遊びと人間 (講談社学術文庫)/講談社

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第二次世界大戦が終わった頃、「ホモ・ルーデンス」という言葉がちょっと話題になったことがあります。日本語に訳せば「遊ぶ人」ですね。
この言葉を正面切って使ったのは、オランダ人学者のヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(1938年刊)です。
ホイジンガは、この本のなかで「遊び」の特徴を以下のようにまとめています。
・自由意思に基づいて行われるもので、他者から命令されて行うものではない
・他の行為から空間的・時間的に隔離限定されているものである
・結果がどうなるかはわからない
・独自のルールがある
・現実社会の利益等とは関係がない(非生産的である)
現実生活とは関係のない、どうでもいいことをゴチャゴチャやっている「遊び」は、禁欲的で勤勉な労働と区別されて不真面目なものとして扱われ、人間文化の中でも特に無駄なものとみなされていました。
教育の分野が、この「遊び」を拾い上げて、労働の練習といったほどの意義付けをしていましたが、所詮は実利を生む労働よりも格下のシロモノだというのが、ホイジンガ以前の一般的認識でした。
ホイジンガは、この「遊び」が政治・法律・宗教・学問・スポーツ・戦争など、人間の文化・歴史的なあらゆるもののルーツだと考えて、それぞれに含まれる「遊び」の精神を説明しようとしました。
勤勉真面目が礼賛され、「遊び」が見下されるご時世に、不真面目の象徴ともとれる「遊び」を文化のルーツに敢えて据えたホイジンガの説は、「遊び」のコペルニクス的転回というに留まらず、人間の在り方に一石を投じるものとなりました。
このホイジンガの説を整理して先鋭化させたのが、フランス人思想家のロジェ・カイヨワです。
カイヨワは、『遊びと人間』(1958年刊)で、ホイジンガのいう「遊び」を次の4つのカテゴリーに分類しました。
・アゴン(競争)
・アレア(偶然)
・ミミクリ(模倣)
・イリンクス(眩暈)
さらに、「遊び」ならではのルールの厳格さについても、厳格な制約のあるものをルドゥス、制約のゆるいものをパイディアと分類しています。大概ゲーム名がついていて、ルール・ブックがあるものは、ルドゥス的なものと考えていいでしょう。
アゴンとして想像しやすいものとしては、スポーツ競技、将棋や囲碁、点数を競うクイズ・ゲームが挙げられます。
アレアとして想像しやすいのは、出たとこ勝負なバクチやジャンケンなどが挙げられるでしょう。
ミミクリで想像できるのは、ロール・プレイやものまね、ままごとや積み木、粘土遊びなどがありますが、アイドルに憧れを抱いて追っかけるのも含まれます。
イリンクスは、スキーやメリー・ゴーランド、ジェット・コースターに乗ったりバイクで爆走したり、バンジー・ジャンプをしたりして、スリルや不快感、不思議体験を逆手にとって楽しむ物を含みます。
こうしたカテゴリーは、一つの行為に複合・多元的に存在するものでもあり、例えばスポーツなどは、競技者にとって、順位を競うという目標ではアゴンだといえますが、ミスの可能性にフォーカスするとアレアとなり、フェイントやチート行為で目くらましをすれば、イリンクスの領域まで含まれます。応援者が「俺は応援することでアイツと一緒に戦ってるんだ!!」等と言っている場合などは、応援者はミミクリのカテゴリーで競技者と同一化したり気分を共有しようとしたりして楽しんでいるということになります。
こうして翻ってみると、「遊び」は、それを生業としない限り、やってもやらなくてもかまわないものです。
ならば、そんなやらなくてもいいことを、何故人間はやってしまうのでしょうか。
カイヨワは、人間はそもそも、生きていくのに不可欠なエネルギーを常に超えた状態にあり、そのエネルギー過剰状態を発散するために、人間の諸能力を使わざるを得ないのだと考えました。
こうした過剰エネルギー消費のための能力の無駄遣いが、「遊び」であり、この「遊び」が文化の源泉だというのが、カイヨワの「遊び」論なのです。このカイヨワの「遊び」論から導き出される文化遺産は、人間の能力の無駄遣いの吹き溜まりということになります。そして、その有形無形の吹き溜まりを作ったり壊したり保存したり更新したり消失させたり再構築したりしながら、人間は、その役に立ってるのか立ってないのか良く分からない能力を練磨したり開発したりしているンですね。
さらに、ミミクリとイリンクスに基づく「混沌的」社会からアゴンとアレアの優位な文明化された「計算的」社会への移行をカイヨワは熱く語っております。
このカイヨワ流の社会進化論は、「遊び」論の応用として高く評価される一方で、普遍性を持つかどうか疑問視もされているわけですが、「混沌的」な社会でミミクリだのイリンクスだのとカイヨワが語る時、第二次世界大戦中のドイツ国民がヒトラーに群がり、ヒトラーが演説で国民を巧みに心理操作する様を思い描いていたのではなかろうかと、勝手に考えております。

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第二次世界大戦が終わった頃、「ホモ・ルーデンス」という言葉がちょっと話題になったことがあります。日本語に訳せば「遊ぶ人」ですね。
この言葉を正面切って使ったのは、オランダ人学者のヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(1938年刊)です。
ホイジンガは、この本のなかで「遊び」の特徴を以下のようにまとめています。
・自由意思に基づいて行われるもので、他者から命令されて行うものではない
・他の行為から空間的・時間的に隔離限定されているものである
・結果がどうなるかはわからない
・独自のルールがある
・現実社会の利益等とは関係がない(非生産的である)
現実生活とは関係のない、どうでもいいことをゴチャゴチャやっている「遊び」は、禁欲的で勤勉な労働と区別されて不真面目なものとして扱われ、人間文化の中でも特に無駄なものとみなされていました。
教育の分野が、この「遊び」を拾い上げて、労働の練習といったほどの意義付けをしていましたが、所詮は実利を生む労働よりも格下のシロモノだというのが、ホイジンガ以前の一般的認識でした。
ホイジンガは、この「遊び」が政治・法律・宗教・学問・スポーツ・戦争など、人間の文化・歴史的なあらゆるもののルーツだと考えて、それぞれに含まれる「遊び」の精神を説明しようとしました。
勤勉真面目が礼賛され、「遊び」が見下されるご時世に、不真面目の象徴ともとれる「遊び」を文化のルーツに敢えて据えたホイジンガの説は、「遊び」のコペルニクス的転回というに留まらず、人間の在り方に一石を投じるものとなりました。
このホイジンガの説を整理して先鋭化させたのが、フランス人思想家のロジェ・カイヨワです。
カイヨワは、『遊びと人間』(1958年刊)で、ホイジンガのいう「遊び」を次の4つのカテゴリーに分類しました。
・アゴン(競争)
・アレア(偶然)
・ミミクリ(模倣)
・イリンクス(眩暈)
さらに、「遊び」ならではのルールの厳格さについても、厳格な制約のあるものをルドゥス、制約のゆるいものをパイディアと分類しています。大概ゲーム名がついていて、ルール・ブックがあるものは、ルドゥス的なものと考えていいでしょう。
アゴンとして想像しやすいものとしては、スポーツ競技、将棋や囲碁、点数を競うクイズ・ゲームが挙げられます。
アレアとして想像しやすいのは、出たとこ勝負なバクチやジャンケンなどが挙げられるでしょう。
ミミクリで想像できるのは、ロール・プレイやものまね、ままごとや積み木、粘土遊びなどがありますが、アイドルに憧れを抱いて追っかけるのも含まれます。
イリンクスは、スキーやメリー・ゴーランド、ジェット・コースターに乗ったりバイクで爆走したり、バンジー・ジャンプをしたりして、スリルや不快感、不思議体験を逆手にとって楽しむ物を含みます。
こうしたカテゴリーは、一つの行為に複合・多元的に存在するものでもあり、例えばスポーツなどは、競技者にとって、順位を競うという目標ではアゴンだといえますが、ミスの可能性にフォーカスするとアレアとなり、フェイントやチート行為で目くらましをすれば、イリンクスの領域まで含まれます。応援者が「俺は応援することでアイツと一緒に戦ってるんだ!!」等と言っている場合などは、応援者はミミクリのカテゴリーで競技者と同一化したり気分を共有しようとしたりして楽しんでいるということになります。
こうして翻ってみると、「遊び」は、それを生業としない限り、やってもやらなくてもかまわないものです。
ならば、そんなやらなくてもいいことを、何故人間はやってしまうのでしょうか。
カイヨワは、人間はそもそも、生きていくのに不可欠なエネルギーを常に超えた状態にあり、そのエネルギー過剰状態を発散するために、人間の諸能力を使わざるを得ないのだと考えました。
こうした過剰エネルギー消費のための能力の無駄遣いが、「遊び」であり、この「遊び」が文化の源泉だというのが、カイヨワの「遊び」論なのです。このカイヨワの「遊び」論から導き出される文化遺産は、人間の能力の無駄遣いの吹き溜まりということになります。そして、その有形無形の吹き溜まりを作ったり壊したり保存したり更新したり消失させたり再構築したりしながら、人間は、その役に立ってるのか立ってないのか良く分からない能力を練磨したり開発したりしているンですね。
さらに、ミミクリとイリンクスに基づく「混沌的」社会からアゴンとアレアの優位な文明化された「計算的」社会への移行をカイヨワは熱く語っております。
このカイヨワ流の社会進化論は、「遊び」論の応用として高く評価される一方で、普遍性を持つかどうか疑問視もされているわけですが、「混沌的」な社会でミミクリだのイリンクスだのとカイヨワが語る時、第二次世界大戦中のドイツ国民がヒトラーに群がり、ヒトラーが演説で国民を巧みに心理操作する様を思い描いていたのではなかろうかと、勝手に考えております。