家族が次々とガンで亡くなっていく中、わたしもいつしか、必ず自分はがんになると思うようになりました。特に若くしてガンでなくなった叔父の事を思いだすと、20代は常にそれにおびえていたように思います。がんになることにおびえていたのが大きな原因でしょう。私も29歳の時にがんが見つかりました。それもすでに大人のげんこつほどの大きなガンでした。しかも何の因果が父親の時とほとんど同じ場所でした。
大学卒業直後に父がなくなって、実家の会社を父の代わりに盛り立てるべく2年間ほど経営を支えましたが、畑違いの業界で右も左もわからず、家族からは父親の役割を求められて、自分自身の人生の目標を失い迷走の日々をおくっていました。
24歳の終わりに、実家の会社を人に任せ、人生の転換点とすべく海外留学を決断。渡米し、ロサンゼルスで語学研修をしながら幼児虐待の被害者のケアをしている団体でボランティア活動をしました。ボランティア活動を通じまだ私も世の中のためになることができるのではないかと考え、国際機関への就職を次の人生の目標に定めて、大学院への進学を決意しました。
2年の準備期間を経て、2006年、ニューヨーク州にある某大学の大学院に進学.そこで国連OBの教授に出会い、国連ニューヨーク本部広報部でのインターンをしていました。修士論文も終わり卒業後もしばらく国連にいて、当時の上司の勧めで採用試験を受けることが決まったころ、おなかに違和感を持ち病院へ。上行結腸癌と診断されました。
[運命の出会いその1]
ホームドクターの紹介でかかった胃腸科の専門医がなんと偶然“病気にならない生き方”の著者、新谷弘実先生でした。この衝撃の出会いは私の人生を大きく変えることになりました。検査を終えた私に新谷先生はまるでただの風邪かのように
“あなた、これはがんだよ”
とガンを告知し、“まだ死にませんよね?”という私の問いも
“あのね、残念だけど人はそう簡単には死ねないんだよ。”と。
この瞬間に私の中の“がん=不幸、恐怖、混乱、死”の方程式が“がん=風邪と変わらない”に変わった気がしました。あんなにデカいがんの画像を見せられたばかりなのに全く不安を感じなかった。あぁ、私はまだ大丈夫なんだと思いました。まるで風邪です。と言われたのと変わらないような感覚でした。
新谷先生は化学療法はしないし、手術も腫瘍が小さければできる限りしない。という方針でしたが、私の場合は大きかったので手術を受けました。新谷先生の紹介のイスラエル人の優しいおじいちゃんの外科の先生でした。いつクリニックにいってもやさしく温かく、”Hi my dear !!” と迎えてくれました。そしてドクター・シンヤの療法を守ればなんの心配もないよ、僕も彼を信じているからと言ってくれました。
何度も日本で家族のがん手術や入院に関わってきましたが、アメリカのそれは日本とは全く違うものでした(今はだいぶ変わったらしいですけどね)。
”手術の朝5時病院集合、1週間で退院”
おなかを切ったにも関わらず術後5日目にはサーモンソテー、翌日にはチキンの塊が食事に出され、翌日には退院。退院後2日で国連にも復帰しました。すべてがあっという間のできごとでした。昨日まで元気だった人にがんだと言われて入院して、その後どんどん重病人になっていって最後には亡くなるという、これまで何度も見てきた光景に大きな疑問と違和感を抱かずにはいられませんでした。日本でよくある長い検査入院、術後の入院、過剰なまでの病院のケアや周囲の過剰な心配、不安などが、患者に病人を演じさせ、また不安に陥れ、本当の病人にしてしまうという仕組みだったのだと気がつきました。その後の治療も特になく病気に後ろ髪をひかれることなく完全に普通の生活に戻ることができました。長引く風邪よりあっさりものでした。
病は気から。 昔の人はよく言ったものです。
がん患者とがん患者の家族の両方を経験して、両方の思いが分かったこと、新谷先生が言うように、がんになったからといって大げさにしなくても、人間は簡単には死ねないことを実感したこと、病人は自分でなるものだということを学んだことから、この体験を活かし、日本にたくさんいらっしゃるであろう、がんが原因で楽しく生きることを忘れてしまった人たちがより良い人生を送れるような活動をしようと決意し日本に帰ることを決めました。そしその手段として、ヒプノセラピーにであったのです。
つづく・・・