扁桃と虫垂に見る浄化装置
先回の阿保教授の「扁桃と虫垂の類似性」より岡田茂吉医学論を紹介したのですが、それについて2004年にワタクシメの要らぬお節介論を書いたのがあったので、「せっかく書いてあったので」という理由だけでアップしました。
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人体は常に身体の中を清浄化しようと働いている。その働きを自然良能力と呼ぶ。
そして、全身の異物毒素を一部の集溜し、やがてそれに排泄作用が起こるようになっている。
その人体の仕組みの妙が扁桃部と虫垂部である。
主に上半身の毒素を集溜する場所が扁桃部であり、それに対して主に下半身の毒素集溜箇所が虫垂部である。
ある程度毒素集溜したとき、その部が炎症を起こして腫れたりする症状は、毒素溶解排泄の働きの過程である。
発熱によって固結した毒素を溶解して、液状のすることで体外へ排泄しやすい状態にする。そして毒素本来のもつ毒性のために神経を刺激して痛みなどの症状が伴う。
これは毒素が排泄するときの移動によって刺激されるわけである。
今までの医学ではその解明が出来ていなかったために、むやみに発熱を停めたり、薬剤で症状を停めることを良しとしたのである。
果ては扁桃腺や盲腸は不要の物として除去手術を施して来たのであろう。
扁桃腺は以前は切り取る手術が盛んに行なわれていたようだが、近年は減少してきたという事は不要の物でないと認識してきたからだろう。
盲腸の場合も手術によって除去する方法が減ってきたと思われるが、未だにその重要な働きが解明されていなかったため、やはり浄化停止方法、薬剤などで発熱停止や排毒作用停止を行なっている。
人体一部が身体全体の浄化を引き受けているものを、ただ表面的にみての症状悪化作用であると認識しかできないでいる医学は、この治療法自体が身体全体からみて負の遺産を植え付けているようなものであろう。
この様に扁桃腺、虫垂部だけを見ても今までの医学がいかに枝葉末節的であり、上面的対処方法でしかないことが分ってくるだろう。他の病気症状にしても、その症状自体に意味があり、けっして無駄な働きを人体が起こしているわけではない。
結局は医学が最初にインプットしてしまった「病気症状は悪である。この悪化作用を停止することこそ、病気治癒の道である」という方向に進んで、それを進歩発達させることこそ本道であると錯覚してしまったことが今の医療の現実となっている。
土台が歪んだ上に建物を建てれば、上に重ねるほどその歪みが大きくなってくる。
そしてついには倒壊してしまうだろう。
ちょうどこの様に医学が進歩すればするほど、同じ様な現実が現われてくるというのは誰の目にも明らかになってくるのである。呪文の様に唱えられてきた「医学は進歩した」というその言葉の裏にはそういう現実が潜んでいたのである。
ただ、人は一度信じたことはなかなか変更できない。
ちょうどコンピュータの基本情報がインプットされると、それに反する情報が反応しないような状態を保ち続けるのだろう。
だから、それを解除するには一度コンピュータの基本情報を解除することだろう。
初期状態に戻して、始めから入力し治さない限り、そのコンピュータは相変わらずその基本上がからはずれた情報は入力出来ないか無視つづけるだろう。
人は何世紀もその基本情報を植え付けられてきたし、今も産まれてからずっと植え付けられている。親から、本から、テレビ、映画などのドラマでさえ、そして科学者という権威からも同じ情報を入れられている。
これを白紙に戻すことは困難過ぎるだろうか?
最初の初期状態に戻って、正確な土台から築き直すにはもう進みすぎたのだろうか?
わたしはこれは意外に簡単に初期化できると思っている。
この様に情報として伝えるのもひとつの手段かも知れない。安保教授のような権威ある学説も有効な手段となろう。
しかし、案外と簡単と思ったのは次のことからである。
「陰極まって陽となる」 という大自然の働きを思うからである。
このまま「医学は進歩し続けるだろう」 すると、先に書いた「土台が狂っている建築は高くなるほど歪みが現われてくる」ので、ついには「自壊作用を起こす」ことである。
だれも「医学を倒そう」などと意識せずとも、「医学の進歩の末には自壊作用を起こす」だろうと思うからである。
その具体的な現象という。
「医療を行なった結果がすごく悪くなる」という現象である。
この現象が今までは「時間がかかった」ので誰も「気が付かなかった」のであろう。
これから「医療の結果が悪くなったのに時間がかからない」という現象が誰の目にも明らかになったとき、それは患者ばかりか、医学に基づいて治療する医師にもはっきり判ることになるからだ。
医学の基本が誤っているなどと、医師の誰もが思っているはずはない。それどころか、一生懸命患者さんの病気を治してやりたい一心で治療を行なっているはずだ。
(もしそうでないない医師ならそれはニセ医師であるだろうが)
そういう善意の医師が自分の行なった治療で患者が悪化する状況を黙って見ていられない事は当然である。しかも結果が悪いと怖くて手が出せないことになる。
すると医師が医療から手を引くというおどろくべき状態が一時的に起こるだろう。
人は衝撃的な状況でパニックなるという。このパニックが人のとっての白紙状態、つまり基本情報が一切消えてしまう時である。
長い間インプットされていたコンピュータの古い情報が消え去る瞬間、その「事実」が見えてくる。異端情報が頭に入ってくるのである。
その時を楽しみ、私は使われるであろう異端情報を準備かつ少し流しているのである。
実に楽しみな作業であるのだ。
扁桃や虫垂に限らずすべての病気をみるについて。
人体は総合体なのである。そしてその働きの神秘は科学が今以上進歩した暁には、その仕組みの完全さに驚愕するだけであろう。そして、人為的に施す治療法がいかにその働きを阻害してきたことかを知って、弁解の一言も出ない時が来るであろう。
医学の進歩とは
「現代医学が進歩している」という言葉の裏には「未だに完全でない」という意味がある。
つまり「未熟ゆえに進歩しなければならない」ゆえに「医学は未だ未熟」なのである。
医学は科学だと言うが、「未熟なもの、非完全なもの、未完成なもの」を科学というだろうか? それなら「科学とは未熟なもの」だから、「科学は絶対なものではない」ことになる。
科学は完全無欠か?
「安保教授の理論は推論があまりにも多い」という指摘があるが、これは医学そのものがほとんど推論である」と同様なことではないか?
それをさも医学が確率された完成された科学(医学)としてみている我々に、本来の科学という意味を知らずに使っている言葉なのではないか?
科学と言えば完全無欠かのごとく思っている人は、「非科学的な人」なのではないか?
ただそう言われて来たから「医学は科学」だと信じているだけのことで、これは「信仰者」の類と同じであろう。「科学信仰」「医学信仰」陥っているのも自覚できない「信仰者」であろう。
2004年5月書く himaari
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