霊的詐欺に遭わないために 2 (光の矢さんから転載) | akyoonの異端の医学と不思議な情報

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医学や健康医療の【トンデモ論】を主としています・
本人はいたってまじめ。 しかし自分で自分を検証できないので、眉唾と取捨選択が必要。

あらゆる宗教に共通することかも知れませんが、自分の体験との比較して読んでみたのですが、やはりここはあらゆる宗教信者さんは一度は読んでおく必要がありそうです。


その後の判断はもちろん自分ですることなので、絶対正しいとは言いませんし、それも僕には判りません。


結局、あらゆる宗教は神を外に求めることに対して、それは地球霊界のある時期までの場であって、宇宙真理から言うと神は内に求めるものらしいです。


宗教の内容がすべて間違っているという事とは意味が違いますし、すべての依存からの脱却が人類の今の課題なのかな?


いや、外に依存から内なる方向に依存ということかも?


ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー


 


7.布施と祈願
お布施と祈願も宗教団体には付きものです。お布施の額は、一般社会常識で判断したいものです。しかし、カルト宗教信者や会員には通じないかもしれません。教祖の説く法が絶対であり、社会的価値観より、教えの価値観が優先してしまいますから。



いくら高額な布施を求められても、他者に盲信してしまうと、付いて行くしかありません。際限のない布施の要求に、疑問を持たず対応しようとするでしょう。哀れです、私自身本当に悲しく思います。



布施とは求められてするものではなく、自分の富の一部を捧げる事によって、少しでも社会や世界が良くなってほしいという願いによって成されるものです。




自分の生活や家族を犠牲にしてまで、するものでは断じてありません。ましてや、神仏や聖霊が物質的なお金など求める訳がないではありませんか。
カルト信者はこの事さえわからなくなっています。

教祖を盲信しているのは、自分の心の内に神を観る事をしなかったからなのです。



その結果が教祖の語る言葉を鵜呑みにし、それを心の拠り所としようとするから、マインド・コントロールが解けないのです。

布施の高額化と強要は宗教ビジネスそのものであり、その事をわかろうとしない信者や会員は、ロボットのように従う、貢だけの存在になっています。その事に早く気づかなければなりません。これ以上、生活破綻や家庭崩壊を招く悲劇を増やさない為にも。


次に祈願に関してですが、私の体験からは、縁のないようなものであれば、いくら頼んでも天界には通じないように思います。

祈願とは宗教施設や団体に行かなければ出来ないものと、人々は思いこまされています。
しかし、霊的真実はそのような事はないのです。


あなたが、人生で目標とする偉人や聖者がいるならば、その方に祈りを捧げてみるのが良いと、私は思っています。あなたが、尊敬し、どうしても惹かれる歴史上の人物ならば。あなたにとって、縁のある方だと思ってさしつかえないと思います。(あるいは霊団)

もちろん、その時は、一人静かに、だれにも見られる事なく、祈ってください。必ず、なにがしかの答えは見つかると思います。当然、自助努力は大切ですが、聖霊や天使は地上の人間をいつも見守り、いつでも援助したいと思っているのですから。

祈願の効果は、霊的価値観に目覚める為のきっかけとして、ある程度認められると思っています。その時は効果をしっかり確認してください。そして、祈願料がやたらと高いのは詐欺だと思って間違いありません。効果はあるかもしれない、しかし、結果は自己責任などと言いのがれのを言う輩がいます。このような者は、良心の呵責を感じないのでしょうか。本当に反省すべきです。宗教を学んでいながら、反省すらできないとは、一体どうした事でしょう。
宗教団体にいる者は、自分とは何者か問いなおさなければなりません。




8.霊界通信(霊言、霊示)

霊界通信とは、霊界からのメッセージを受け取り、人々の霊性に貢献する為に本来在るものであります。




しかし、本物であるのか、偽者であるのかの判別は、霊的真理を知らぬ者には区別がつかないかも知れません。だれでも愛や調和の精神を語る事は出来ますし、ポジティブな心構えを説く事はそれほどむずかしい事ではないでしょう。



であるならば、何を基準とすればよいのかが問われます。まず、そのメッセージに同胞への愛や思いやりのある話し方であるのかが問題です。そこを注意深く読み取らなければなりません。


シルバーハーチの霊訓と比較されるとわかりやすいのですが、言葉の美しさと、わかりやすさに徹しているかどうかだと思います。


高次元のスピリツトになればなる程、この世的権威や支配欲に駆られた教えは無いからです。




ましてや、地上にある、一宗教団体の為や組織の維持の為に、ここにこそ正しい法があるなどとは間違っても言わないものです。


教祖の生神様になる事に手をかす聖霊や天使はいないという事です。


  


あくまでも受け取る人間の心境に合わせて説かれていきます。全てか霊的人生観の大切さに貫かれている内容であります。



「お前が救世主だ」、「お主らが、世を救うのだ」等の言い回しをする者は低級霊か狂霊であると思っていいでしょう。


このような高圧的な物言いや、その人


の現在の霊性を考慮せず、一方的にしゃべり出す霊界通信は本物ではありません。 それだけに真実の霊界通信は少ないと言えます。現在、世の中に目にする事の出来るものの9割は、霊性の向上にとって意味をなさないものであると思います。



次に霊的真理を多少でも知っていても騙されるケースがある場合です。語る内容に宗教用語が並び、今まで知り得なかった心の教えや、心霊知識に接し、感激して、このメッセージは本物ではないかと思ってしまう場合です。



しかし、あわててはいけません。その結論がどこへ向かっているのかが最大の問題点なのです。9割は正しい、残りの1割に誤魔化しがあるかもしれないからです。


最終的にそのメッセージを受け取っている霊能者や教祖を賛美していたり、生神様信仰と絶対的権威を作り上げようとしている意図があれば、それは、天上界からの霊示でも啓示でもないという事を知って下さい。




人の心の幸福をと言いながら、最後の所で教団の発展と教祖を祭り上げる為の行為を強要していないかどうか、ここが核心です。本当に気をつけたいものです。



その他に、最初の啓示は正しく、次第におかしくなっていく者もいます。


表に出てくる啓示には、教祖や霊能者のプライベートな部分は出てこないものです。ですが、ここに聖霊やハイスピリットからの戒めや禁止されている行為が入っているはずなのです。霊的指導者になろうとしているのですから、当然の事です。それらを守らず、無視し、自分の欲得の為に突走った結果、霊示が降りて来なくなり、(当たり前じゃん!)その後、信者を欺き続ける為に芝居をするだけの、哀れな日々を送る事となるのです。


どうあがいても、その責任は教祖が取らなければならないのですから、改心できるならば早めにすべきです。といっても簡単に事がかたずく訳もなく、信者や会員の人生を食い物にしていた訳ですから、その罪は霊的にも限りなく重いものとなります。



9.唯物論的発想の危険性

宗教を学ぶ、学ばないに関わらず、世の中の仕組みを全て、唯物論的発想で解決出来ると信じこんでいる者達がいます。



しかし、そこには大変な危険性を孕んでいます。それは、唯物論者の帰着は人格崩壊を招く恐れがあるからです。あの世は無い、霊界も無い、霊も無い。目に見えない世界を全て否定し去り、物理学や先端医学の知識を持ち出して、結果的現象のみを解説できれば事足りると考えているかのようです。



しかし、彼等は根源的なものにはけっして目をむけようとしません。なぜ、世界に光があるのか、色が存在するのか、なぜ、美しいと感じるのか、愛を感じるとなぜ、胸の辺りが熱くなるのか、なぜ、人間は神というものを求められるのか。 現代生活では電気は欠かせませんが、電気にはなぜ、プラスとマイナスが存在する必要性があったのか。どのような、科学技術論や医学、DNAや宇宙の仕組みとしてのダークマター理論を持ち出してきても、根源的な問いには何一つ答えは出ない。



2000年前にナザレの地にイエスという男が現れたのは、人類のDNAの性だとでも唯物論者は答えるのであろうか、なんという愚かな事だろう。人間の歴史は目に見えない世界を想い、精神の翼を広げ、飛翔する事によって、文化や芸術を花開かせ、進歩してきたのではないのか。コンピューターの世界のように、0と1の組み合わせで言語を作り、結果を生み出していくようには、人間の精神は出来ていないのだ。それを科学・医学理論でもって、人の心の動きにまで当てはめ、目に見えない世界を否定するように他人にも強要しようとする。そのような行為は人格崩壊を招く恐れがあるのだ。



人格の完成とは、ユング心理学にあるように、表面的に意識出来る人格と、隠された潜在的人格を統合し、バランスよく見ていく中にこそあるものです。唯物論信者は、この概念を破壊しようとしている行為なのです。健全な精神を宿すのてばなく、精神破綻者を数多く生み出し続ける結果となるのです。


毎日、世界中で病気や事故で、人はこの世を去っています。幼い子供達でも重い病気に罹り、短い人生を終わろうとしている子らがいます。唯物論信者は果たしてこのような子供達を前にしても、あの世はない、天国もない、霊もない、ただ死んだら土に帰るだけと言えるのか。この期におよんで人間には情というものがあるから言えないと、逃げるのだろうか。
では、情とは何ですか、なぜ、それが人間の属性として在るのですか、脳内の化学作用でなるのではないでしょう。

なぜ、そこに在るのか、その答えは現在の地球の科学技術論では出ないのです。出ないにもかかわらず、霊界は無いと断言できる精神こそ、傲慢な態度はないのではないだろうか。もちろん、なんでもかんでも盲信すべきと言っているのではありません。目に見えないものに対しては、謙虚に探究を続ける姿勢こそが人間には必要だと言っているのです。
霊的詐欺も人生を破壊し、精神を狂わせますが、唯物論的詐欺もまた、人間の精神を獣にしてしまう危険性があります。その為に、敢えてこのページにて、警告を発しておきたいと思います。
(2004.5.4)




10.生神様信仰の愚かさ

カルト宗教の最大の特徴は、教祖を生神様として拝ませる事にあります。「宇宙の根本神の生まれ変わりだ」、「我こそは救世主なり」と声だかに叫びます。





信仰とは本来魂を開放させるものです。


それは内なる世界の探究を通じて、神仏を感じとっていく行為でもあります。


それとは反対の方向へ導くのがカルト教祖です。内なる探究に導かず、外なる目標ばかりに信者を追い立て、教祖を盲信する事をもって信仰とすり替え洗脳していく。


信者は心に疑問や苦しみを持ちながらも、それを押し殺し、救世主と信じて従おうとする。その姿を考えると私も胸が痛みます。



聖なる者は自分を拝ませたり、崇拝させたりしません。


  


外なるものに常に目を向けさせようとする者は魔界のものでしかないのです。


イエス様やお釈迦様は自分を信仰せよ、と言ったのでしょうか。そうではないでしょう。「汝の心の王国を守れ」、「八正道を通じて心を整えよ」と信者に呼び掛けていたのではないでしょうか。

又、生神様信仰に持っていこうとする輩は、行動パターンとして、王侯貴族のような生活を求めていきます。宮殿のような施設を欲するようになるのです。


これは、独裁国家に見られる現象とまったく同じです。


ルーマニアのチャウシェシク元大統領、イラクのフセイン元大統領、北朝鮮の金など、独裁者の心理状態とまったく同じものが現れてきます。資本主義社会あるいは、民主主義国家においては、大富豪になった者で、宮殿を建設したものは居ないそうです。大邸宅はありますが、宮殿は造れないそうです。

そのような心理状態を正当化する為に、次に出てくるものとして、イエス様の生き方を攻撃していくのです。イエス様を軽んじ、貶めようとする言動を繰り返す事です。自分の欲望を遂げるのに、一番目障りな宗教家としての人生が、イエス様であると感じるからでしょう。なんという卑怯な者達でしょうか。心の教えを説くべき指導者だと思っていたのが、精神異常者を出しかねない、犯罪者に等しい人間であるというのが、彼等カルト教祖の真の姿であるのです。
人々は行く道を間違ってはなりません。自分の良心を押し込め、外なる者に従う道のその先には、狂気の世界が待っています。
(2004.6.11)




11.宗教の教えでは悟れない

悟りは、教えに則っていれば開かれるものではないと私は思います。どの宗教であろうと開祖を超えるか同じレベルの悟りを得た者がいない事が証明しています。

イエス様もお釈迦様も一貫して言っていたのは、全ての人間は神の子、仏の子という言葉でした。
それは、大いなる創造主と同じ能力が本来、我々人間にはあるという事を示しているのです。

その発見には内なる自己を省りみて、内在する力を信頼していくしかないのです。



教えは人を縛り、宗教団体に利用され、金を貢だけの存在にさせられます。そうならない為には、一人一人が神なる道を求めていく姿勢を保つ事なのです。


「教え」ではなく、「道」が大切であるのです。その過程にこそ、悟りたる者が数多く現れるものと思います。

人間を教祖の前で小さき者としたり、崇高な霊存在や宇宙人の前では、無力であると喧伝する集団には近寄ってはなりません。


彼等、闇の住人達は、人類そのものをいつまでも、奴隷のごとく操れるようにしておきたいだけなのです。


我々には、もっともっと偉大なる力が宿っているのです。


それを隠そうしたのが、現文明の歴史でもあったと言えるでしょう。

宗教団体に一時期学ぶのはその人には必要な時はあります。




しかし、いつかは卒業していかなければならないものです。



それは貴方が本当に悟りを求めているのならば。
(2005.2.6)





12.悟りと霊的覚醒
宗教団体が教える悟りとは、常に伝道と団体支援という行為を抜きにしては語れません。まるで、人間の幸福は外なる権威に従ってこそあると言わんばかりだ。そこには、偽善と欺瞞に満ちている。とくにこの手法はカルト宗教に顕著である。


しかし、人間本来の内在せし能力は、全ての人間に備わっている。


悟りとは地上に肉を持って、霊的覚醒を果たしていく行為でしかない。



断じて外なる権威に心を向ける事ではない、内なる神に同一化する事であり、それは、クンダリニーと同じものである。


教祖を生神様として信仰する事は悟りではない。それは魂の後退を意味している。内なる神と同一化するとは、本来の自己の姿になるという事だ。


これから全ての宗教は燃える火の中に投げ入れられる。
それは、不純物が入っているからである。炉の中で溶かされ残った金の部分が霊的真理であった事に人々は気づかされる。



人類を分断して治める事に宗教は利用されていただけであった真実が今後明かされていく。


人類の意識の統一を阻んできた者が地上から平和と楽園を奪い去ってきたのだ。イデオロギーもそうである。ユートピア実現という名目で同じ民族、仲間をも殺戮する暴挙に出る。

現文明の歴史は、物質世界だけに執着する存在が作り出した幻想の世界である。その中で人類は操られ、踊らされてきたのだ。


人間には、そのような卑しい存在に負ける事のない、遥かに偉大なる力が備わっている。


その事を気付かせないように、外に振り向けさせる為に数多くの宗教を生み出し、国を分割し、イデオロギーを作りだした。そして、マスコミやTVを通じてのスポーツ、セックス、スクリーン(映画)によって、洗脳されていただけなのだ。だからこそ、一人でも多くの人が、いち早くめざめなければならないのです。
(2005.5.3)




続く~




DATE:2011/01/12


URL:http://www5e.biglobe.ne.jp/~shinbi7/rei_sagi.html


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