(ネタバレあり)
ドラマは西暦1005年から1006年になります。

寛弘2年3月27日(1005年5月8日)
一条天皇(塩野瑛久)と亡き定子(高畑充希)の子・脩子内親王の裳着の儀が執り行われました。数えで10歳です。ちょっと早いですね。
ここで一条天皇は、道長へのけん制のため伊周(三浦翔平)を大納言の上座に座らせるように命じます。

数日後、道長は藤原公任(町田啓太)、藤原斉信(金田哲)、藤原行成(渡辺大知)とともに土御門邸で漢詩の会を催し、伊周・隆家(竜星涼)兄弟も招きます。
伊周は会のはじめに道長に丁重に挨拶をし、漢詩を詠みました。


一条天皇は道長を清涼殿に呼ぶと、伊周を陣定に参加させるよう公卿たちを説得せよと命じました。
道長は陣定は参議以上と定められておりますゆえ、誰か死ぬか、退かねば無理だと断ります。


道長はまひろ(吉高由里子)を訪ね、献上した物語が一条天皇の好みには合わなかったことを伝えました。
ですが、まひろに落胆する様子はありません。
物語の続きを読んでみると、そこには自分の愛した女性の本質が表れていました。


後日、道長が娘・藤原彰子(見上愛)を訪ねて敦康親王と遊んでいると、思いがけず一条天皇が藤壺に表れました。道長が挨拶をして去ろうとすると
「読んだぞ あれは朕への当てつけか」
「書いたのは誰か?」と問われ、
「藤原為時の娘まひろ」だと道長は答えます。
「続きを読んだら、まひろにまた会いたい」と一条天皇は言います。


道長はまひろを訪ね、彰子の女房にならないかと持ちかけました。
まひろが、帝を彰子のもとに呼ぶための”おとり”かと問いかけると、
その通りだと道長は答えます。


家計を考えると自分が藤壺で女房として働くしかない、とまひろ。
賢子を為時に預けて藤壺に上がることに決めるまひろ。

まひろは藤壺を訪れ彰子に挨拶をします。
女房として出仕するのは翌月からと決まっておりで、この日は赤染衛門(凰稀かなめ)が内裏を案内してくれました。


寛弘2年9月26日(1005年10月31日)。
安倍晴明の危篤の知らせが入ります。
駆けつけると、床に伏した晴明は、今夜死ぬと予言します。
「ようやく光を手に入れられましたな これで中宮様も盤石でございます。思いのままにやれ」と清明が最後の言葉を言います。享年85。

寛弘2年11月13日(1005年12月16日)
一条天皇は伊周を再び陣定に召し出す宣言をしました。

寛弘2年11月15日(1005年12月18日)
皆既月食がおきました。
そして月食が終わる頃、内裏から火の手が上がり、またたく間に燃え広がりました。
(この時代日食や月食は不吉なもので、こもってしまうため、内裏からも人がいなくなります。でも帝や中宮のまわりに一人もいないのも不自然ですね)

12月29日の朝。
為時の屋敷では、家族一同が揃って内裏に出仕するまひろを見送りました。



【紫式部が宮中に出仕した日】
「紫式部日記」によれば、初めて宮中に出仕した日は12月29日と書かれていますが、何年なのかが書かれていません。状況から寛弘2年12月29日(1006年1月31日)か寛弘3年同日(1007年1月20日)のどちらかと想定されています。
ドラマでは寛弘2年(1006年)としています。
しかし、国文学者の萩谷朴先生の論文などにより寛弘3年(1007年)の方が有力とされています。

「紫式部日記」には寛弘5年7月(1008年)の出来事から寛弘7年1月(1010年)までのことが書かれています。
宮中に出仕した件は、寛弘5年12月29日(1009年1月27日)の条に書かれています。
中宮彰子が出産のため土御門邸への里帰りに同行し、敦成親王(後一条天皇)を出産後また内裏(一条院)に戻りますが、紫式部が内裏に戻ったのが寛弘5年12月29日です。この時に初めて出仕したのも同じ日だったと書かれています。

紫式部は出仕しても、すぐなじめず実家に戻り在宅勤務(リモートワーク)を始めます。これは次回の第33回の予告にも書かれています。
この時代のリモートワークはZOOMではなく和歌のやりとりで行っていたようです。


【和暦と西暦】
余談ですが、このドラマは年の暮れの出来事が多いドラマです。
この時代のことは一般的には和暦で書かれることが多いですが、ドラマでは西暦も使用しています。ドラマの冒頭では必ず西暦が表示されます。今回は1005年となっていました。
しかし紫式部が出仕したであろう日の寛弘2年12月は西暦(ユリウス暦)では1006年に変わっています。寛弘2年は一般的には1005年なので、間違う人も結構います。
今回32回のドラマは和暦では寛弘2年の出来事ですが、西暦(ユリウス暦)では1005年~1006年の出来事となります。

このドラマの公式Xにおいても、上記「紫式部日記」の日付の年を間違えています。(25日22時の時点です)
寛弘5年(1008)12月29日条となっていますが、寛弘5年12月29日は西暦では1009年1月27日です。
 

「光る君へ」の時代を考察する(第三十一回)