大泉サロンの続きです。
周辺を詳細に紹介しようと思ったのですが、大泉サロンについては、当事者同士のいろいろな事情があるので(詳しくは「大泉サロン」で検索してください。)場所が特定できた最低限だけを書いておきたいと思います。
書籍やネットの情報からいくつかの場所にしぼり、1972年の住宅地図で確認したら、載っていました。
「竹宮」そして、右下斜め向かいに「増山」とあります。地図の右上隅に鉄塔の記号もあります。
「念願の共同生活の場は、増山さんの自宅から徒歩30秒。道を隔てた、斜め向かいにあった。それを始めて見たときのショックは忘れられない。まず間違いなく築30年以上は経っている外観だった。のちに『大泉サロン』と呼ばれるこの長屋にはアパート名さえもなかった。この名もなきオンボロ長屋からすべては始まったのだ。」(竹宮恵子著「少年の名はジルベール」より)
表示が「竹宮」になってますが、竹宮さんが萩尾さんを誘った形での共同生活なので賃貸契約は竹宮さんで結び、表札や郵便受けの表示も「竹宮」になっていたのではないでしょうか。(住宅地図の表示は調査員が踏査で表札や郵便受けの表示を見て確認しているそうです。)
(中川右介著「萩尾望都と竹宮恵子 大泉サロンの少女革命」の中でも、「家主ではあったけど、出入りについてはチェックしてないし、ほんとうに自由なコミューンみたいな感じでやってました。(1997年の竹宮さんの語録)」と、「家主」と発言していることが紹介されています。
1975年1月の航空写真より。大泉サロン、右下が増山さんの実家。全体の航空写真を見るとまわりはほとんど畑です。
現在の航空写真。2軒ともすでに建て替わっています。特に大泉サロン跡地の建物は少なくとも2度目の建て替えが行われています。増山さんの実家があった右斜め上に2軒対角に民家がありますが、これは当時の頃から現存しているものです。その先に鉄塔が映ってますね。
周辺は住宅が建ち並んでいますが、一部畑は残っています。また画像には映っていませんが、下側(南側)にはバス停から大泉サロンに向かうため、当時彼女たちが歩いたキャベツ畑の中の一本道が現在も農園の中に残っています。
こちらが当時、「キャベツ畑の中の一本道」として語られている通路で現在も残っています。
(萩尾望都著「一度きりの大泉の話」)に、「バス停を降り、畑とキャベツ畑の道を10分ほど歩くと住宅地で、そこが長屋、住まいでした。1971年の秋にキャベツ畑の道で子猫を見つけました。目も開いていません。ピーピーと泣いています。拾って帰りました。皆、飼うのを賛成してくれました。『バタ』と名づけました。」という記述があります。まさにその道ですね。
キャベツを始めいろんな作物が栽培されているようですが、現在は通常の畑ではなく、体験農園となっています。当時はこの通路を進むと最初にある民家が増山さんの実家で、現在は手前側の当時キャベツ畑だったところに多くの民家が建っていますが、当時は増山さんの実家も左側に映る民家のように見えていたのだと思います。
「2階の増山さんの部屋のベランダの窓を開けると、遠くの常緑樹の木立と、家の前に広がるキャベツ畑がみえました。へぇ、都会の東京にも広いキャベツ畑があるのだなあ、大泉っていいところだなと思いました。『一度きりの大泉の話』」にも書かれています。
大泉サロンと呼ばれた二階建ての二軒長屋の建物について、竹宮さんが「それを始めて見たときのショックは忘れられない。まず間違いなく築30年以上は経っている外観だった。『少年の名はジルベール』」と述べているように、当時出入りしていた多くの方がかなり古い建物だったと語っており、もしかしたら戦前に建てられた建物かもしれないと思っていましたが、意外にも古い航空写真で確認する限り、共同生活を始めた当時はまだ、築数年ほどしか経っていなかったようです。
1963年6月の航空写真より。1970年に二人が共同生活を行う7年前のものです。建物どころか道路もまだきちんと出来てないようです。どうして数年でそんな劣化したのか謎ですが。
上の現在の航空写真に映っている増山さんの実家の斜め上の、鉄塔との間の2軒の民家がこの頃も存在していたことが確認できます。