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そこで、この本が明らかにしようとしている論争の核心は、次のようなことになる。
予防接種が行われた当初には、明らかな変化が起こる。この変化は、特定の微生物に対する抵抗力が高められるときには、ある程度の利益があるかもしれないが、その場合でも、利益はその人の生まれつきの健康その他によって、大いに加減されるといったこと。
そして、もう一つ明らかにしようとしているのは、見せかけの防衛力に伴った大きなマイナスの効果と危険とがあり、その見せかけの防衛力がそうしたマイナスを覆う効果を果たしているということである。
もちろん、個人への悪影響の程度は、先天的体質や接種されたときの健康状態とともに、ワクチンのタイプによってもさまざまである。まず予防接種に必ず伴う局面として、接種直後の有害な副反応はよく知られている。
また、これらは詳しく述べられ、強調されるであろう。けれど、長期にわたる危険はほとんどわかっていない。この点はもっと調べられ、広く公表されなければならない。なんといっても、こういった危険が意味するものは、人間の苦悩の点で深く重いからである。
さて、論争は、予防接種がまったく効かないということではなくて、それがどの程度効果があるのかということである(多くの接種を受けた人たちは今もなお、免疫をもった状能である)。そしてそれに付随する危険は、許容範囲を超えているのである。まして許容範囲内のリスクをもった人がたくさんいることは疑いもない。そんな状態にあっては、予防接種を全世界に広めるために妄的に政府後援のキャンペーンを行い、接種に反対する議論を意図的に却下することは納得できない。
予防法を強調ることばかりが推し進められているが、他方で一人一人のあらゆる意味での健康状態を増進するという基本的な重要性についての認識ももたせるべきである。
そうしてこそ、感染源にさらされても十分な抵抗力が得られ、もし罹患しても感染症から安全に回復できるはずだからである。これは予防医学の主眼目が、男、女、とくに子ども一人一人を最高の健康状態にすることにあることを意味している。
このように概観すると、身体を刺激して防衛態勢を作るために弱毒化した微生物や感染副産物の接種によって行う免疫力の強化は、多くの人たちにとっては、粗末な次善の選択でしかありえない。
最適の栄養と身体の自然防衛能力を維持し増進させるなどの、さまざまの要因を集約することを基礎とした摂生と健康維持を強調することこそ、予防医学の最も望ましい目標なのである。
ところが、パスツールの遺産によって、人々はこの目標から大きく逸らされてしまったようなのだ。
貧乏、無知、ときには誤った選択のために、多くの人たちは、予防接種よりももっと大切でもっと望ましいものとして、良い栄養と摂生があるということを指摘できる指導者には従わなくなっているといういくつかの指摘がある。いずれにしても、予防接種には欠点と選択権があるということを、人々の利益のために周知させるべきなのである。
ところで、こうした前世紀以来の考え方と方法を見るために、パスツールやこれから議論をする研究者たちの実験方法が日常生活とははるかにかけ離れた状態で行われていたことを強調するのは、大いに価値あることである。
組織培養あるいは実験動物に関連して、実験室で特殊な微生物を用いたことは、日常生活の環境の中で感染にさらされている普通の人々にとっては、あまり関係のないことであった。
特殊な状態での特別な事柄についての考察が医学の分野で支配的になったために、感染も含めた最も一般的な病気に対する多角的な原因の背景について、人々は盲目にされてきたのである。実際、毒性微生物にさらされたり、それが体内に存在しても、明確な感染が起こらないことがある。このようなケースは、以前に感染し、それによって免疫を獲得した可能性がある場合とはまったく異なっている。この事実は、健康状態(この定義には、何らかの論議が必要である)にある人間はだいたいにおいて、感染源にさらされたときにも、十分に対応できるということを示している。
不自然な状態にあると病気を引き起こすきわめて危険な微生物でも、じつは無力であるという証拠を、免疫学の先覚者たちは面白い方法で示している。
衛生学の分野でのリーダー、マックス・フォン・ペッテンコーフエル博士は、致命的な症状のコレラ患者から得られた百万個のコレラ菌を飲み尽くした。著名なロシアの苦学者エリ・メチ喜フもまた二十世紀初頭に、多くの他の実験者が行ったと同様の実験を行って、自分の見解を示した。
彼らの大便の中には活性コレラ菌の存在が示されたが、症状の最も重いのが下痢であった。
これは実生活の状況で、人体に特定の微生物を入れることにより特定の病気が現れるという信念との間に、大き相違があることを際立たせている。
著述家ルネ∴アユボスは、コッホやパスツールのような研究者に言及して、彼らは自然界での出来事というよりは実験的な工芸品を取り扱っているのだから、そこで再現されたことを自然に当てはめるのは不可能だと書いている。
なにしろ実験のもつ性格として、当然のことながら、いろいろな限定条件を自然現象に押しつける。そこで、そのような環境では、自然は人間が考えだす問題に掌る答えを用意させられてしまうのである。
また、これらの答えほ、問いかけられている問題の性質によっても、大きこうしてパスツールの牛乳、ビールなどの初期の研究は、彼の考えを方向づけた。彼は特殊な菌がミルクを酸っぱくし、特殊毒がグレープジュースをワインに、さらに酔に変えることを知った。そこで彼は次のように仮定した。
人間の身体はピール樽のように、病気を引き起こす外部からの微生物によって支配されている。それは、樽の中の液体がミルクであれワインであれビールであれ、外部の菌が発酵を起こすのと同じである。
このように微生物が特定の病気を引き起こすということを示して、パスツールとその仲間の研究者は、空気中で病原体にさらされると病気にかかるということを信頼しなかったし、むしろ患者の身体から取り出した物質を人体内に入れることによって病気にかかると考えたのである。彼らは、生命の複製に失敗したのだ。そのために彼らの見つけたものは、怪しげな借物となった。
医学雑誌Fランセット』(一九〇九年三月号)は次のように論評している。病原細菌が動物に感染したとき、元の病気と臨床的に類似関係にない病気を引き起こすことがしばしばある。そしてそれが、新しい細菌を生み出す。
そのことをビーチャムは、「病気は我々自身の中から生まれる」と表現する。このようにみてくると、病気に対する防衛は、身体の健康増進、摂生状態と健全な栄養といった要因に依存していると考えられる。自然治癒療法のパイオニアの一人、ヘンリー・リンドラール氏は次のようにいう。「健康は正しい生活によって得られる。我々の考える・感ずる・息をする・食べる・飲む・手足を動かす・風呂に入る・着るといった習慣、さらにまた性的、社会的活動も大切である。これらのことはすべて、我々の生存の法則にかなった、調和のある関係になければならない」と。
要するに、感染の事態と程度を決定するのは、宿主と細菌の相互作用なのである。したがって、病原菌のことばかり強調することは、感染する運命にある身体には最小限の注意しか払わないことにもなって、被害を大きくしてしまうから好ましくない。たとえ確実な根拠があっても、免疫作用の防衛的な面にのみ依存していては、より健康になることはできないのである。
栄養と人間の生理学的、心理学的なあり方を適当な状態に保つことは、禍をもたらすウイルスや細菌などよりももっとはるかに重要な考慮を払うべき、価値のあるものなのだ。
ところで、パスツールは無情○中と献身をもって、彼の認識のもとになるものを考えた。そして、自分を売り出すための鋭い第六感をもって、大で激務を果たし、二つの能力をフルに使うことにした。彼の開発した炭疽病予防と芙病治療のワクチンの効力を示すデモンストレーションが公開され、新聞は好感をもって報道した。羊の致死病である炭疽病から、予防接種によって羊を守ったとされる劇的なデモンストレーションは、多人の人たちによって確認され、パスツールの名声は一挙に高まった。
しかし、これらの実験では猛毒の炭疽病菌を注射して、二翳不幸姦物を炭症病にかからせたのだが、このよう方法では正常な羊はこの病気にはかからないということに注意すべきなのである。
その点で、彼のワクチンによってもたらされた防衛力は、じつに十分なものであったといえる。
というのは、試験的にワクチン接種された羊は回復し、ワクチンで防衛されなかった羊は恐ろしい死を迎えたからである。
つまり、ワクチンによる防衛力は、血液中での細菌の増殖には打ち勝つのだが、自然に起こる感染には対抗しないのだ。
そこで注目に催するのは、野生動物は感染性の細菌と完全に調和して生きているという事実である。動物の自然の生活圏では、重大な感染はあるとしても、とるに足りないものなのである。
なのに、動物が家畜化され不自然な環境の中で暮らすようになると、我々がよく知っていように、感染に負けるようになってしまうのだ。もともとは自然状態の動物とその体組織中で見つけられる細菌との関係は、動物にとっては危険なものではないのである。
とすれば、当然のこととして、人間もまたあまりにも不自然な状況の中で生活し、伝染病の流行にさらされているということになる。
そこで問題は、すでに健康な身体がもっている防衛力を故意に働かせるために、人体を異質の相入れない生物製剤の注入にゆだねることが、その人の利益になるかどうかということになってくる。
一八八五年パスツールは、狂犬病の子どもを治療した。それは子どもの命を助け、成功であった。こうした分野での彼の仕事の正確さは、微生物によって起こる病気の原因の特異性に関する彼の信念へのひたむきな貢献を示している。
さらにパスツールが発見したものは、たぶんに偶然ではあるが、元来は猛毒の微生物を弱めたり薄めたりした変種せ用いて身体を刺激しておけば、元来の病原にさらされたときに身体を守れるようにできるということであった。
これが今なお多くの免疫に関する研究の基本になっている。
その当時パスツールと彼の後継者たちには、この分野での科学研究者の援助者(パトロン)がいた。彼らの多くは、免疫学での正統的な考えに大きな期待を寄せていたのである。
彼らの中にはドイツの細菌学者ロベルト・コッホも含まれていた。彼は炭痕病菌の研究を行い、一人七一年には創傷感染という炭症病菌の特性に関するデモンストレーションにも成功したのである。
そのほか彼の多くの業績の中には、結核菌の発見もあった。この分野での彼の業績は、この菌から抽出されるツベルクリンと呼ばれる物質を取り出したことである。これは結核を治療することはできなかったけれど、感染診断用の薬剤として現在も用いられている。すでに結核菌に感染している人(あるいは動物) の皮下に注入すると、局所発赤が生ずることが判明したためである。なお、コッホにはまた、当然のことというか法則としてというか、微生物が特定の病的過程の原因と考えられるかどうかに関連した業績があったことが知られている。
これに関する陳述は次のとおりである。
「細菌はいつも問題の病気に関連しているに違いない。そして、もし細菌が分離でき培養もでき、健康な動物に接種できたならば、再び病気を引き起こすであろう。そのときには、病巣部から同じ細菌が同定され、培養できることになる」。
しかし、この一見きれいな体裁をもつ論の誤りは、患者のことを無視していることにある。
ノースカロライナ大学のG・T・スチエワート教授は、次のことを提示した。
「人間は、標準量の微生物の接種に対して、さまざまな反応を呈する。したがって、特殊な細菌の接種の後には感染と病気が起こるはずであるというコッホの仮定は、宿主にもまた注入された物質によっても違ってくる」。
教授は
「この仮定は、生物学的変異を考慮しておらず、自然の状態(実験室の状態は、条件を設定できるかもしれないが、生活を写すものではないので感染に影響を与える複雑な状態を考慮していない。
コッホの仮定は、特定の細菌が、普段は正常な状態で関連している他の多くのものとは分離され、感染しやすい実験動物に人工的に注入される場合に適用できるもので、これは、自然環境にある動物(及び人間)の場合とは非常に異なっているのだ」と述べている。
我々はすでに、スチュアート教授の見解を読んで、感染源そのものだけではなくて、宿主の健康状態を強調するといった進歩に気づき始めている。そして、これこそが、防衛力-それはどの程度か疑わしいのだがーを得ようという期待をもって組織内に毒性物質を注入することをできるだけ避けようという、予防医学の中心課題そのものなのである。
初期の免疫学に影響を今なお大きく影を落としているもう一人の大立者は、ドイツの細菌学者パウル・エールリッヒである。
彼は、細菌の毒素と抗毒素を標準化するためのガイドラインを決定する業績とともに、伝染病菌を殺す物質を用いることにも業績を上げた。この成果こそ病原体を梅毒と細菌性伝染病の治療に役立てることに導いたのである。
エールリソヒは、伝染病菌や毒素が血液中に入ったときに、人体内で何が起こるかを説明する学説を提出した。このことが起こると、宿主の体内で抗体とか抗毒素とかと呼ばれる物質が生産されるような刺激が起こることを、彼は提示した。
いったんこの物質ができてしまうと、生体は、以前ならば致死量に達していた毒物にも、耐えることができるようになる。
エールリッヒの説明によると、そのことは人体細胞が受容体という部分をもっていて、そこに毒性物質が付着すると、毒力がなくなるために起きてくるのだという。
こうして毒素と受容体の結合した分子は、毒素の攻撃に反応して、身体が作り出した新しい受容体とともに血液中に押し出される。そして、この「抗体」は、細菌や毒性物質による侵害で身体が傷つけられる前に、それらによる侵害を中和することができる。これが、ワクチンや少量の毒素が侵入したときに起こると考えられることである。
こうしたエールリッヒによる初期の「サイドチェイン (側鎖)説」と呼ばれる学説は、その後の知見によって大きく修正されたけれど、抗原と抗体の概念を科学的に解明しようとする最初の試みであった(次章参照)。
さて、これらの研究者や弟子たちが初期に努力したことは、細菌であろうと他の物であろうと、病原物質の同定と分離であった。それを弱めた形で用いたり、あるいは感染過程での副産物を用いることによって、その後、本当の感染にさらされた際に対抗できる身体の防衛力を刺激するようにと試みられた。
これに対して、行政機関と報道機関は、ただちに熱心な反応を示した。
かくして、ついにそれまで人間を支配した無数の病気について説明ができるようになり、医学が治療できるようになったというわけである。
当時はびこっていた伝染病への対策の明らかな成功によって、人々はこの熱狂を誤りようのないものと確信したようである。
だが、本当にそうであろうか?
さまざまなワクチンと免疫学的処置の導入によって、多くの成功が外見上は達成されたようではあるが、その反面、さまざまな他の理由によって、これらの病気が減少したことを示唆する非常に多くの証拠が集められているのである。
そもそも感染の自然のなりゆきとはどんなものであろうか?
その研究においては、ワクチンなどによって身体の防衛組織を人工的に刺激することを含めて、さらに厳密にいくつかのメカニズムを検証することが必要であるが、それは十分に努力のしがいのあることなのである。そうしているうちに、有効性と安全性についての批判に対して細かく吟味することに失敗した処置の例として、BCG(結核)やポリオワクチンの場合を取り上げて見直す機会があるであろう。
これらの免疫についての知見は、以下の章で、他の特別な形の免疫と関連してさらに詳しく説明する。
以上ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー