ひのもと異学 1996、12、18 初犯
果たして、薬は体内に残存するのだろうか?飲んだり注射したりして身体に入れた薬が、はたして体内に残っているのだろうかという事を考えてみたのだが。
この事は大変重要な意味をもっていると思う。
『病気とは体内にある毒素の浄化作用である。』
『その毒素の元になるほとんど大半は『くすり』である』
故に『病気の主な原因は薬である』
この定義を成立させるには、
『くすりと言う薬毒が体内に残存する』という条件が必要になるからだ。
このことが事実でなかったとしたら、新医学の理論は成り立たないことになるからだ。
それと共に、『くすり=毒である』という事も事実でなければこの論はウソになる。
こちらの方の証明はもう専門家が公言しているから、それ以上言う必要も無いと思うが。
しかしそれでも『薬=毒』という公式が成り立たないと、薬毒体内残存論は消え去ってしまうのだ。
もっとも、「薬は毒ではない」などと言う専門家がいるとしたら、それは虚言でしかないだろうが。
その前に『薬=毒』という事を認めないままで進んでみても面白いかもしれない。
最近、無農薬の野菜、米などが人気だという。
この場合の農薬というのは殺虫用の消毒剤や除草剤等のことを言うのだろう。
それも、毒を撒き散らしておいて「消毒」などと言うのはおかしな話で、強盗がボランテアなどとウソブクようものだ。
とにかく『農薬=毒』という事を認識しているからこそ、自分のからだに入れたくないのだろう。
それにしても、食べ物に農薬が含まれているとしてもごく微量でしかない。
一日腹一杯食べても、そればかりか一月以上も食べ続けていても何とも無い。
そんな微量な薬をなぜ恐れるのだろうか。
ということは、たとえ微量な毒物であっても、ほとんど体外に排泄されずにからだの中に残って蓄積されていくと考えているからだろう。
人が日常生活して行く上で食べ物は欠かすことが出来ない。
だから食べ物の中に微量であっても毒物が含まれているとしたら、「塵も積もれば山となる」ごとく、馬鹿にできないほどの量になって行くと考えているのだ思う。
そこには『毒は体内に蓄積する』という公式を心の奥底では認識しているのだろう。
近頃、「食べ物が悪い」という話をよく聞くが野菜や米、食品そのものが悪いのではないだろう。
食べ物にに含まれている毒物が悪いという意味なのだ。
毒物と言うと恐ろしがるが、有害物質とか異物とか化学物質とか呼び方を変えたり、農薬、化学肥料、合成保存財、着色料、さらに食品添加物とか言うとなんだかぼかされてくる。
要は簡単なことで、人間にとって有害となるものを一言で『毒』と呼べば済むことなのだが。
水道の家庭浄化装置も良く売れているそうだ。
国家が責任をもって配水している水を信用出来ないのだろうか。
暗に水道水に含まれている消毒薬を『毒』と認め、水道水を安全なものとは思わないでいる証拠ではないだろうか。
もっとも、こんなことは単純に考えれば小学生でも分かりそうなことだ。
菌を殺す消毒薬とは、菌と言っても生き物なのだから、人という生き物にも効果があるに決まっているということを。
水俣病を知っているだろうか。
このワープロにも「水俣病」という言葉が登録されているくらい有名な事件だったのだろう。
新潟の阿賀野川の水銀中毒も同じことである。
この事件は、『毒は体内に残存して蓄積する』という公式を証明した悲惨な公害事件であったと思う。
川に流された水銀の量は川の水量からみたら微量なのかも知れない。
川の水を直接飲んでも発病までは行かなかっただろう。
しかし、発病者は川の魚を食べ続けて水俣病になったのである。
川の水に含まれた「微量」(と思われていた)の水銀を川魚が飲んで、それが『残存して蓄積する』という、『毒は体内に残存蓄積する』過程が魚を通して証明され、さらにそれを食べた人間によって証明されたのだった。
その陰には、多くの人達が耐え難い生き地獄の苦痛を味わうという悲劇が起きることによってであった。
『毒が体内に残存蓄積する』という公式が成り立たないとしたら起き得ない事件であっただろう。
もしも、魚を百匹食べた人が発病して、五十匹食べた人は発病しないとしたら、百匹食べた人は毒が残存蓄積して、五十匹食べた人は残存蓄積しないというのだろうか。
そんなことはあり得ないだろう。
五十匹食べた人だけ毒が消え去ったわけではないのだ。
ちゃんと体内に残っているのだが、もう五十匹食べないと水銀中毒の症状が現れないというだけのことであろう。
発病者と違うのは、ただ体内に水銀という毒の量が少ない状態であるという違いに過ぎない。
地球環境の悪化が言われているが、それはその中に生活する人間に健康に影響するからこそであって、空気や水が汚染され、土が汚染されているとしたら、いずれ食べ物を通して自分の口の中に入ってくる。
もちろん、汚染しているものとは諸々の『毒』だ。
今や、ありとあらゆる方向から私たちの身体を目がけて毒が侵入しようとしているのだ。
そして、水銀中毒事件は決して他人事ではない。
入ってくる形は違っていても『毒は体内残存蓄積する』という公式が成り立つ限りは、、、毒の種類にも数え切れないほどの種類がある。
それぞれ蓄積の度合いも、発病するための量も、発病の症状も千差万別かと思う。
さらに毒物どうしで合成されるというからなおさら怖い。
『体内複合汚染』と言われるように、毒と毒からさらに新しい強力な毒が合成されるとなると、予想もつかない病気が次々と現れることになるのだろう。
まったく、「毒の恐ろしさを知るのはこれから」、ということを実感するのは私ばかりではないだろう。
いま「微量の毒だからそんなに神経質にならなくても良い。
だいいち今の世の中で毒の入っていないものなんてあるかしら。
気にしていたらきりがないよ」と言っている人達、確かにそうなるのかもしれない。
現実を変えることは非常に難しいのだ。
そこには良く言えば「生活がかかっている」、悪く言えば「金がもうからない」のという妥協論が入っているのだ。
そうなると、変わるためには大半の人が体内蓄積した毒物による『発病者』にならないとだめなのだろうか。
それが自分の時代のときに来るか、子供、孫の時代になるのか、それは分からない。
運が良ければ自分の時代には逃れ得られるかもしれない。
だから、自分に関係なくなるから「あとは野となれ山となれ]というのも一つの考えである。
だが、そう気の長い話だったらよいのだがが、ところが現実はそう都合の良い様にうまくは行かないようなのだ。
そこには、『薬=毒』という絶対の等式が割り込んで来るからである。
体内に入る毒物が食べ物に含まれるだけのうちなら、まだ余裕がある。
それでも溜まった毒の排泄作用が無ければ溜まる一方で、何かしら体に異常を来すだろう。
それでもまだ軽い症状ですむかもしれない。
毒の間接的な摂取というのは蓄積量に時間がかかるからだ。
ところが、薬という毒物が『毒は体内に残存して蓄積する』という公式に含まれるとしたら、全く状況は一変する。
薬は自分の時代からだけではないのだ。
それこそ先祖からみたら、今の自分が孫の代どころではない。
子々孫々の何代目かも分からないのだ。
それほど薬の歴史は古い昔から使われている。
先祖の入れた毒が残存蓄積したままを受け継いでいるかもしれない。
だからいつ発病しても良いほどの薬毒が蓄積されている状態なのかも知れない。
『くすり』と言うと西洋薬ばかりを指していると思っている人が多いが、和薬でも漢方薬でも薬は毒なのである。
「自然の生薬」と言うと安全のように錯覚してしまう人もいるが、本来くすりと言うのは毒を利用したものだ。
言い換えれば『毒でないものは薬にならない』というのが薬学の常識であろう。
杉田玄白の時代は漢方薬が「くすり」として用いられていたのだろう。
その時代において彼は「毒をもって毒を制するのがくすりである」と喝破していたのだ。
先祖伝来の毒を受け継ぎ、そのうえに生まれてからどれだけ「薬という毒」を体に入れて来たのだろう。
たとえべつに病気などしなくても、誰もが「予防」という名目で薬を注射されたはずだ。
そのほかにもかぜ薬、胃腸薬などは子供のころからの薬としてあたりまえかも知れない。
そこには「塵も積もれば山となる」の「チリ」は当てはまらないだろう。
薬の場合には間接的とか、微量とかでは無いのだ。
医薬品は直接的摂取で、質も量も大なのだ。
そうして、そこに『薬=毒』という等式が成り立つなら、とうぜん『毒は体内に残存して蓄積する』という公式にも当てはまるのだ。
そうしてこの定義はどちらも崩せないだろう。
それが事実そのものだからだ。
こうして考えてみると、人間というのは驚くほどに大変丈夫にできているとしか思えない。
これだけ大量に毒物を体内に入れて来ているのに、いまだに人類はほどほどに長生きを謳歌しているのだから。
これでは『薬毒の残存蓄積』の等式は成り立たないのではないかと思うことさえあるほどだ。
しかし、その楽観的考えも陰りが出始めている。
長命の影には、多くの難病奇病が増え始めている。
そのグラフ線が上昇の一途であることは隠しきれない事実なのだから。
このまま行くとやがて「長命」そのものまで危うくなってしまうだろう。
多量の病気氾濫を土台にして長命はなり立たないし、なり得ないことだ。
元気はつらつ、健康人の上にこそ長命社会が持続出来るのだから。
大自然の摂理には少しの矛盾も許されない。
そこに自然に反する矛盾するするものがあるならば、時と共にかならず歪んだ『結果』として現れて来る。
『毒は体内に残存して蓄積する』という公式に、 『薬=毒』という等式を含まないでいる、自然食品愛好者たちは、「強盗殺人を許して、コソ泥を許さない」「酔っ払い運転を許して、駐車違反を許さない」「一億円の横領を許して、十円を拾ってネコババするのを許さない」、、、様な類いではなかろうか。
それほど直接的に体内に入れる薬毒の量は多いのである。
それなのに病気を治そうとして、多くの人が毎日「くすり」を飲み続けている。
その薬が健康を脅かすということに目をつぶって。
人類にこれほど大きな迷信があるのだろうか。
日本だけではないのだ、世界中の先進国を筆頭に行われている“矛盾した世界の『常識』〃なのだ。
「見ざる、聞かざる、言わざる」という言葉がある。
このことを実行するのは間違っているものに対しては有効だろうがが、真理や真実に対してこれを行うのは実に愚かなことなのだ。
以上の論は真実として、また真理として残り得るのだろうか。
結局は偽理、偽論として消え去って行くのだろうか。
消え去るとしたら、『毒は体内に残存して蓄積する』、『薬=毒』というこの二つの定義が成り立たないように、事実を示して証明すれば良いだけなのだが。
そのときには『毒は体内に残存しない、蓄積しないで全部排泄される』、『薬は毒ではない』という事になる。
だから、“いくら薬を飲んでも大丈夫、農薬も食品添加物も有害公害物質も排泄されるのだから騒ぐことはない”と発表される事になるだろう。
そうしてその“真実”?を世界中に宣言できることになる。
これほど世界人類にとって安心なことはないのだから、大いに感謝されることになるだろう。
さっそくあなたもその“真実”を証明すべく、挑戦してみてはいかがだろうか。
私は自分の示した『定義』を崩してくれる日を首を長くして待っている。
おそらくそんな日は来ないだろうが。
反論はあっても証明はできないだろうから。
もしくは無視して語らずか、、三猿式でしか答えが出せないようだったら、私は自信をもって“薬が病気を作り出す”と声を大にして、わめきだすかも、、、
オオ、コワ、



