蕎麦は食うが大晦日に合わせて選んだりしない。もちろん紅白まんじゅうを欲しくなったりすることもない。行事としてあるそのようなことに子供のころから反発してきたが、反抗期を少しだけ過ぎた今となってもそれはあたりまえの話としてわたしのかにみそもとい脳みそを侵蝕中だ。そういうことに意義を見出すことができない。
価値観の違い(というよりは盲信と言いたいが)を知的水準の差異に帰してまで話し相手は選ぶべきか。
「おれと○○は考え方が全然違うんだ。話にならないよ」
よく聞く台詞だ。
価値観の違いを認めずも尊重するなんてことができるのか。
「言っても無駄だ。放っておけよ」
容認とは諦念の別称である。って加護ちゃんも言ってたな。ないか。
なによりも嫌うのはそれらがしがらみとしてあるからだ。おれにそれを強要する気かよ、ってなところ。
だがしかし。
そういったところはパーソナルなわたしとしての尺度に過ぎないのではないか。必ずしもその価値観に終始すべきものでもないのではないか。
わたしもこの年になってやっと大人になったか、ただ年のせいなのか、家族の和合を悪いこととばかりは思えなくなってきた。
諦念が容認を呼び、それは尊重に至るのか。そんなことはすでにどうだっていい。誰かと一緒にいることに意味があるのだ。
大晦日の蕎麦そのものに意義を見出すことができなくても、それはただ取っ掛かりであり、我々の生活に生ずる様々に余計な事柄はすべてそのための小道具として意味を持つ。
「国民統合の象徴としての蕎麦」ってなところでどうか。