(ネタバレあり)
ドラマは西暦1004年です。
道長からおもしろいなら中宮様(見上愛)に届けたいので、「カササギ語り」を読ませてくれと言われます。
まひろは燃えてしまったので無いというと、もう一度書いてほしいと道長に頼まれます。
できないなら、新しい物語を中宮様のために書いてくれと道長から頼まれることに
斉信(金田哲)が従二位に叙せられ、公任(町田啓太)は自分よりも先に斉信が出世して以来、出仕しなくなっています。
実資(ロバート秋山)もやってきて、公任に出仕するように言います。
(この年10月1歳年下であった斉信が従二位に叙せられ、公任は位階の上で越えられてしまい、ショックを受け出仕しなくなります。
12月に中納言の辞表を道長に提出します。
翌年7月に従二位に叙せられ、公任は再び参内を再開しています。これにより公任は道長により接近することになります。)
四条宮での学ぶ会の後、まひろはあらためてあかね(泉里香)に『枕草子』の感想を聞いてみました。
あかねは、『枕草子』にはなまめかしさがないので惹かれないと答えます。
「黒髪の乱れもしらずうち伏せばまづ掻きやりし人ぞ恋しき」(後拾遺和歌集)
要は『枕草子』にはエロが無いと言いたいのでしょうね?
だから『源氏物語』にはエロが豊富なのですね。
あかねから『枕草子』を借りて再度読んでみます。
道長の嫡男・田鶴(後の頼通)は元服の際に正五位の下の位を得ました。
源明子(瀧内公美)はまもなく元服する自分の息子たちにも頼通に負けない地位を与えてほしいと道長に要求します。
倫子(黒木華)とも明子とも夫婦関係がよくない道長は、内裏に泊まる日が多くなっていきました。
(この頃道長は内裏に泊まっていたことは「御堂関白記」にも書かれています)
道長に文を書き、中宮様のための物語を書くにふさわしい良質な紙がほしいと頼みます。
数日後、書き上げた物語を読む道長。
時折笑いながら飽きずに楽しく読めたと話します。
道長は、「枕草子」を超える書物を献上することで一条天皇(塩野瑛久)を亡き定子の呪縛から解き放ちたいのだと明かしました。
ならば違う物語を書こうとまひろは提案します。
そして一条天皇のことを教えてほしいと言います。
(このシーンって、源氏物語のアイデアが天から降ってきたということを表現したかったのでしょうか?よくわからない演出でした)
その日から一心不乱に執筆に没頭するまひろ。
書き上げた物語を道長が受け取りに来ました。
ちょうどそこに賢子がきました。
道長をじっと見つめる賢子。
いくつかと問う道長。
献上された物語をさしたる興味もなく読み始める一条天皇。
【源氏物語の作者は?】
源氏物語は平安時代に書かれた日本最古の物語で、54帖から構成されています。
作者は紫式部とされています。
原本は存在していません。紫式部の直筆のものも存在していないため、筆跡は不明です。そのため、源氏物語の作者が紫式部であるという確実な証拠はありません。
「紫式部日記」の中に「源氏の物語」とよばれる記述が数か所でてくることが根拠とされています。
現在源氏物語の写本は数多く残っていますが、全巻そろった写本はありませんし、内容も同じものはありません。
「紫式部日記」によれば、この時代にすでに多くの写本が存在したことがわかります。
写本の中で現存する最も古いものは、源氏物語が記されたおよそ200年後に活躍した歌人、藤原定家が書き写した「若紫」の写本です。定家の直筆と確認されています。
また「紫式部日記」の原本も残っておらず、写本の表紙の表題は「紫日記」とあり、内容にも紫式部の名の記載はなく、いつから「紫式部日記」とされたかは不明。なので、これが紫式部でなければ、「源氏物語」も紫式部の作品とは言えなくなります。
宮中での女房名は「藤式部」と呼ばれており、それがなぜ「紫式部」となったかは定かではありません。
紫式部の晩年は記録から消えているので、いつ亡くなったかも含めよくわかっていません。
このドラマでは「源氏物語」は1004年から書き始められたことになっていますが、いつ頃から書き始めて、いつ頃に完成したのかもわかっていません。
話は変わりますが、この時代の人で直筆が残っているのは、道長(御堂関白記)、行成(権記)、実資(小右記)などです。清少納言や和泉式部は残っていません。
道長直筆の「御堂関白記」は世界遺産にも登録されています。
(この後、ブログを書きながら夜9時からのTBSのブラックペアン2を見ていたら、源明子が出てきた。)
「光る君へ」の時代を考察する(第三十回)