感染恐怖症をつくる源泉は「死」。死の恐怖をうまく利用して起こす詐欺芝居 | akyoonの異端の医学と不思議な情報

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医学や健康医療の【トンデモ論】を主としています・
本人はいたってまじめ。 しかし自分で自分を検証できないので、眉唾と取捨選択が必要。

間違った現代医学の癌治療。大いに恐怖を煽る新型インフルエンザなど。
  
しかし、最近の他の記事情報によると、癌治療もインフルエンザ対策も効果無し。


それどころか、有害である。

というのが本当の事実として見えてきた。

ところが、どういうわけかウソの事実の方がずっとはびこっている医療の現場。


どうして真実が伝わらないのだろうか?


どうしてウソの方が信じられてしまうのだろうか?

どうやら、ウソの方が信じられやすい理由(わけ)がありそうだ。


それはひとの恐怖心だったようだ。  恐怖心の最たるものはおそらく「死」だろう。

そうでない人も居るだろうが、大多数の人の最高度の恐怖は「死を迎える」ことなのだろう。


インフルエンザが怖いのではない。癌が怖いのではない。病気が怖いのではない。

じつはその先にある「死」というものではないのか?



もちろん、病気の苦痛は誰もが嫌だという事は分かる。
しかし、この病気は必ず治るものだと分かっていると相当恐怖心は消えるだろう。

反対に軽い症状のものであっても、この先はどんどん悪化して行き、ついには死んでしまうと言われたとき、逆に恐怖心は大いに高まるはずだ。


たけしの本当は怖い病気のなんとか

じゃないけど、

病気は治らないでどんどん悪化し続けるから、放っておくと死んでしまう!


と言われたら、まずほとんどの人は怖い、恐ろしい、不安という感情がわき上がってくるだろう。


そうなると、もう冷静な判断力など失われる。


そこがねらい目なのだ。詐欺の手口はよく似ている。いや本当に詐欺なのかも知れないのだ。


3億円強奪犯がただの煙で爆弾があると錯覚させてその恐怖心を利用してまんまと計画が成功した。

恐怖心が「変だな」とか「何かおかしい」という判断力を無くす事を利用した詐欺師の手口なのだった。


吾々に仕掛けられた数々の詐欺のうち、案外気付かないのがこの医学、医療というものなのだろう。
だから仕掛けはうまく行くのだろうが。


そこにいつもあるのは「人の死」という、人類誰もが逃れられない真実が含まれているからだ。その真実を誰もが嫌う。恐怖すらする。

本能的なものだろうが、誰もが避けられない、100パーセントの人が絶対的に受けなければならないのだが、嫌な事としてタブーにされている。

このタブーを最大限利用しているのが医学なんじゃないか?という思いがするのだ。

だから、「しない方が助かる率が高い」のに「これをしないと貴方大変なことになりますよ!」と言って、却って死を早める治療を勧められる。


としたら、これは「死の恐怖を利用した」立派な詐欺ではないか?

避けられない死なのだから、かならず当たるのだが、じつは放っておいた方が長生きしてより健康でいられるとしたら。


それを誰もが考えてみようとしない。

そこには「死が待ちかまえている」からだ。
そして教え込まれるからだ。

「アナタ!放っておいたら大変なことになりますよ!」

その大変な事が最終的には「死」なのだ。


この切り札は誰にも有効だから、真実には違いない。
が、死を迎えることとそれを避けられるという期待が交差した人間には既に冷静な判断はできない。


こうして3億円犯人は笑って易々と大金を手にすることができるのだ。
警備員は逃げるし、かえって警察官に化けた犯人の身を案じてくれるくらいだ(爆)

「吾々の命の恩人だ、あの方は。さらに自分の命をかえりみないで爆弾を処理しようとしてくれている。ああ、アリガタイやらうれしいやら」

こうなると涙まで浮かべて感謝されるのだからこの詐欺は大成功!


時間が過ぎてから「・・・・・・」  「・・・・?」


まあ、こんな話しはお金に過ぎないからどうって事無いのだが。

こと医学、医療に関するとそうはいかないのだが。


差し出すのは他人のお金であって、保険がきき、刷ればいくらでも出てくるものじゃない。

自分独りの大切なイノチと健康なのだ。それを差し出すには、相当冷静な判断力が必要なのだ。


偽警察官の言うがままにしているとどうなるか?

それが偽なのか真なのか  それを見分けるのが問題なのだ (シュークスピア)



そこで冷静な判断力を失わないためにちょっと死についてメモ書きが見つかったので掲載。

(じつはこれを貼り付ける為に前書き書いていたら、またいつもの様に暴走してしちまった)


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ほんと取り上げればきりがないほど話題があるのが今の世界、日本なんで
しょうね。


しかし、それをいちいち上げていたってホントにきりがない。
いや、

むしろ、大きなものを見逃してしまうことになりかねないようです。

驚くべき内容をもった真実が次から次へと暴露されてきているのが今の世界なんでしょうから、それにいちいち過剰反応していたんじゃあ、身が持たない、いや、そんな驚きさえもいつか小さく見えるほどの大きな真実が露呈してくるのが今の世界でしょう。


そうなると、あれもこれも書きたい言いたいなどと欲張っていると、ついには肝心の大きなものが見えなくなってしまうのです。


まあ、その様な原理をしっかりと利用しているのがマスコミ、マスメディアという情報媒体産業でしょうね。

もっとも「営利企業」なのだから、そんなのあたりまえと考えれば非難することもないし、「きょうも話半分に テレビ、新聞」などと笑って見ていれば良いのですが。


そんな営利中心企業がいかにも世の中の真実のみを伝えてくれる唯一のものの用に錯覚しているわしらがバカだったと気づくとよいのですが、いかにもメディアが善を基礎にして真実のみをジンミンに伝えてくれているなどとトンでもない勘違い間違いが体臭にあるうちはだめですねえ。



前にも書いたように大きな真実を小さな真実によって覆い隠すなんてのはお茶の子さいさい、小さな真実を何度も何度もくり返し報道、そのうち針小棒大というマジックも駆使して報道されちゃあ、こちとらイチコロですよ。



そんなわけで、個人的にも驚くような情報だと思っていても、それは後になってどうでもよい程に思える小さな出来事だったりして。


そんな小さなものを数多く取り上げて個人的に興奮しちゃって(笑い)いたら、肝心かなめの大きなものが陰薄れてしまうことに気づいて、ここではもうあまり書くことがないのですね。

ほんとは言いたい書きたいものがいっぱいあのですが、書けば書くほどそれが本質から離れてしまうような気がします。


書くのがめんどくさい・・・って感じちゃうこと自体がもう奥の自分がそういう感覚を持っているってことなんでしょうから、ホントに書きたいと思うならどんどん書きまくっているでしょうし。


これから日本は世界はほんとに驚くような事が起きてくるのでしょうね。
しかし、それは背景画でしょう。


現実にその背景の場に立った自分が個人でそれから何を得たり感じたりするのかは自分の決定でしょうから、少数であるとか多数であるとかいろんな事象、事件としての背景は主役ではないということのようです。



主役はあくまで自分であり、集団内においてそれが起ころうと個人の時間で起ころうとそれは同じことなのかも知れませんね。

たとえば、電車の事故に遭遇したのと自家用車で事故にあったのとか、大地震に遭遇したときの背景ととても小さな崖崩れにあった背景とか、大小それぞれ違う背景にありながら、感じている体験しているそのひと個人の問題はやはりそのひと個人のことでしかないのでしょう。


そうなると、世界的感染大爆発であろうと、たった一人で風邪を引いたのと同等な気がします。


いま60億以上の世界人類は皆死滅します。


そう言われると何か恐怖を感じますが、これはあたりまえの事なのです。

寿命が100年であろうが200年になろうが、やっぱりいま生きている人類は一人残らず死滅(肉体寿命)するのが決まっているのですから。


それに対してなんだあたりまえのことかと思う人と、それはたいへんだ!と思うことの違いは、数の差でしかないのでしょう。


それも同時期に数が多いと恐怖し、数が少ないと安心するように。


これも考えてみると、その数の中に「自分がはいっているかどうか」の差でしかないことなのでしょうね。



「死を迎える」ということは60億人すべての人が本当は覚悟していることなのですが、自分がいつ死ぬかということを知らないがために、ほとんどの人が「自分は寿命まで生きられる」というあたりまえの事を勘違いして「自分の寿命は平均寿命前後である」と思いこんでいるからなのでしょうか。


では、平均寿命が近づいてきたらこんどは「自分は平均寿命よりもちょっと長く生きられる」と都合良く寿命延長して、結局は自分は人よりもずっと長生き状態を守りたいものです。


「いつ死んでも良い」などと言っている人も、じゃあ、食わないでいればと思うけど、やっぱり生きる為に食べているように。


しかし、どういう年齢であろうと死ぬときは独りです。
男女の心中騒ぎでさえ息を引き取る時刻は微妙にずれているとしたら、同時の時刻に一緒に死ぬという事が起こるのは、まったく知らない赤の他人がどこか知らない所で死んでいる事が一致しているだけで、やっぱりその時期に同時に多くの人が死んでしまうと言っても、見たこと合ったこともない知らない人たちのことです。


そうなると結局は起こっていることは自分だけの事であり、それに対処するのも自分の意識でしかないわけです。


きのう、きょう、あす、たった独りで死んでも数多くの人と一緒に死んでも、それはやっぱりその人個人の死であり、他人とはまったくつながっていないのでしょう。


死とは逆に産まれることもやっぱり独りでありそのひと個人だけのものです。


戦争中であろうが平和の世界であろうが金持ちの家であろうが貧乏の家であろうが、産まれる瞬間はやっぱり背景は無関係なのでしょう。


産まれるときの背景と死ぬときの背景

やっぱり同じ様な気がします。

これから大変化する背景(自然やら人為であろうが同じこと)は本質ではなく、主人は他人とは比較できない自分の事でしかないものなんでしょうね。


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