠猫を噛むようなケースにまで、須らくこの価値観を充ててでいいものかどうかは別でしょうね。エラく話が飛びました。以下、話の本筋へと戻します。三毛猫ねずみ

 

ノアの方舟

ノアの方舟

 

◆余談3 再臨と輪廻転生は似ているのか否か?

これも、ふと頭をかすめた余談となりますが、輪廻転生というのは、スビリチュアル的には、仏教の教える特色でもあるようですが、(ダライ・ラマ様お願いみたいに 前世は誰でした とか)  もしかすると、キリストの再臨って、輪廻転生の思想を援用しますと、「ああ、そういうことでしたか~」と、スンナリ説明できてしまうんでしょうか? これは、誠に畏れ多いことを申しました。あせる

 

(3)利己と利他の価値観軸と因果応報の理について

さて、話を戻しまして、利己(エゴ)利他(エコ)の心はどんな人にも備わっていて、自己実現など、どちらも要るものの、普段生きていく上での、他に迷惑をかけず、出来れば皆に資する形での落し処を、どう整理したものかな?という趣旨を書いた記憶です。

 

そこから、悪因悪果の連鎖(恨み合い・殺し合い・平穏・安寧の破壊などの繰り返し)から、善因善果の連鎖うずまき(恩送り・恩返しなど、佳いことの繰り返す世の中の有様)を大きな潮流へと、世の中の流れを調整するには、どうしたもんなのかな?、それにはまず、悪因縁の浄化・消除クローバーから考える順序なのかな? でも、いろんな個々の事象・ケース毎にそれに、どう対処したものか考えて見ることも丁寧に考えればスルー出来ないものの、片や、それは、凡夫の思考では、どんなに時間があっても足りないとも言え、それで敢えて汎用に当てはまる、普遍的な果実(エッセンス)を汲み取ろうとしたら、それは一体何だろーな?と。ともすれば、現実世界からは、浮世離れし過ぎかもしれないものの、それは、ひとつには、「生きとし生けるもの、みんな仲良くね?」ではないのかなと、そんなことだったのかな?と思ったりします。そうしていく中で、災禍や戦争などで無念に殺され命を失う人や不幸が多少なりとも減らせやしないかい?というわけです。

 

例えば、第2次世界大戦の悪役のスケープゴートに、かのヒトラーは位置づけられているようですが、確かに、それは従前の常識にてらして至極 正しいのかもしれない。が、そこで今般考えてみたいことは、アドルフ ヒトラーという存在を産み出したのは、第1次大戦後の戦勝国からの、当時のドイツ国家に対する過度の賠償請求など、彼の国・国民の困窮混乱を招来し、ひいては遺恨の連鎖を増幅し得る伏線があった故かもしれないよ?! と、みてみます。 国際法で戦争行為そのものが合法だったにしては、戦敗国を虐げ過ぎず、もっとそこに情け容赦のある、弱肉強食とは違う、なにがしかのノーサイドな精神が発揮されていたなら、若しかして第2次世界大戦は回避出来たか、もっと規模の小さなものに出来得たもしれないのに…と言う風に、起きた事象の背景(因果関係)を遡って紐解き、教訓を見出し、再発防止(遺恨の連鎖の芽を摘むこと)に繋げられたら、というようなことを思います。

若しこの世に人類がいなければ、核戦争は起きない。でも その代わりに、人類の成し得る人や動植物・地球地球の幸せ・衣食住・健康増進・人の知恵による災害回避・未来の希望としての極楽浄土顕現クローバーもなかったんでしょうけれど。すると人類は、どう謙虚に立ち居振る舞うといいのかが、自ずとみえてきそうかもしれないのかなと。

そもそもこの世は魂の修行の場所!?という見方がありますね。「今世では、貴方の克服課題だった、なにがしかが足りなかったね、んじゃ、来世も その修行 続行してね~」なのかもしれませんね?。人生を分相応に緩く楽しむことも、ここでいう修行の守備範囲内でしょうか。でも、そうだとしたら「そんな修行の場(である地球地球)を、その前に、住めなく潰しちゃいけないよ」とも言えそうで。「国破れて山河有り」と言いますが、核兵器使うと、山河まで駄目にしますね。

 

向日葵

 

(4)極楽浄土(次元上昇・アセンション?!)をこの世に持ってくるには

そこまで考えてみますと、若し極楽浄土(次元上昇・アセンション?!)をこの世に持ってくるには、地球丸ごと人心の浄化と善因善果の連鎖を目指すことで、人の持つ要素の「半身半霊」から、もっと霊魂(精神的境地?!)を神仏に近い境地にすべく、例えばヘミシンク フォーカス34-35以上の高度な精神的境地の獲得を目指すほかはないのかな…なんちって、それには、どんな条件整備・地ならしが要るものかなと。(若しここで、霊のみになってしまうとしたら、それは みんな死ね ということになりかねず、そこはやはり、腕をツネってみたら痛いと感じる肉体を持って生きていたいもんですね。)

 

(5)生きとし生けるものがお互いに仲良くしていくのに必要な要素は何か?

そう考えてみますと、生きとし生けるもの、お互いに、仲良くしていくのに必要なことって、一体なんなんでしょう? 感謝・慈悲・愛語・和顔施・寄付 募金・富めるものからそうでないものへの施し(個々が自ら行う富の再分配)・お裾分け…etc など、物心両面での思いやり御相手の身になってより良い状態を考える・融和・協調などが、時に応じ、緩急をいれて適度に繰り出せることになりたいものかなと。それこそは、「言うは易く行うは難し」で、こうした、徳を積む蓄積、自分磨きが拙者も出来ないままでいるんですが、まー「出来もしないことをエラそぅに言うもんじゃないよ!」と言われちまったら、それまでですが。とかげ

ただ、あわせて思うことは、道徳という概念が、特定の宗教教義に付随するものから独立して、理性的道理・普遍的な成り立ちを持つことも大事でしょうか。…必要な人たちへは、ハラル料理なども提供して もてなす配慮があることや、銃のない社会自動販売機等が襲撃されない民度の高い治安国民皆保険制度などは、わが国が世界に誇る美点晴れなのかもですね。

 

(6)「悪魔」と正義な者が不正義を為す者を滅ぼせという思考への疑問

さて、そこで、聖書やノストラダムスの言う終末預言を仮に想定したときに、まず、事象を正義不正義という観点のみで、分けて裁くのでは必ずしも よろしくないのかな?と。それでは、不正義と見做された側が救われないし、(不正義だと見做された側が、組織・団体の場合、粗野な上席者に不本意にも忖度して付き従わざるを得なかった部下・フォロワーも含めて)人心もまた遷ろうもの(諸行無常)で、ひょっとして、明日には、あなたも私も誰もが、よろしくない思念に傾くかもしれないからですね。諸行無常、例えば、「今の自分と、10年・20年前の自分とが、心身共に全くおんなじだよ」なんて人、いるのかな?と考えれば、これは自明の理ですね。ほかには、うまくいってた筈の、当初新鮮味のあった組織経営・運営手法、ふと気が付いてみたら、いつしか制度疲労していてマンネリ化していたね、とか。

 

では、そのほか、どんな尺度が適切かなと考えてみますと、世の中に起きる全ての事象は、➀メリット(利点・利益)➁デメリット(欠点・不利益)を併せて持っている、陰陽・諸刃の剣であると考えれば、より、メリットを活かしながら、併せて、デメリットを極小化する調整を為す、物心両面での自己や他者にとっての利益・不利益という観点・物差しも、なかなか有益かな?と思うものでした。例えば、物事を起こすときに、➀と➁を比較衡量し、がより上回り、が甘受出来得るレベルとなるよう工夫したうえで実施に移す、あるいは不調なら敢えて中止も視野に入れる という考え方ですね。

 

若しかして「そんな思想に永年洗脳されているから、それが現実化して良からぬ未来を招来することになるかもよ」(思っていることは実現するという思想?!)かもしれず、それなら、回避することを課題に置いて注力すればよく、古人曰く「備えあれば憂いなし」「火の用心」と言いますが、懸念に対策を施して安心を得ることで、心配の念をより減らせますね。例えば、海沿いの原発に地震の際の津波の懸念があって心配であれば、対策として消波する防波堤・テトラポット等を、沖に二重三重に設けて安心を得るとか。

 

◆余談4 世の中をジャッジする切口は、必ずしも善悪とか、利他~利己の中庸だけでもないのかもしれず、仮に犯罪や戦争は抑制して規律下に置いても、それで窮屈で息苦しい楽しくない世の中になったんじゃ、やはり神仏は、タオル投げて、「はい、そこで、仕切り直し、その演劇おしまい(中断)。シナリオ書き直し。何のための平和なの? 」かもですね。よい未来は、諸人快楽でありたく「衣食足りて(地球を潰さない地球戦争や自然・生活破壊のない環境下で)、礼節・分別と楽しみ(愉快さや面白味等)を知る」 かな? 数多ある諸々の価値観のうち、どんな価値観に相応のウエイトを置いて、次世界を構築するのかな?ですね。風雨順時 五穀豊饒 万邦共和 諸人快楽 乃至法界平等利益と言いますね。自然が上手くまわり、収穫豊かにし、みんな仲良く 快適に楽しく幸せに暮らせるのがいいのかな

ただし、このステージに行く前提として、人の魂が、犯罪や戦争などを体験することを通して〔修行=自分磨き〕を行う機会がなくてもいい程度にまで、皆、バージョンアップされてないといけないのかな?とは思ったりします。

 

さて、話を戻しまして「『悪魔』という、世の中の悪を一身に背負って固定された存在なんて、普通 なかなか いないよ」「だって、皆、生まれてから今までを振り返って、いつ何時も、一点の曇りもない善人でしたか? と問われて、イエスバイバイと胸をはって言える人なんて、まず居ないでしょ~!」 なんてことを、ぼんやり思ったもんでした。かくいう拙者もまさにその一人です。なにしろ人間だもの。いろいろ、良くも悪くも移ろいます。そしてまた、明日には悪人でも、改心して明後日には善人かもしれない。人や事物に、一概に固定したレッテルを貼って考えないのが良いケースを考慮したいかな。(悪の権化だなと思っていた御仁にも さまざまな顔があって、親しい家族や友人等に見せる顔は、案外、温和かもしれないし)

 

というわけで、「悪魔」というのは、誰の心の中にも、隙あらば知らぬ間に忍び込んでくるし、また、自らの意思(良心)で追い出すことも出来得る為「勝って兜の緒を締めよ」カブトと、常に心の片隅には、良心と自戒の念を置いておきたいものかな~?なんて思ったもんでした。

 

◆余談5 漢字熟語には、愛憎という言葉がありますね。愛の反対側には、憎が対峙するという、光と陰・陰陽・対立概念なのかな?

◆余談6 ガネーシャ神・(聖天様)という、もともとは悪神とみなされていた神様がおみえですが、その来歴・縁起は、関心があれば調べていただくとして、根気よく改心を促したのは、十一面観音様と見聞しています。どうやら、諸行無常は、天部の神にもありそうかな?ですね。そうしますと、ダキニ天様も、やはり、大日如来・大黒天との御縁で、似たようなことかな、なんて思います。

 

(7)救世主と携挙にかかる個人的妄想

誤解を恐れずに、或る観点から述べますと、聖書、全て満足に詳しく読解したことはなく、なので、終わりの時が来て、救世主が来る、という黙示録の呪縛の外に居たい氣もするんですが、2000年程前には、日本やアジア等の多くの地域は、蚊帳の外で、そんな書物も言説も知りませんでした。それで思いますことは、その呪縛から、次の良い世界を持ってくるため、そこに至るブロセスとして、一旦終わりの時を来させたい人たちが若し居るなら、自分たちだけの、コップの中の嵐でやってね、こちらは蚊帳の外で結構、巻き込まないで、なんてことも、思うものですね。(ここで、敢えて、誤解を恐れずという言い方を冠したのは、既に世界・地球地球は一つの運命共同体になっちまったことですね…。(消極的思考だと、戦はせずとも、呉越同舟の方がまだマシなのかとか。ショボーン)

 

◆余談7 終わりの時の前には、広く東方まで福音が届く、それは例えば、西洋(ヘレニズム)文明の顕れである五輪、アジアで開催される頃以降でもあると、昔どこかで読んだ記憶?!です。諸刃の剣の観方を無理やり当てはめてみますと、毎度、都市に大きな負担をかけつつ、短期間のイベントのために大きな施設建設費を必要とする五輪、上手く後年に有益で無理のない施設利用策も込みで計画してデメリットへの十分な手当を併せ持ち、その後に閑古鳥が啼いて施設の維持費がかさむ愚を抑制したいところが、いつも課題になる?ようで。ひとつには拙策かもですが、定番の世界10都市くらいで輪番開催したらいいのに~なんて、個人的には見たりもします。

 

悪魔の解釈ひとつとっても、悪魔と それ以外の善人とに峻別し固定して考えることの 違和感を上に書きましたが、終わりの時にも、救世主が携挙で救ってくれる!?というのも、取り方次第では、ややこしそうで。

 

◆以下、参考ページ👇

 

お話を戻しまして、例えば、自分は不条理に呻吟する弱者を虐げるエゴに傾倒した精神的境地に身を置くものの場合、私も入れて丸ごと救ってくれ~では、なんだか、肝腎の自浄をお任せした依存症と言えなくもないような…

 

なので、他力本願もそれはそれとして、いつ来るのか、己が救ってもらえる範疇なのか判然しないものに期待し待つに、個々人がブチ救世主になってみる、そんな人々が徐々に増えていく趨勢を、高級神霊神社卍♰は微笑みハートのバルーン、人知れず祝福花火してくれるのでないのかな? なんて思います。我こそは、アクティブに救う側にまわるぞぉ~なんで。びっくり

 

いわゆる救世主という言葉・概念が指し示すものは何かな?と考えてみますと、場面やお立場により、諸々、社会貢献の仕方はあるのでしょうが、例えばそのひとつには、「コンビニやスーバー等々、お店に出向く度に、私も、毎回、募金することにしてみよかな~?!💛」と思い至った、他らなぬ貴方!なのかも…なんてことを思ったり…あせる

 

そしてまた、そんな募金を集める側にも相応の責任がありますね。浄財札束コインを、世を良くする有益なことに活かす処や、然るべき募金団体へと渡す役割があるので。出来たら、なかなか困難かもですが、いくら何処にどんな形で使い、それで、こんな成果がありました、若しくは、期待されます。という、ネット上に、会計開示してくださる明朗会計のところが精神衛生上も良く、募金した成果確認も出来て、ベターOKかも。

 

宗教施設もまた、募金箱を併せて設けるのも、一考かもですね。人によっては定期的に通って、ぜひ御参拝しに行きたくなるというものかも~。そういえば、或る寺院にも、用途を示した募金箱、あったっけ~うずまき

 

◆余談8 一般にですが、宗教関係に税優遇の制度があることにも、改めて目を向ける余地もあるのかも?なんてことも思います。と言って、一概に清貧なら良し、というものでもないのでしょうし、より好ましい態様・制度設計の匙加減は、どの辺かな?なんて思ったりします。

 

(8)まとめ 慈悲の瞑想の掲載

というわけで、今回のお話、一言に集約するなら「みんな仲良くね」(和を以て貴しと為すクローバー)というところになんとか収束できましたんで、スリランカの仏僧の著書で読んだ、慈悲の瞑想を載せて、締めといたしたく思います。(いつくしみの瞑想)(出典 A スマナサーラ著 「自分を変える気付きの瞑想法」)ゾウ

 

お稲荷さん

 

五輪真弓 いつも そして いつまでも   至福の世が、永く続きますように~三毛猫ハートのバルーン  

 

デイブ グルーシン 映画「マイ フレンド フォーエバー(邦題)」ファイナル テーマ  

ネタバレですが、片親のうちの子二人が親友になり、その一人はエイズで、一緒に効く薬草を探しに旅に出るという映画のサントラです。

回向有縁無縁一切精霊 合掌お願い

 

伊勢神宮内宮で見た、仲睦まじい御神鶏さん鳥鳥うずまき

 

◆出典:ウィキペディア 「慈悲の瞑想」より

「慈悲の瞑想」の言葉

(日本テーラワーダ仏教協会、上座仏教修道会等で使われている作品)

  • 私は幸せでありますように
  • 私の悩み苦しみがなくなりますように
  • 私の願いごとが叶えられますように
  • 私に悟りの光が現れますように
  • 私は幸せでありますように(3回)

※こころの中で「私は幸せでありますように」と繰り返し念じる。

  • 私の親しい生命が幸せでありますように
  • 私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
  • 私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
  • 私の親しい生命に悟りの光が現れますように
  • 私の親しい生命が幸せでありますように(3回)

※こころの中で「私の親しい生命が幸せでありますように」と繰り返し念じる。

  • 生きとし生けるものが幸せでありますように
  • 生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
  • 生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
  • 生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
  • 生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

※こころの中で「生きとし生けるものが幸せでありますように」と繰り返し念じる。

  • 私の嫌いな生命が幸せでありますように
  • 私の嫌いな生命の悩み苦しみがなくなりますように
  • 私の嫌いな生命の願い事が叶えられますように
  • 私の嫌いな生命に悟りの光が現れますように
  • 私を嫌っている生命が幸せでありますように
  • 私を嫌っている生命の悩み苦しみがなくなりますように
  • 私を嫌っている生命の願い事が叶えられますように
  • 私を嫌っている生命に悟りの光が現れますように
  • 生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

今回は、ここまでとなります。オッドアイ猫 冗長で高慢な拙稿に最後までお付き合いいただき、大変おそれいりました。グリーンハーツ

それでは、今日は、そろそろ、この辺で~おにぎり

 

神様・御仏様と 拙文を読んでいただけました皆様に 感謝と敬意でお願い

 

それでは また(*^-^*)  うん しっち (愛染明王御真言)

おん あぼきや べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん

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