(ネタバレあり)
ドラマは西暦990年のままです。

土御門邸でまひろは帰宅した道長と再会しますが、何事もなかったように別れます。

老いが進む兼家は出家し、道隆を後継指名します。

家のために手を汚してきた道兼はおもしろくありません。
さらに、兼家から、人殺しに家の長は務まらないとまで言われます。

兼家の第二夫人(藤原道綱の母)は息子の出世を懇願します。
兼家の正室は9年前に亡くなっています。

明子は兼家の扇を使って呪い殺そうとしています。

翌朝庭で兼家が亡くなっているのを見た道長は亡骸を抱きしめます。

明子は兼家の死と引き換えのように流産しますが、道長は優しく見舞います。

絶望した道兼は荒れ、妻子が出て行ってしまいます。
ただ、ドラマで描かれていたのは正妻ではなく、第二夫人のほう。
この時点ではまだ正妻は存命のはず。

宣孝(佐々木蔵之介)が筑前守に任ぜられて筑紫に赴任することになる。
この8年後には宣孝とまひろ(紫式部)は結婚し、一女をもうけるが、

その2年後には宣孝が亡くなってしまう。(1001年)
宣孝と紫式部は又従兄妹の関係である。

摂政となった道隆は独裁政治を行い、長男伊周(三浦翔平)を数え17歳で蔵人頭にします。

伊周の伴侶選びのため、和歌の会が開かれ、まひろやききょうも呼ばれました。
清少納言(ききょう)は981年頃に数え16歳で結婚し、翌年長男を産んでおり、

この時はまだ離婚していないし、伊周より年も8歳上です。
紫式部と清少納言が談笑するなどということは絶対になかったと思います。

道長は道隆より、現中宮を皇后に、定子を中宮にするよう命じられます。
前例にないことをさせられます。
検非違使が罪人を殺しているような話がありました。これは事実なのだろうか?



ドラマでは明子が流産します(990年)。

この時代流産や早世した場合、記録に残らないことが多いので、確かなことはわかりません。
定説では、明子は988年に結婚して、最初の子頼宗は993年に生まれています。
倫子は987年に結婚して、988年に長女、992年に長男を産んでいます。

これに対して、明子の方が先に結婚していたという説を唱える先生方もいます。
その根拠は、道長がチョメチョメをしたのは明子の方が先だというものです。

この時代、婚姻届けなるものはないので、結婚の手続きとは?

道長と倫子で説明します。(ドラマでは省略されています)
①道長が倫子に懸想文(ケソウブミ:恋文)を送ります。
②道長が夜這いしてチョメチョメします。
③道長は夜明け前に退出し、後朝(きぬぎぬ)の文を送ります。
④3日間続け、三日目の夜に三日夜(みかよ)の餅を食べます。
これで結婚が成立します。
また披露宴をひらくこともあったようです。

どこかで途絶えれば結婚はなかったことになります。

どちらが先に結婚したかは確実なところわかりません。

その期間に生理になったら、どうなるのかという問題がありますが、

これは絶対に避けないといけない問題です。

この時代生理は穢れたものとして扱われました。

967年(康保4年)より施行された延喜式では妻が生理の時は夫は宮中に参内できないと

規定されていたため、夫は生理休暇となったようです。

日本で生理用品に関する最古の記録は、ちょうどこの頃で984年です。
円融天皇に献上された医学書の中に「月帯(けがれぬの)」というものが紹介されており、

これが生理用品として使われていたと記録されています。


話は戻りますが、逆に離婚は夫が通わなくなったら離婚です。
この時代の大宝令によると、3年夫が帰ってこなかったら他の男と結婚できるとか、

条件が決められていたようです。
 

「光る君へ」の時代を考察する(第十三回)