ねえ〜見ててよ〜目を離しちゃダメよ〜 | akyoonの異端の医学と不思議な情報

akyoonの異端の医学と不思議な情報

医学や健康医療の【トンデモ論】を主としています・
本人はいたってまじめ。 しかし自分で自分を検証できないので、眉唾と取捨選択が必要。

200年度版倉庫から 整理しないで捨てます。
その前に



ねえねえ、見てて~~~

 しきりに自分がこれからやる行為を、私に見ていて欲しいとねだる子供。はいはい」と言ってその子のやることを見ていると機嫌良く何かをやる。

 そして、ちょっと他の事に気をやってよそ見をしてしまうと途端にやる気を無くしたようにそれを止めてしまう。

「ねえ~、見ててと言ったでしょ!」と抗議の声を上げて、またこちらを見るように即される。

 こんな経験がある大人、または子供の時に覚えがある人、どうして子供はそうなんだろう?って考えたことがないだろうか。
 
とにかく子供には自分の行動を見ていて欲しいのである。見ていないとつまらないのだろうか。なぜ独りで遊んでいるより、他人(親でも)に見ていて欲しいのだろうか?
 
 
しかし大人になるとそういう事はあまり見られないのもなぜだろうか。 人は他人に自分の行動を見ていて欲しいのだろうか。それとも見られたくないのだろうか。
 実はこの辺にまた何かありそうだからだ。


 
歌手や演技者は観衆に見ていられた方がやりがいがある。見られていない事はほとんど無意味に近いだろう。


では、一般人はどうだろう。

これは見ていられる方が気持ちよい時と、反対に見られていない方が気持ちよい時があるかも知れない。

どうしてだろうか。

こどもの時はほとんど見ていられたい事が多かったのに、どうして大人になると見られていたくない時が増えてくるのだろうか。


 どうもこれは大人になると価値観を持たされているからも知れない。子供の時にはあまり価値観などは植え付けられていないから、何かをやってもそれが成功とか失敗とかの意味づけなどしないのだろう。

だからただ見ていて欲しいだけでいいのである。

基本的には人は「他人から見ていて欲しい自分」を持っているらしい。 
 (自由な自分を見ていて欲しいのかな?価値観で見られると不自由な自分になるのかな?)
 

「他人が見ていない自分はつまらない」という感覚を初めから持っているのではないだろうか。すでに産まれてから他人と自分の関係を重視しているということだろう。
「自分がある」という存在感は他人があってこそのものだからだろう。

他人が認識できるから自分があるのであって、自分独りではその存在感が薄く感じられるのだろうか。

ともかく素直な子供時代はとても自分の見つめて欲しいという欲求があるのである。

 それが大人になってから薄くなってしまうのはどうしてだろうか。

それはきっと植え付けた「価値観」かも知れない。価値観を持つと「成功」とか「失敗」とかの様に行動することや結果ににいろんな価値観をつけてしまうから、見ていて欲しいのだが「失敗」とかいうマイナスイメージ的なものは見せたくない。見て欲しいのは「成功」的行為というか、自分の良い部分だけを見て欲しいことになるのだろう。

 「いい格好」なら見て欲しいが悪い格好は見られたくないという価値判断で分けてしまうのだろう。
 これが肉親とか周りの人たち、学校、社会からふんだんにインプットされてしまうので、自分の行動ばかりか思考までコントロールされてしまうようだ。


子供と大人の違いは価値判断があるかどうかということであるが、基本的にはやはり「他人から見ていて欲しい」という欲求があるのではないか。
 
「ねえねえ、見ててね~~。この池とんじゃうから」とか、「いまプールで泳ぐから見てて」「スキーはいて滑るから見ててよね~」と子供は無邪気に催促するのは他人に自分をアピールすることだと思う。

自分の存在を証明してくれるのは他人だからだ。

自分を見ながら何かを行なうことはできないのだ。他人が居てこそ自分の存在が確認されているのだ。

 こんな欲求が死ぬまで含まれているのが人だとすると、他人は自分を推し量るために必要であり、存在を示すための存在とも言えるだろう。この様に人間は独りでは存在する価値観が見えてこないのだろう。神は複数か単数かと言う話もある。一神にして多神ということもある。もし独一神だとしたら、神は自身の存在感を感じることはできにくいのだろう。


 人を通して神は創造の妙味を味わうというけれど、やはり人も複数でないといけないのは、根本の神だけではそれを味わえないからかも知れない。それを「見てくれている」人が居てこそ「創造する人」の行為が光るのであって、誰も見向きもしない創造者などどんなに素晴らしい創造も価値観がないのだろう。

 幼児が自分の行動を「ねえ~~見ててね~」と言って要求するのはこの辺にあるのではないだろうか。


 ひとには観察者という潜在的な欲求があるのだろうか。


思考続行中