*1~2節を読みましょう。
5章前半は、「わたしは歌おう・・・ぶどう畑についてのわが愛の歌を」とあることから “ぶどう畑の歌” と呼ばれている箇所です。
ここでは、イスラエルを「ぶどう畑」にたとえ、主なる神を「ぶどう畑を持っていた」人にたとえて、その関係性と関わりの歴史を歌っています。
まず、ぶどう畑は「よく超えた山腹」という恵まれた環境にあったと言われています。イスラエルの民が導き入れられたカナンの地は肥沃な土地で、豊かな収穫が見込める土地でした。
続く2節では、ぶどう畑の持ち主である農夫が、肥沃な土地に胡坐をかくことなく、「掘り起こし、石を取り除き」と、丁寧で十分すぎる手入れをしている様子が描かれています。
さらに、盗人や獣の侵入を警戒するための「やぐら」を造り、豊かな収穫を期待して「酒ぶね」も準備しました。この「酒ぶねまで “も”」の “も” という一文字が、最大限の手入れと準備をしたことを物語っています。
このような主なる神の関わりは、1章では次のように記されていました。
イザヤ1:2「子らはわたしが大きくし、育てた。」
しかし、上記のみことばの続きは喜ばしいものではありませんでした。
イザヤ1:2~3「しかし彼らはわたしに逆らった。…イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」
主なる神の恵みを受けるだけ受けて、責任を果たすことは放棄したのです。そのことが5章でも語られます。
「甘いぶどうのなるのを望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。」
農夫のぶどうに対する愛情と労を踏みにじる結果になったのです。
「酸いぶどう」とは、未熟や糖度の低い果実のことを指しているのではなく、“悪臭を放つ” という意味なので、とても食べることができない物が成ったことを示しているのです。
神さまは、目に見えない存在であるご自身を、すべての人に知らせるための視覚教材としてイスラエル民族を選ばれました。しかしイスラエルの民は、異邦人に神の存在と救いを告げ知らせるどころか、逆に「神の民、選民」であることを都合よく受け取って誇り、異邦人たちを軽蔑するようになったのです。…その一方で、異邦人文化に興味や羨望を持ち、王制を要求したり、異教文化や偶像礼拝をしたりと、新約的に言うならば、キリストのかおりを放つはずが悪臭を漂わせるような、証しとは真逆の生活をするようになっていったのです。
ちなみに、新約に記されているぶどう園のたとえ(マタイ21:33~、マルコ12:1~、ルカ20:9~)は、この箇所の続編のような形で語られたものです。
*3~6節を読みましょう。
「エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ」
1章では、神さまがイスラエルを被告として訴えている場面から始まりましたが、ここではエルサレム・ユダに対して、「わたし」(=神)に非難される点が見つかるなら訴えてみなさいと呼びかけています。
イスラエルが期待外れの「酸いぶどう」になってしまったのは、神が「何か・・・しなかったことがあるのか」、それとも、イスラエル自身の問題なのかを考えてみなさいと。
「さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがぶどう畑に対してすることを」
「わたしを訴えてみなさい」という要求は、神ご自身がイスラエルに対して注いでこられた愛とあわれみに自信を持っておられるからこその挑戦です。だからこそ、それに応えなかったイスラエルに報いとしてのさばきを告げられます。
「垣」とはぶどう畑を囲うフェンスの様なもののことで、これが取り除かれるということは、外部からの侵入者によって荒らされることを意味します。つまり、神さまはイスラエルを敵の手に渡して守らない、ということです。「石垣」とは、ぶどうの枝を這わせる場所のことと思われます。それを崩すということは、ある意味、イスラエルが寄りかかっているもの、頼って身を任せているものをことごとく失わせることを意味します。これによって、イスラエルは頼りとしていたものが空しいものであることを思い知るのです。
「枝はおろされず」とは、結実のために必要な剪定がなされないこと、「草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る」とは、雑草が伸び放題でぶどうに行くはずの養分が横取りされてしまうことを意味し、イスラエルが外からの攻撃だけでなく、内部の無秩序や混乱によって弱り果てることを示しています。
そして「雨を降らせない」とは、雨が降らないことで渇き、枯れていくことを意味しますが、「雨」は恵みの象徴でもあるので、神からの恵みが注がれることは無い、ということを示しています。
*7節を読みましょう。
イスラエルが「酸いぶどう」になった理由を告げています。
主が望まれたもの「公正・正義」に対して、ユダは「流血・泣き叫び」を返したと言われています。この部分を原語で見ると「公正」と「流血」、「正義」と「叫び」が、それぞれ音が似ていることばが対になって使われていることがわかります。つまり、“似ているのに全く違うもの”という皮肉表現を用いているのです。
「酸いぶどう」が見た目はおいしそうに見える果実だった、でも、近づいたら悪臭を放つ悪い実だった、という外面と内面のギャップを描いているのです。
神さまはイスラエルが完璧でないことを責めているのではありません。外面と内面が違う=偽善装っていることを嫌われ、悔い改めを迫っておられるのです。それは私たちに対しても同様です。愚かさ、罪深さを隠さずに認めて悔い改め、それらを取り扱っていただくために、神さまのあわれみにすがり、救いを求めることを願っておられるのです。
では、5章1~7節を読みましょう。
・・・最後にお祈りしましょう。