ルカの福音書6:38 | 聖書が読みたくなる学び

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*38節を読みましょう。

 マタイの福音書には次のようなみことばがあります。

マタイ7:7「求めなさい。そうすれば与えられます。」

 これは順当な教えに聞こえますが、今日の箇所では、「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。」とあり、こちらはやや難しい要求のように受け取れます。なぜなら、普通の感覚では「与える」なら “減る” と考えるので、与えたのに「与えられる」= “増やされる” とは考えにくいのです。それに、マタイのみことばと比べると、反対のことを言っているようにも感じますが、どういうことなのでしょう?

 まず、ここは27節から始まった “愛する” ことの具体例が語られている部分であることを意識して読む必要があります。つまり、ここで “与える” ものは、物質的なものや金銭的なものではなく “愛” のことなのです。

 もし、物質的なものや金銭的なものを指すのであれば、“与えたら与えられる” (お返しが必ずある)という法則はほとんど成り立ちません。むしろ、そのことについては34~35節で「返してもらうことを考えずに貸しなさい」と、見返りを期待しないで差し出すことを教えているので、ここで繰り返し語る必要はないでしょう。また、直前には「さばいてはいけない」ことと、「赦しなさい」ということが教えられているので、“さばくことなく、赦す” ために必要なものとして “愛を与える” ことの勧めであるとわかります。

 では、“愛を与える” なら、自分も “愛が与えられる” とはどういうことでしょう? 

 人間の愛は感情的で偏っているので、愛情を注いでも、思うように相手が応えてくれる(愛してくれる)とは限りません。しかし「与えられることもあります」という曖昧な表現ではなく、「与えられます」と言い切っています。これは、この約束を与えてくださっている方(イエスさま)が与えてくださるから、このようにはっきりと言い切っているのです。

 そもそも、犠牲を伴うような “愛” は、私たちのうちにはありません。そのような “愛” は、イエスさましか持っておられないのです。それは、イエスさまの成し遂げられた救いの御業(十字架)に示されました。私たちを救うために、ご自身をすべてささげてくださったのです。その犠牲の愛を受けて、私たちは救われたのです。

 イエスさまは、全ての人が救われることを願っておられます。

Ⅰテモテ2:4「神はすべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」

 …ということは、イエスさまの十字架に現わされた愛は “すべての人” を対象としているのです。しかし、その愛が自分のためであったことを知らない人、認めていない人はたくさんいます。その人たちに「あなたのためだった」と伝えるのは、先に愛を受けた(救いを受けた)私たちなのです。それが今日のみことばで「与えなさい」と言われていることの意味です。

 福音という “良い知らせ” を伝えることは、良い情報を共有することと似ています。例えば、新しい店が開店セールをしているとか、特売の情報とか、おすすめのテレビ番組や旅行先など、つい誰かに話したくなる(教えてあげたくなる)ことがあるとき、その情報を提供したからと言って、自分が何か損失することはありません。すでに得て、体験したことは減らないし失わないからです。むしろ、その情報を聞いて、お店に行った人は、その人自身も情報通りのお得な体験ができるので、その喜びは一人のものから二人で共有できるものへと広がって行くのです。それがここで言っている「与える」ならば “損失” することなく、むしろ「与えられる」と言っていることの意味です。

 そして、私たちに「与えなさい」と命じられている “愛” も、もともとは自分の内に無かったものですが、それを “誰か” を通して、神さまが自分のところへ分かち与えてくださったものなのです。そういう意味でも、“自分のものが減る” ということは無いのです。神さまは何も無いところから無理やり奪い取ったり、搾取するお方ではないのです。与えた上で命じておられるので、誰でも従うことができるのです。

 与えられた愛だから、それを分かち与える。なぜならば、分かち与えるために与えられた愛だからです。

 

*お祈りしましょう。