(ネタバレあり)
ドラマは西暦990年から993年になります。

道隆は娘の定子を公卿たちの反発を無視して中宮にし、
詮子を内裏から遠ざけようとします。


道長は兄道兼を慰めます。

道隆は道兼を内大臣に昇進し、他の身内も昇進します。
それを見て、道長や実資は心配します。

道隆の妻貴子は、ききょうを定子の教育係の女房にします。

道長と伊周は弓競べをします。


倫子の父源雅信が亡くなります。享年74。



まひろは石山寺に詣でて、兼家の第二夫人だった寧子:藤原道綱の母(蜻蛉日記の作者)に会い、自分も書きたいと思うようになる。

道綱は夜這いの相手を間違える。不適切にも程がある。



【定子は一条天皇の正妻なのに、なぜ中宮になることに反対されたのか?】

中宮とは太皇太后(天皇の祖母)、皇太后(天皇の母)、皇后(天皇の妻)の総称で合計で3人までというのが前例でした。

この時すでに3代前の帝の正妻・昌子内親王、当帝の生母・藤原詮子、先々代の帝の正妻・藤原遵子の3人が存命だったため、空きがありませんでした。
そのため、公卿たちに猛反対されます。

「光る君へ」の第四回でも、円融天皇の皇后の藤原媓子が亡くなり、空席が1できたため、その席を藤原遵子と藤原詮子が争い、詮子が負けるシーンが描かれました。
2人とも円融天皇の后なので、中宮になってもおかしくないのですが、定員が3人だっため、そうなりました。


【紫式部は石山寺で源氏物語を書いたのか?】

「石山寺縁起絵巻」では、紫式部が石山寺で源氏物語の構想をねっている様子や、詮子、清少納言、藤原道綱の母(「蜻蛉日記」の作者)、菅原孝標の女(「更級日記」の作者)などの有名人が詣でた様子が描かれています。

紫式部以外については、「蜻蛉日記」や「更級日記」などそれ以外の記録で裏付けられていますが、紫式部については、「源氏物語」や「紫式部日記」など他の記録には出てきません。

さらに、「石山寺縁起絵巻」には、珍しい物語が読みたいという一条帝の叔母の選子内親王が一条帝后の彰子に言ってきたので、彰子に仕えている紫式部につくらせることにするという記述まである。

一般的には「源氏物語」は、紫式部が藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始め、その物語の評判から藤原道長が娘の中宮彰子の家庭教師として紫式部を呼んだということになっています。

正直なところ、「源氏物語」は原本の一部すら残っていないため、紫式部の筆跡も不明だし、紫式部が書いたという証拠は全くない。あくまで状況証拠のみである。

 

「光る君へ」の時代を考察する(第十四回)