脳死臓器移植に感じたこと | akyoonの異端の医学と不思議な情報

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医学や健康医療の【トンデモ論】を主としています・
本人はいたってまじめ。 しかし自分で自分を検証できないので、眉唾と取捨選択が必要。

      《 脳死と臓器移植に感じたこと
              1999,3,10   himaari

ここBBS8番掲示板にて、「臓器移植に物申す」という論文を読みました。
なるほど!と思うばかりで、私には専門的な詳細な原理は分かりませんが、まったくその通りとしか思えませんでした。
もちろん、善意によって行われる当事者方の心情も理解出来ないものでもありません。
人は、生きようという思いで必死でいることは、よく分かるからです。
だから私が横からチャチな論を入れて、その方たちの気持ちを悪意をもって踏みにじる様な気持ちは毛頭ありません。
ただ、そこに善意とか悪意とかの心情的な線を越えた、高所のところから考えてみることも必要なのではないかと思う次第なのであります。

これは、「私個人はこう思う」という、「ひとつの見方」としてとらえて戴き、今後においての何かの気づきの材料にでも,という思いで感想を書いて見ました。
ただし、「絶対にそうであるから」という様な、押し付けの意見ではないことをお断りしておきます。

◎臓器移植手術はなぜ行うのか?

答えは、当然ながら、「それが必要だから」ということになるのでしょう。

私はその答えの前に、病気というものを単純に考えて見ました。
人の「病気」とは個々に見ると、非常に複雑にして、原因も特定できないほどのさまざまな原因があると見なされているようです。
しかし、
私はその病気をただ一つの原因から発生していると見るわけです。
その原因とは血液の汚れ、つまり体内の濁血からすべての疾患(病気)が起こると見るものです。
「濁血」とは、本来、清浄な血液が、いろいろな原因によって、血液中に毒素が増えることにより、起こると考えています。

すると、毒素は身体各局部に集溜されて、だんだん固結して来ます。
その集溜毒素のため、身体各器官、臓器等が障害を起こす事になります。それが、内臓器官に集溜した場合、心臓に集まれば心臓疾患、肝臓に集まれば肝臓病、腎臓の周囲に集まって腎臓機能障害などと考えます。

では、その治癒にはどうすれば良いかというと、単純に考えると、その集溜毒素を排除することによって解決出来るわけです。
しかし、理屈は簡単であっても、その方法は意外と難しいようなのです。
なぜなら、現代医学ではそれを出来ないと言っても良いのではないかと思うのからなのです。

その理由として、医学の主な治療法としては、まず薬剤となるのでしょう。
しかし、「薬によって体内の毒素を排除できるか」というと、それはきっと不可能なのでしょう。
薬とは、あくまで「症状を一時的に抑える」という対症療法の手段であるからです。
なほ、まずいことには、薬が毒素を排除することは不可能というばかりか、その使用する薬剤そのものの毒性物によって、さらに血液を汚濁させてしまうとい悪循環が生じてしまうことにあります。
そのために、一時的に抑えたつもりが、いずれは、再びその臓器や器官にさらに障害を与えたり、ほかの器官にも障害を加えてしまう結果が起こり得ると考えます。
そこで医学は・・・次に手段として、手術によって取り去る。

「手術」・・・・事故による傷害などと違って、内的疾患に対する手術は、以上のことから必要悪として、ごく一般に当たり前の様に行われているものでしょう が、ちょっと考えて見ると良く分かるのですが、薬によってでは、体内毒素、濁血を除去できないことを表明している事になるのでしょう。

しかも、手術では毒素だけを取り去る事が出来ない事も明白なわけであります。
よって、手術とは、毒素によって障害を起こした内臓器官を取り去ることで、原因となる毒素だけを除去するという方法では無く、決して最良の治癒方法ではないことが分かると思います。

本来の治癒とは、なんら「内的器官に障害を与えずして、本来の姿に戻してやること」にあるからです。
しかし、薬や手術ではそれが出来ないが為に、次善の策として認めれて来たわけでしょう。
それが、必要悪の所以であります。

医学の考え方としては、人間自身の持っている『自然治癒力』を少しながらも認めるものですが、その力はごく小さなものとして見ているが故に、人間が外から 手を加えてやらないと自然治癒は不可能、という考えで見ているからなのでしょうか。そこで手を加えてやらないと悪化の一途を辿るという考え方です。

さらに、ある臓器は一部の切除でも機能は働くものもあり、もしくは、まったく無くても生命はなんとか維持して行けるのだから、全体の生命には代えられない、という考え方をしているのではないでしょうか。
手術後に起こるある程度の不具合は我慢しても、その為に大切な生命を延ばしたのだからという論理になるのでしょうか。

内的疾患の手術とは、決して本来の人間の姿に戻す手段では無いのですが、他に方法がないというのが医学の現実なのでしょう。
他に方法が無いのか、有るのかはここでは問いませんが、現代医学における手術の必要性とは、この様なことから起こって来たのではないでしょうか。
病気に対する「薬の無効性」という結果から発した、手術への転換というわけでしょう。

ただ、次に問題となるのが、手術によって臓器を取り去る場合、その臓器が人間の生命維持に必要不可欠な場合です。
たとえば、手や足を除去しても、鼻や眼球を除去しても、何とか生命は維持して行けます。
しかし、心臓や肝臓などを完全除去した場合は、生命を保つことは出来ません。
「薬によっては治癒できなかった」という結果により、次に手術の段階となるわけですから、医学的にはそれ以上出来る段階は無いことになります。
良くも悪くも手術は最後の砦の様なわけでしょう。

そこで、考えついたのが「人工臓器」というのでしょう。しかし、それは「機械」であって、決して人間の精妙な臓器の働きの代わりとなってくれるものでは無いのでしょう。
それでは・・と、次に考えられたのが、他の人間の臓器を取り出して来ての『臓器移植』なのでしょうが。

それでも、死んだ臓器では移植しても働いてくれないのでしょう。
どうしても、「生きている臓器」が必要となるのでしょう。そうして、生きた臓器をもって来るには、「生きた人間の臓器」でないと不可能でしょうから、そこに問題が生じて来たわけです。

まさか、生きた人間から取って来るわけには行きません。
たとえば、生きている人間から心臓を取り去れば、たちどころに死んでしまいます。

どうしても、「死んだ人間から取った、生きている臓器」が必要となるのでしょう。この矛盾した様な条件を適えるには・・
こうして、「臓器は生きているが、人間は死んでいる」という状態が条件付けられて来たのだと思います。

だから、「人は死んでいるが、心臓は生きている」という状態・・・それが「脳死」という、人類が史上初めての定義付けをした「死の状態」なのでしょう。



私個人は脳死も、臓器移植も認めませんし、希望もしません。
しかし、担当者や患者自身が納得して、あくまで自由意志でおこなう「脳死による臓器移植」を無理やり止めさせることも出来ないのです。
事の是非は、それを実行した方々が実際に出て来る結果によって判断されることで、今後の進むべき道が自ずと明らかになって行くのではないかと思っています。
そうして、それはどこまでいっても、それは強制されることではなく、もしも今後、大多数の人々が臓器移植に賛成する様になったとしても、少数の個人の自由意志は固く守られるべきなのです。
現状では少数といえども、自然治癒や自然死を選ぶ人達が、決して強制的に臓器移植を止められない事と同様にであります。

今後においても、『脳死』や『臓器移植』に対しての賛否両論が盛んに議論される事はあっても、どちらも自己の論理を相手に押し付けする事なく、公正な立場 において正確な情報を流して行くことで、未来の人類にとって最善の治癒の方法が自ずと明らかになって行くのではないかと感じている次第であります。
おはり