下流成仏法・疏 | ジャズと密教 傑作選

ジャズと密教 傑作選

空海とサイババとチャーリー・パーカーの出てくるお話です

「雨ニモマケズ」は法華経に親しんだ宮沢賢治がその教示するところに従って記したという説が有力のようですが、まあ、おおざっぱに言って、人間の心に必ず在って諸悪をもたらす「我執」なるものの、その浄化を目論む修行者としてのスタンスが表されているのだと思います。この考えに従えば、

雨ニモマケズ
風ニモマケズ

の「マケズ」は負けない=勝つ、克服するということではありません。むしろ、気にしない、それらに対して心を砕かない、それらによって気持ちが左右されることがないといった方向の意味を持っています。自分の周りに起こるあらゆる事象にたいして執着を持たないということです。

雨も風もあらゆる事物は、ただそれであるに過ぎません。それはそれでしかない。それ以上の意味は持たない。自分がそれに対して抱いた想い(つまりそれこそが我執)をそこにその意味として付与してはならないのです。


酒は酒でしかない。
とある植物の化学反応を経て生成するアルコール分を含んだ液体に過ぎない。
それにはその意味しかない。
我々はそれを口にするとき、ただそれを素直に味わえばよい。
(サイタマ語の古い詩より)


自然の摂理に基づいて出来上がった酒なる物質はたぶん相応に美味なものと思われます(どこかのいんちきな会社がなにかを混ぜて酒と言い張っているような代物でない限り)。

同じ宇宙大霊のうちに生きる我々がそれを舌にのせれば、アートマとしての受用作用がそこに生起します。宇宙一大生命体の突端にアートマとして個性ある精神性を育む我々は、ひとつの味としてそれを感得し、そして得も言われぬ感覚に覆われるのであります。

それは単なる舌の感触を超えて脳髄中のあらゆる分野(精神の領域)に届きます。感覚は広がり、やがていつも同じ場所に収斂していきます。

そのときそのことを遊戯神変の境地と呼ぶのでしょうか。宇宙本体と自身との間に合一の起こる瞬間であり、そこに至福が湧起します。

これが神に等しき「酒」と対峙するときに求めるべき道筋であり、また、正しい心構えもそこから導き出されなくてはなりません。チャーリー・パーカーのアドリブや
海原雄山 の冷やし中華に神の至高を観るように、誠実に造られた酒から神の恩寵を受け取るべきです。

我執に基づかず、心を平安に保って事物と接することが肝要です。間違っても酒処に入り浸る素浪人(
三船敏郎 もしくは近衛十四郎 )みたいに「おやじ、もう一杯。さっさとしろ」などと飲むことへの執着を断ち切れない個我を顕わにした言動を弄してはいけません。そのような我執の発露に任せた生活習慣が呼ぶのはせいぜい二日酔いによる頭痛と嘔吐くらいのところでしょう。

ところで雨でしたね。雨も酒と同じです。雨はただ雨という現象であるに過ぎない。成分は水。そしてどこかで発生しては上空から降ってくる、という特徴を持った自然現象であり、それ以上でも以下でもない。雨はただ雨でしかない。

「いやあ、雨が続くと滅入るねえ」などという我々の感想は期待されていません。
雨が降ってくれないと困る人、反対に止んでもらいたい人。それらはそれぞれの事情や都合であり、そこに惹起する感情というのはそれぞれの様々な理由から生ずるそのことに対する執着の発露に他なりません。

現実的な事情は分かりますが、感情は要りません。
瞋りや不安や悲しみの感情は人の心の層に染み付き、我々が本来持っている仏性を覆い塞いでいきます。

「我執が諸悪の根源である」とはこの仕組みに論拠を求めることができます。本当は誰もが持っているはずの仏性が著しく発現し辛い心の構造がそこにはあるのです。

雨を五感に感じながらさまざまに想いを馳せるのも
歌謡曲 の歌詞の世界であれば悪くないのかも知れません。一つひとつの情緒に耽ることもまたその人の精神の視野を大きく広げてくれるだろうからです。

でも、例えば農耕において現実の事態(雨が降るにしろ降らないにしろ)を前に、先のことを思って不安に駆られたりしてもいいことはなにも起こりません。悶々とした負の感情に心が支配され、そのような暮らしの中に埋没していくだけです。

個我の感情を発生させることはそのまま執着なのです。「ああ、困っちゃったなあ、どうしよう」と考えるときに同時に湧き起こっている暗い想念は、その事象から遠ざかろうとするという形でのそのことへの執着なのであります。

執着というとそれを強く欲してしがみつくことだと考えがちですが、反対にそれを嫌うという感情も、その想いを以ってそれに執着しているということに他ならないわけです。いずれにせよ執着心は本来抱くべき想念を汚します。

宮沢賢治がどのように考えたのかわたしには分かりませんが、少なくとも在家の信仰者に成仏=解脱まで誰も求めはしないでしょう。では、市井の人々は実生活の中でさまざまな出来事とどう対峙するのでしょうか。

まあ、なんといっても実際のところ、能天気が一番だと思います。同じ事象を前にしてマイナス想念に捉われる人とそうでない人。不安や瞋りからはその事柄への対策もかえって生まれ難いのではないでしょうか。


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さて、我欲を浄化して平安を得るという仏道修行があるならば、一方で、人の向上心に基づく欲望を絶望的に諦めざるを得ない状況に陥ったときにやはり、心の表層にこびりついた欲というものが、いやいやながらも必然的に剥がれ落ちていくのではないかという論法を前の記事 で考えてみたわけです。

絶望的な未来への展望を前に、もうどうだっていいやという気持ちに誰だってなってしまうかも知れません。日々の生活における欲なんてものはそこにあって大きく減退していくように思います。

となると、どちらも我執調伏の方法としてそれぞれ有効な道筋といえるではないですか。いやむしろ後者の方が具体性ゆえに実践的なのではないか、とすら主張できるのです。

執着心の特定とその浄化は仏道修行の根幹です。一方に私説「心を浄化する方法・下流層編」をご紹介した次第です。

まあ、ブラックな労働に就いて考えることを放棄し、麦を薄めたビールのでき損ないをあてがわれて不都合なことを全て忘れる生活に、解脱なんてものが訪れるとはとても思えませんがね。

じゃんじゃん!


雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ