「アノミー」は、フランスの社会学者、エミール・デュルケーム(Émile Durkheim, 1858-1917)が社会の様態を指す際に使った用語。初出は『社会分業論』でしたっけ。この社会分業論は、社会の近代化・高度化が進むと職業の細分化が進むというお話。もう少し掘り下げてみましょう。
社会ってのは人と人との支え合いで成り立っておるものでございまして、ウホウホ言いながらマンモスを追いかけまわしていた原始時代の頃から、狩りに行くヤツ、縄張りに残って食事の支度をするヤツ、果物などを取ってきてもう一品おかずを作るヤツ…みたいな感じで、ある程度分業されていたと思いますが、社会が近代化・高度化するにしたがって、食肉用家畜の牧場の経営者、その家畜が病気になった時に治療する医者、食肉加工する業者、加工した肉の卸売業者、取引でインチキしていないか監視する役人…みたいな感じで、役割が分業化されていきまス。この分業化がざっくりしている牧歌的な状況では、分業化された職業のそれぞれが近代化する社会をうまく機能させるために必要なものだという連帯意識というか認識みたいなものののもとで、各々がお互いにリスペクトしながら自分の仕事を全うし、助け合って生きていくわけです。和気藹々としたいい社会デース。
しかし、この分業の細分化が進み、高度に専門化していくにしたがって、それぞれの仕事が社会全体を回していく上でどう重要なのかということが分かりにくくなり、「なんかしらんけど、成り行きでこの単純作業やってるんだよねー。」みたいな感じになってしまいます。細分化された業務のスペシャリストは、その業務が他の業務とどう関係しているのかあまり考えずに、「オレっちはすごいんだぜ!」と言い、同業者や異なる分野の人にマウンティングするようになっていきます。そういう過度な分業化の中で、各職業の連帯意識は薄れていき、自分は自分、人は人という考え方に至って他者とのつながりをシャットアウトしたり、また他の人々を見下したりするようになりまス。こうした「オレっち最高!」の蔓延で、冥々が個別に好き勝手なことを言ったりしたりし、自分がいかに優れているか(あるいは他人がどれだけ劣っているか)を言い放ち、自己顕示的な欲望を満たすだけの、異常な無秩序状態になるわけですナ。こうした行き過ぎた専門分化の中で、各々が「オレっち最高!」「俺は俺の道を行く!」を吠えまくりながら他人を足蹴にしあって、社会に通底するはずの価値観が忘れられてしまいます。そんな状況下で相手が屈服するまでボカスカやりまくる無秩序な社会状態を、デュルケームは「無法状態」を意味するギリシャ語の「アノミア」をフランス語風に直して「アノミー」と名付けたわけですナ。本来社会的連帯を創出するはずの分業化が、社会成員に個人主義を無規制的に増長させ、社会共通の価値観やら規範意識やらを崩壊させるという『社会分業論』で示されたアノミーの考え方は、高度化した今日の社会の病理を、今でも言い当てるだけの説得力を持っております。
社会状態としての「アノミー」において、個々人の有様はどうなっちゃうのかというところに焦点を当てたデュルケームの著作が『自殺論』でございますネ。鶴見済の『完全自殺マニュアル』の理論編ではありません。
デュルケームは、それまでプライベートな自傷的殺人行為としてテキトーに片付けられてきた人間の自殺に、社会がそういう行為に走らせる引き金を引いたのではないかと考えたわけですナ。
で、デュルケームが自殺者データをせっせと集め、自殺与件の遺書やら何やらの個人的事情を差し引いて考えた、自傷的殺人行為の類型が、以下の四つであります。

1.自己本位の自殺
個人主義の色合いが濃く、社会的な連帯感が希薄な社会で起きやすい。頼る人もなく、悩みを人にも打ち明けられない孤独な状況の中で、自分は社会にとって不必要な人間だとか自己否定的な観念を自分で刷り込んで自己評価をとことんまで下げ、あげくに自らの命を絶つ。
2.集団本位の自殺
集団主義の色合いが強く、社会的な連帯感が強い社会で起きやすい。所属社会の成員による有言無言の圧力により、自己犠牲的なところにまで追い詰められて命を絶つ。何かの儀式での生贄とか、日本の武家社会における切腹とか、キャリア官僚が「悪いのはすべて私です」などと遺書を残して川に飛び込むとか…。
3.アノミーによる自殺
社会規範の瓦解したアノミー的社会の中で、際限なく広がる自らの欲望の赴くままに日々を過ごして破綻した挙句、経済的に行き詰まったり、痴情がもつれたりして、自分で自分の首を絞めてしまって死に至る。「何もかもめんどくさくなっちったしー、とりあえず死んどくか」みたいな、放埓の果てでございまス。
4.宿命による自殺
強固な社会規範が働いている社会において、その規範に追い詰められて死を選ぶケース。坂田山心中みたいなヤツですナ。

デュルケームの集めたデータ、その分析の不備や、現在の社会情勢がデュルケームの生きていた頃よりも複雑になっているという批判はあります。この類型の分け方も、正直ドウナンダ!ということで、社会学研究の中で度々再考されております。しかしまぁ、自殺する人間が行為に及ぶにあたって理由としていたものを信用せず、その本人の意識しないところで働いていた自殺に駆り立てる力のようなものをどうにか把握しようとする努力が『自殺論』の真骨頂なわけでス。人が生活する社会の在り方が、人の行為や心持ちに影響するってことを実証しようとした点で、デュルケームは社会学の大先達なのであります。

さて、デュルケームは、自殺という行動に焦点を当てて、社会の有様が個人にどんな影響を与えるのかを考え、「おれは何からも縛られない!自由だー!」という状況が人を死に駆り立てるということを明らかにしました。行き過ぎた自由は魂を死なせてしまうのであります。この自殺を犯罪行為(逸脱)に読み替えて、デュルケームが成しえなかったアノミー社会でのアノミー的犯罪のカラクリを考えた代表的人物が、アメリカ人社会学者のロバート・キング・マートンでありまス。
マートンは、社会について、ただ人が集まっているだけでなく、その成員同士で様々な関係―社会構造を作り上げていると考えます。で、その成員たちは、成員同士が共有し、自分たちの行動の指針となる価値や規範の体系としての文化構造を持っています。文化構造の中で特に重視されるのが、文化的目標(何のために社会構造を形成し、その成員として働いているか)でス。そして、その目標を達成するための手段の制度的合法性(制度的手段)が規範になるわけですネ。
仮に文化的目標を「そこそこの金儲け」として、制度的手段を「地道で堅実な商売」としましょう。つまり、この仮説における社会構造は、そこそこの金を儲けるために、地道で堅実な商いをするのが是とされます。この文化目標を「もっともっと金儲け」に切り替えた時、その文化目標と制度的手段の是非を巡って、社会構造の中で緊張が起きます。社会構造におけるこの緊張による文化構造自体の破壊が、アノミーなんですナ。
「もっともっと金儲け」をするのに「地道で堅実な商売」をより堅実にやっていけば達成できると考えるならば、これは文化目標と制度的手段も守られる「同調」(Conformity)なので、アノミーにはなりません。これ以外はアノミーの傾向に分類されます。
「もっともっと金儲け」をするのに従来の「地道で堅実な商売」ではやっていけないので非合法の方法でグヘヘ…という場合は、従来の制度的手段を拒否するので「革新」(inovation)。
そもそも「そこそこの金儲け」でいいじゃないかと、文化目標を否定し、制度的手段の順守にこだわるのは「儀礼主義」(Ritualism)。
「もっともっと金儲け」にも首肯せず「地道で堅実な商売」も否定するようなのは「逃避主義」(Retreatism)で、この立場にいる人は社会構造の持っている価値観に準拠しないので、その構造の成員からよそ者(alien)扱いされまス。
で、「何が金儲けじゃー!目標は世界征服じゃー!」「地道で堅実な商売などぬるいわ!侵略じゃ!侵略あるのみじゃ!」みたいな、文化目標と制度的手段の両方を拒否するだけでなく、両方の刷新を求める立場を「反抗」(Rebelion)と呼びます。

デュルケームの知見からアノミーを回避するために言えることは、「自分は自分、人は人」を厳格に適用して自己と他者を分断するのではなく、松尾芭蕉が「秋深き 隣は何を する人ぞ」と詠んだように、まず自分の周りから目配りをし、その視野を広げていくことが必要だということです。もちろん、隣人に迷惑がられるような絡み方をすれば諍いのもとになりますが、適切な距離を保ちながら、「自分は自分ひとりで生きているのではない」ということをお互いに噛みしめ合う、思いやりの素地を織り上げていくことが、これからの社会では求められていくのでしょう。昨今の疫病で物理的なフェイス・トゥ・フェイスの関係が分断され、それが常態化しつつある昨今において、我々は、他者に思いを寄せたり、労わったり、気遣ったりする、社会的連帯の意識を持ちにくくなっています。疫病という脅威だけでなくアノミーへの脅威も忘れちゃいかんのですナ。
マートンの知見から我々が考えるべきは、我々が社会構造の成員であるとして、我々が背負っている文化構造の問題点の洗い出しでございます。我々の文化目標が正しいかどうか、それを達成する手段が正しいかどうか。また、今の状況がアノミーに近づいているのであれば、確固たる文化構造を皆で考えて打ち立てなければいけないのでしょう。そこンところで「そんなの考えるのはダルいんで、頭のいいひとでテキトーに考えてヨ」などと、安直な委任状で済ませた場合、その「頭のいいひと」がペテンだった時、ひどい目に合うのデス。どうせアノミーに突入するんだったら、逃避するのではなく、旧弊的な文化構造に前向きに反抗しませう。