皆様こんばんは~!
こちらに、お越しいただき、どうもありがとうございます。
はじめてお見えの方も、どうぞよろしくお願いします。
今回は、【青い地球は誰のもの?】連載第3回目「生命と魂を考える~牛乳・鶏卵・林檎・蜂蜜の巻」となります。
★なお、この記事は、2022年10月に掲載したものの再掲です。2024年7月に捕捉・加筆しています。赤紫色で示しました。
うちのネコさん💛
普通のモラルからですと、「何言ってんだ?この人??」ってことになるのかなと思います。なので、ちょっと、これはどうも、・・・と思われる方は、適当にリタイアしてくださいね。
文献参照はしないで、頭の中の思考と記憶だけで書き進めていて、書いたことの裏取りなどはしていません。予めご了解くださいませ。
●過去記事
昭和生まれ世代の若かった、20世紀後半の頃に流行ったトレンドのひとつに、「ノストラダムスの大予言」というのがあり、 そのほかにも、当時、脚光を浴びた預言者や、その類の文献は、いろいろあったもんでした。
そうした、一連の文献を時系列的にならべて眺めてみますと、大いなる存在が、我々人類の歴史を刻みながら進む、生き様・あり様に、反省・修正して、未来へと至る際の試練・災厄を、どう回避するかの知恵を知らせていたもののよう?にも思えたりします。
そこで、その、大いなる存在が、そうしてまで、後世の私たちに伝えたくて託した、戒め・期待したものが、いったい何だったのか、私たちは、より良い未来に向かって、何を心がけて、改善・修正していったらいいのか、主観故の偏りはあっても自分なり探ってみよう~、というのが、このシリーズの趣旨です。
![猫](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/161.png)
(1)動物を食べたりすることへの日本の歴史的差別について
日本には、時の仏教解釈も関わった、四つ足の(鳥は何故除くのかな?)動物を捌くことを嫌う歴史から、それに絡む、いわゆる差別というものが、歴史的に存在してきた経緯でしたでしょうか? しかし、それを言ったら、日々、肉を、ハム
などを、美味しく食べて生きている、今日の私たち消費者全員が、まさに同質かなと思えます。ややこしいのは、欧米人のような、狩猟民族由来の、(パンも食べる雑食とは言っても) 「我々には、肉食こそが、ちょうど日本人にとっての米食
みたいなもんなんだよ~」という言い分もありそうで、そうした価値観の人たちから見れば、「日本って、昔から、なんとおかしな差別があるんだ
それを言ったら、俺たち欧米人はみんな、日本では、差別される側なのかしらん
」と、仮に思われたとしても、不思議ではないかもですね。
西洋人と日本人では、腸の長さも違うと聞いたことがありました。穀物・野菜食べて肉を食べない分だけ日本人は腸が長いとか。これ、ホントかいな 牛さんは胃を複数持ってたっけか…
(2)古代ローマでの飽食
かつて、遠い昔に、古代ローマで飽食を楽しんだ王族など富裕階級の人達は、ご馳走を、美味しくタラフク飲んで食って、そして、満腹になったらゲーゲー吐いて胃から吐き出して腹を空にして、また、飲み食いを続けて楽しんだもんだと、五島勉さんの往年の大予言シリーズで読んだもんでした。みんなが、そんな飽食を享受できたのではなくて、そこには貧富の差どころではない、人権思想の発達前の奴隷制度が当たり前の時代のことで、いうまでもなく、それに供された食べ物もまた、生きた「命の跡」ですね。
対して、現代はどうなんでしょうか。やはり、およそ5%の超富裕層と、95%の被支配層のピラミット構造に維持されようとしていないかな?という見方もあるようですね。 多国籍企業が、国家よりも上に君臨するとか、TPP条約のトリガー条項(苫米地英人さんの著書「TPPが民主主義を破壊する!」によれば、一度付けた条件は、緩む方向へは不可逆で、きつくなる方向にだけ改変される余地があるというルール)などが思い出されるものでした。今では一体どうなっているんでしょうね 条約は憲法や国内法より上位にくるので、国家主権が破壊される(例えば、立地した多国籍企業が土壌汚染などの環境問題を起こしたとしても、企業利益が保護される仕組み!?)ので、仮に これが事実だとして、若し、今も是正されていないとしたら、「なんで、こんな不条理がまかりとおるの?」と言う話かな?、ですね
制度見直しなどされて、今では、それに気が付かなかった小生の杞憂だったらイイなとは思います。勝ち組と負け組という言葉が流行って久しいですが、著しい貧富など、格差の克服もまた、人類の永遠の課題のひとつでしょうかね?
◆ここで余談(加筆事項)
この段落は、上記から派生して思い描いた、あくまで荒唐無稽な未来展望の一仮説について となりますが、若しそれが世界連邦!への布石なんだよというんなら、「実はそれ、既に準備してたのよ~」と言う人々(が若しいたら)へのインフォメーション(動機・必要性、メリット・デメリット整理、勢力・派閥毎の損得の過度な偏在解決(誰かが美味しい思いをして、誰かが貧乏くじを引くというプロセスを経ることが若し不可避なら)の態様・制度設計の練り込みなどなどかな)があって、それに皆が納得して追認したんだっけかな?なんちって…独善的で我田引水なものが勝手に進んでいやしないか?という懸念意識は、過去の歴史推移に鑑みて、有権者(基本的人権・主権在民)として持っていたいものかな?なんておもいますね。その方向(世界連邦的発想)が絶対ダメとまでは烙印を押さなくとも、なら、どんな程度の縛り~緩やかさの態様にしたものか、例えば、世界は一国家で統一政府をこしらえて道州制みたいにするのか?若しくは、EU⇒ユーロみたいに通貨統一程度で既存の各国主権がある程度存続した縛り・まとまり程度にするのか、などなど、いろいろやってみて、都度不具合を体感しつつ、逐次ベターの更新を続けていこうというような覚悟はそこにはあるのか? ひとつには、為替差益・差損という非生産的経済損得が生起する現在への現実の素朴な疑問もあってつらつら思うもんでした。それを何のためにするのか、遍く人々・生きとし生けるもの・地球などの幸せの為であるはずですね。
でもまあ、なんといってもその前提は、東西対立・宗教対立などのモメる要素が払拭された安全・安心な物的・心的環境下で考えるべきことなんだろな、とも思うもんでした。ものには順序があるなら、なにが順当な手順かな?ですね。
(3)命の尊厳についての考察(犠牲という漢字から)
ここから、牛さんの話になります。犠牲という熟語がありますが、どちらの字も「牛へん」ですね。「牛へん」をとると、「義理に生きよ」とも読めます。さて、漢字って、いつどこで誰が編み出したのものやら、すごいもんですね~。
…牛さんは、果たして、人に使役され、食われ、革をとられるのが義理の生き物だと、一体、いつ、どこで、誰が決めて固定された世の中になったんでしょう たしかに、牛肉は、栄養価が高くて美味しいんだけど…。
高級車の座席や高級家具の牛革、アルカンターラのような人工皮革で十分なんじゃないかな、と思ったりします。
連想しますと、食物ではありませんが、真珠は宝石ではないんだけれど、一粒一粒がアコヤ貝の命の犠牲の賜物でしたね。貝塚で、誰かが御霊に感謝・供養しているのかな
ほかには、絹も蚕の命
と引き換えの賜物とも言えそうですね。
日々、当たり前に使い捨てているマスク・ティッシュ・包装紙も、自然由来なら、木などの命の跡です。
コロナ華やかなりしころ、不織布マスクが大量に必要とされましたが、よく考えてみれば、家庭用オートクレーブ(紫外線滅菌消毒器)に一定時間入れたら、複数回使えたっけなーなんて後から思ったもんでした。これって衛生学を修めた人なら基礎知識だった? するってーと、食器乾燥機なんかにもついているもんなのかなぁ?
石油(化石燃料)だって、かつて生息した樹木の化石です。医薬品の素でもありますね。
スーパーなどに、食材の買い物に行って、帰って整理しますと、その都度、大量の石油由来の包装材料がゴミになります。しかしうまく燃やせば、燃料にもなりそうですね。なにせ石油の変形なんで。
ここで言いたかったことは何かと言いますと、前回お話しした、食べ物の命に対する「いただきます・ごちそうさま」の感謝の精神は、そのまま延長して、衣食住・地球・宇宙(森羅万象)への感謝の精神に繋がるものかなということでした。
(4)生き物の命を取らずに済む栄養源について
そして、そんなことに思いを巡らせているうちに注目したのは、牛乳、鶏卵
、果物
そして蜂蜜🍯でした。
仏教には、スジャータ、乳粥が出て来ますね。牛乳は栄養価の高いものですね。
牛肉を食べるには、牛さんを殺生しないといけないけれど、牛乳を搾って飲む分には、直ちに牛さんの殺生をしなくてもいいのかな~、と、思ったもんでした。
また、飼料のトウモロコシなど、人が直接食べれば、肉食牛が、未来に向かって、左肩下がりにフェードアウトしていく流れにのせれないのかな?とかですね。
また、鶏卵は、受精卵
になる前なら、そこに新たな鶏さんの魂
が宿る前とみて、命を取ったことにはならずに済むのかな?
と、思いあたるものでした。鶏卵は、ヒヨコ
が生まれて生きるに足るたんぱく源・栄養素を備えた、天然の栄養カブセル
とも言えそうかなと、思ってみたりですね。
ここで気にかけていることは、輪廻転生のためにこの世へ修行に来た魂が宿っているかどうか
と言う観点のお話です。
そして、果物(多年生植物の果実)、たとえば、林檎・梨・桃・蜜柑でもいいんですが、収穫して食べても、木の幹
は、切り倒さずに生きていて、翌年には、また実をつけてくれますね。桜
も、桜の花
に着目したら、咲いて散るけれども、さくらんぼ
の実がなって、幹
は生きていて、来年また花をつけるのかなと…そのお花の蜜を、蜜蜂が集めた蜂蜜も良さそうですね。
以上は、動植物の殺生を、なるべくなら、回避・抑制した人の食べ物の摂取の知恵は、何かあるものかいな?と、思い巡らせてみたもんでした。
撫牛さま 菅原神社
(5)動物と植物の命の重さ・軽さについて
そこで、動物の命と植物の命
について、それぞれ、どう考えたらいいんでしょうね。植物の命は、動物の命より格下だと、果たして人が決めつけられるのかな
と、ある霊能者さんに、その辺をお伺いして観ていただいたところ、「虫や、植物
の命にかかる霊・魂は、一匹に一つの単位で存在するのではなく、何十匹、何十の束でおしなべて備わっているとみるものだ。」とのお話でした。
例えば、100のその植物の種が植えられていたとしますと、仮に半分の50を刈り取っても、半分の50残しておいたら、丸ごとその命を刈り取ったことにはならない、という捉え方を示されたものでした。小さい昆虫の、蟻さん等もそのようでした。これは、初めて聞く捉え方でした。 海を泳ぐ御魚の群れ、一糸乱れず集団行動しているように見えることもあるようで。
そうしますと、改めて精進料理やベジタリアンの意義も改めて考え直したくなるものかもしれませんね
(6)昆虫も生き物 夏休みの自由研究「昆虫採集」
ここでちょっと、昆虫の話をしてみようと思いますが、昔、子供の頃に、夏休みの自由研究という、自分で決める課題というのがあって、そこで、「何しようかな?」「工作にしよっか? でも、なんかややこしそうだな、そうだ、昆虫採集にしよう~」と、タモと虫籠を持って、森林の中へ、捕獲に行く、なんてことが、あったような記憶です。
この時に、昆虫採集をやろうという意思のために、捕まって命を奪われる、自由に生きた筈の命を思いやる心が、抜け落ちていたのかなと、後から気が付くようなことでした。
殺して虫ピンで箱の中に見栄えよく並べて留めて、2学期のはじめに学校に提出。いずれはゴミとして捨てる…。
時代は移り変わり、今なら、昆虫の生態をカメラで撮って、殺生しないで済む「バード・ウォッチング」ならぬ「昆虫ウォッチング」で、生態観察のベターな道もありそうですが、今でも「昆虫採集」って、あるのかな 子供の教育は、生き物の生命の尊厳に向かうべきところかな
という気がしたものでした。
(7)核(という漢字)についての考察
植物とは言うものの、御神木様が、神社
にはみえますね。樹木、植物も大切な命です。しかも、人より、うんと寿命が長い。
千年以上生きる樹木も存在します。そして、木によっては、切り倒すと祟りがあったりするのも事実でして、そんなことを考えますと、一概には植物
の命といっても、粗末にはできないものかなですね。
さて、核ミサイルという言葉、聖書の予言では、ミサイルは火を噴く蛇として出てくるというあやしい記憶がありましたが、 核という漢字がありますね。(その意味は、コア、例えば、地球の中心部には、野球のボールの中みたいにマントル層の奥深くに、コアがあるということですが、それって、いつどこの誰が、穴掘って実際に見てきたのかな。
なんて、お馬鹿なことを思ってみたもんでした。
地磁気があるということは、鉄が溶けて沢山あるのかな?ですね?)
余談は置いておきまして、核という漢字、木と亥とに分けてみますと、まず、木は、木草、植物・自然
を大事にしないと、いけないよという意義に捉えてみたもんでした。他方、亥(イノシシ)はといいますと、これは豚さん
の意味ですね。豚さんの命を、感謝・慰霊
を疎かにして食べてきた因縁返し
が若しあるとしたら、核が降ることになってお返しが来るよ~
という、自然の摂理からの戒めとも受け取れるのかな!?などと連想してみたものでした。
こぶたさん💛
(8)殺生と魂・命の尊厳について
20世紀末頃のメディア報道を思い出しますと、海外産牛は、成長促進ホルモンを打たれ、病気予防のために抗生物質を打たれ、インクのついた新聞紙を食わされ、さらに肉骨粉飼料を食わされて同種の共食い状態を起こされ、遺伝子的におかしくなって、BSEをひき起こしたのではなかったでしたっけか
そんな朧げな記憶です。
牛さん、豚さん
、鶏さん
、生きて、青い空の下で天寿を全うしたかったでしょう。この世に輪廻して魂を持って生まれてきた生き物なんですから。
童謡に、「ドナドナドーナードーナー、荷馬車が揺ーれーるー♫」という、運ばれる子牛の定めを歌った歌があったもんでした。( ショロム・セクンダ作曲「ドナドナ」 )
こうした動物たちは、未来も80億人にまで増殖した人類の食物奴隷として生まれ過ごす地位に固定されるのかな…。
宇宙の神様は、地球だけを見ているのではなく、他の星
も併せてみておられるのかなと思います。輪廻転生システムは、どうやら、地球だけで完結しているものでもなさそうらしくて。(出典: 祥伝社刊 五島勉「アマラの法則」)
仏教では十善戒で身口意の業を言いますね。不殺生は、そのはじめに来るものでした。(生き物は皆食べないと生きていけないので、しなくても済む殺生は、と、とらえるものでしょうね。それで、お食事の際の「いただきます。」「ごちそうさま」と唱え、生きるエネルギーをくれた命に感謝の念を伝えたいものです。真摯に念じたら、ちゃんと伝わると信じています。)
※ここで誤解しないでほしいことは、そうした方面に関わるお方々を云々する意図は全くないことでした。
今の社会システムの中で、それを云々するのは、とんだお門違いで、むしろ、ご尽力のおかげで、より多くの人々に、日々、比較的安価に動物性たんぱく質が安定して供給されているという事実があります。生産者・消費者を問わず、その恩恵を得て、それを是とする社会モラルの世界にいるんですものね。捕捉しますと、むしろ、そうした役割を担っていただいていることに意識をはらうべきなのでしょう。小生も焼き肉・鶏の唐揚げは好きですね。あわせて、乳製品や植物・魚由来のタンパク質も日々何らかのかたちで併せて摂っています。魚肉ソーセージは子供のころ好物でした。納豆食べたーいぃ
また、もちろん直ちにその殺生をなくせないのは言うまでもないとしても、いただいた命に感謝する習慣と合わせて、鯨のように、余すところなく大切に使い切るという「もったいない精神」は、この国の美点の一つなのかもですね。例えば、本革の服や、家具にしても、一旦作ったら、粗末にせず長年大事に労わって使い続けようという思いもまた、蔑ろにできないような気がします。車のシートなどもですね。なので、個々の人々の意識の持ち方も、頭ごなしに言うのではなくて、時間をかけつつ、その価値観に基づいた発想が自身で納得・消化し得るのかを待つような、自発的な思いの発芽を待つような鷹揚な姿勢も心得たいことなのかもしれませんね。
(9)未来への課題は何か
遠い、何千年か、何万年も先の未来を見据えて、これから、何が理想の未来の姿なのかを考え、そこに向けて、少しでも、世の中を改善していくんだとしたら、どんな現状の不条理に、どんなふうに、一歩一歩、手を付けるのかな?という、絶え間ない模索がいるんではないかな(ベターの上塗り)とみて、そのひとつに、命の尊厳の問題は、避けて通れない課題なのかなと見えたものでした。(殺生以外にも、世の中、不条理は多いじゃないか~ですが、今回は殺生をテーマにしています。)
「自分がされたら嫌なことは、他人にもせず、自分が喜ぶことを他人にもせよ」(黄金律)これだけ出来れば御の字かなと思いますが、そぅは言っても、これはとても難しくて、例えば、同じ事されたら嫌だろと言っても、うっかり知らぬ間に、歩いていて蟻さんを踏み潰しても、殺生のひとつにカウントでは、とても現実にやっていけない窮屈な話になりますね。この世は、動植物を食べないと生きていけない理なのに、誰しも命を取られるのが一番嫌なことで・・・という、いまさらながら、どうにもならないこの世の矛盾を感じます。そう考えますと、より高次元の存在、神仏
・自然
・地球
・宇宙
の境地からみて、どう改善の余地があるものかな
と言うことなんでしょうかね
で、今般のテーマとなったもんでした。
いきなり、ワンアクションで、一気に極楽浄土が出現するのではなく、現実から理想へと、ベターな選択を繰り返し、螺旋階段を一歩一歩上がるように、徐々に改良する行脚の連続なのかもですね。そしていつか、気が付いた時にはアセンションを達成していた、なんていうものかもしれないな
などと考えるようにしています。
山ねずみロッキーチャックという、昔、子供のころにテレビで見ていた動物アニメがありましたが、そこで、動物たちに、怖い、恐ろしい存在として描かれていたのが人間!でした。なにしろ、銃を持って撃ち殺しに来るし、罠を仕掛けて帰っていくので。
五島勉著「アマラの法則」という本に書いてあったことですが、御仏様(弥陀如来)の大きさについての記述があって、それは、ひとつの星雲・ギャラクシーほどの大きさの意思を持った知的生物なのだということでした。宇宙には、そんな御仏様が、無数におられるんだよとも、書かれていたような記憶です。まだ、うちにあるはずなので、探して、改めてよく読んでみたい本でした。
また余談ですが、西遊記の中の孫悟空、自らの能力を過信して、もう此処が宇宙の果てだと思うところまで飛んで、そこに小便をひっかけて帰ってくるんですね。しかしそれは、大きな大きな御仏様の掌の上でしかなくて、ほとんど動かなかったに等しいというお話でした。(悟空という名前は、空を悟っている、般若心経を理解している猿?ということなんでしょうか?) そう言えば、昔、「猿の惑星」
という意味深長な映画があったもんでした。
悟空⇒59⇒ウク(受く・愛く)を連想します。御供もでした。還暦60の前夜の数字でもありますね。たしか、過去の日本の最高齢者の御方は、御年120歳近くまで経られたと記憶しています。皆が健康年齢を維持していけるといいですね。南無無量寿経
キリスト(964 10)という言葉の音を数字変換してみますと、キというカ行の音を五段活用してみたら、コロス(カラスも)とでますね。564ともいえそうで、これは、殺生・生死にかかるテーマがかくされていたとみることが出来得るのかもしれませんね。なんちって^^;
(10)結び~人工肉~食物にかかる命の問題の発展的解消~
1960年代に放映された、スタートレック(邦題:宇宙大作戦)を視ていますと、滅多に出てこないシーンでですが、宇宙船エンタープライズ号の中で、乗組員の人達が、電子レンジみたいな取出口から、ワンタッチで出てくる食べ物を美味しそうに食べているシーンがありました。…半世紀たった今見ても、未来的で面白いので、また視てみよう~ 他の星で摂れる?宇宙小麦も出てきますね。
前回も書きましたが、今、世界の中では、大豆など由来の人工肉(代替肉)の開発が、実際の商業ベ-スにのせるべく、既に始まっているそうでした。過去にNHK BS1で放送していました。ほかにも、微生物と空気と水を使った食料の開発も手掛けられているそうでした。こうした取り組みが、人類の食糧難の解決に向けて、上手く実を結べばいいな~と思うようなことでした。
※ただし、ですが、こうした代替肉の成り立ちの安全が要注意ポイントで、遺伝子組み換え技術などを駆使していたりしますと、健康被害の出るものかどうかが気になります。摂取しても全く人体に害のない安全安心なものであることが、こうした食べ物の大前提となりますでしょうか。現代~近未来の科学(化学・生物学等)に期待いたしたいものかなと思います。
いわゆる弥勒の世(極楽浄土)という境地が若しあるとして、この世に引き寄せるには、どうしたものか、それには、生きとし生けるものすべてが、遍く円満に融和共存するため、お互いに食物連鎖によって食べあっていきつつも、併せて、自然界の命・魂・森羅万象のバランス取りの配慮を、宇宙・地球の意思が、「それでいいよ~」という落としどころに持っていく、ということなのかな?と思うもんでした。この世の輪廻転生システムの健全化ですね。(人の世の格差や、生活を営む上での不安や制約の解消が順序は先かもですが。それはそれですね。
)
それは、単に殺生の在り方にとどまらず、遺恨の連鎖の悪因悪果を縮小・浄化しつつ、善因善果の連鎖を増幅して、「遍く、みんな仲良くね」を図っていくことかなとも思えます。それは、全ての人種・職種・人々や個々の動植物・生き物等の中に、突出した偏見・差別や、蔑ろにするハブケを作らないということかななんてことを、思ったもんでした。
御釈迦様は、そもそも、誰かを省けにしようなんて思っていなかったでしょうと思うんです。ただ、観るべきは、「人でなし」でしょうね。人々~神羅万象にとって、盗人(ぬすっと)か助っ人(すけっと)か?という観点ですね。
ま、人それぞれ、多様な価値観・人生観のもとに生きているんだと思います。中には、こんなこと思っている人もいるんだなぁ~と、寛い心で観ていただければ幸いです。
今回は、ここまでとなります。
冗長な拙稿に最後までお付き合いいただき、大変おそれいりました。
それでは、今日は、そろそろ、この辺で~
衣食住に苦も無くこんなことを書く暇を与えてくださった神仏と、
ここまで拙稿をお読みいただけた皆様に 感謝と敬意で
それでは また(*^-^*)
なうまくさんまんだ ぼだなん ぼろん 合掌
おん ガネーシャ そわか
●今日の1曲 五輪真弓 いつも そして いつまでも