イザヤ書1:1~20 | 聖書が読みたくなる学び

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*1節を読みましょう。

 本書は「アモツの子イザヤ」によって著された預言書です。その内容は「ユダとエルサレム」に対してのことばであるように、イザヤは南ユダ王国で活動した預言者です。

「ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代にみたもの」

 イザヤは南ユダのウジヤ王(別名アザルヤ)が亡くなった年から預言者として活動し始め、ヒゼキヤの子マナセ王治世下に殉教死するまで約50~60年間、みことばを語り続けました。

年代的にはⅡ列王記15~21章の頃ですが、その頃はどんな歴史的背景があったのかを少しまとめてみました。

 

 その他の描写としては、病気になったヒゼキヤ王のもとに時に主からのみことばを告げに来たことがⅡ列20章に記されており、王に対しても直接言及できる位置にいた預言者でした。

 ・・・このように、アッシリヤの脅威にさらされている時代であり、北イスラエルが目の前でさばかれたことを見ても、教訓を得てへりくだることも悔い改めることもしなかった暗い時代、それがイザヤ書の背景です。

*2~3節を読みましょう。

 イザヤ書は南ユダが舞台となっていますが、南ユダの民に限定して「聞け」と呼びかけているだけではなく、「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ」とあるように、被造物全体に対して、主からのメッセージを畏れてしっかりと聞くように呼びかけることばから始まっています。

「子らはわたしが大きくし、育てた」

 ここでの「子」とは、イスラエルの民(特に南ユダの民)のことです。「大きくし」とは、“高くする” の意味があり “建て上げる”、“再建する” などと訳すこともできます。そして「育てた」は、養い育てたことを示し、これらは主なる神がどのような方であるかを示しています。つまり、かつてイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放して救い出し、何もない荒野で養い育てた主である、ということです。そして、これからさばきが宣告されるのですが、そのさばきから再建(回復)してくださる方でもあるからこそ、今から語られる警告に聞き従わなければならないという意味も含んでいると思われます。

「しかし彼らはわたしに逆らった」

 先ほどの「大きくし、育てた」という表現には、イスラエルの民(北南両民)は自分の力で繁栄したのではないことをも示していますが、それなのに、反抗期の子どものように、救い出し、守り導いてくださった方に感謝することも、拠り頼むこともせず、むしろ積極的に背くようになっていたのです。

「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼い葉おけを知っている。それなのに・・・」

 「牛 / ろば」は、知恵の無い愚かな生き物の代表で、そのようなものでさえ「飼い主 / 持ち主」つまり、誰に養われているかを知っている、というたとえを通して「背くあなたたちは動物以下だ」と言っているのです。しかしこれは「あなたがたは知能が低い」ということを言っているのではありません。

 まず、動物と人間との決定的な違いは “霊” を持つか持たないかという点です。それは何を意味しているかというと、動物は“霊”を持たないので宗教心がなく、礼拝することも祈ることもしない生きものであるということです。そのように、イスラエルは、神を慕い求めることも、頼ることも、畏敬をもって聞き従うこともしない、まるで霊のない動物のように生きている・・・そのような意味で「牛 / ろば」を引き合いに出して非難されているのです。

 しかも「イスラエルは知らない…悟らない」は、“知る・悟る” ことを自らの意思で拒むことを意味しますので、“あえて背いた”、“故意に無視” していた様子を示します。

*4節を読みましょう。

 4節では4種類のことばを使って、南ユダの罪を指摘しています。順に見ていきましょう。

「罪」とは、“的を外す” の意味をもつことばです。神から離れることや、本来人間に与えられた栄誉、人生の目的、正しい生きがいなどを “外れた” 生き方をすることを示しています。生きている意味が分からない、人生の目的が無い、などの空しさは “的外れ” という生き方がもたらすものなのです。

 「咎」とは、“歪んでいる” ことを意味し、まっすぐではないことを示しています。

 「悪」とは、“正義” の対義語です。正義(神の正しさ)に対立する思い、正義とは正反対の立場にいることを示します。

 「堕落」とは、“落ちる” ことで、特に神のもとから落ちることを意味します。しかし、それも故意であって、神から離れる(背く)ことを選んだことが “落ちる” と表現されているのです。

*5~6節を読みましょう。

 ここでは、南ユダの罪の姿がどの程度のものであったかが語られています。

 「頭は残すところなく・・・心臓もすっかり」とは、南ユダの外側も内側も罪と悪に満ちていることを示しています。さらに「足の裏から頭まで」とは、“全体” を示す表現で、健全なところが少しもない深刻な状態だと言っているのです。

 「絞り出してももらえず、包んでももらえず、油でやわらげてももらえない」とは、「罪」という病や傷がありながら、それらを治療してもらえず状況は悪化していっていることを示しています。なぜなら、「罪」という “死に至る病” や “致命傷” を治療できるのは主なる神だけなのに、南ユダは神に救いを求めることなく、むしろ反逆しているからです。

*7節を読みましょう。

「あなたがたの国は荒れ果てている。あなたがたの町々は火で焼かれ」

 2~3節は、神さまによる南ユダに対する告発、4~6節で、罪状が読み上げられ、7節では、その罪に対するさばきが宣告されます。

 さてここで注目したいのは、神さまは南ユダのことを “わたしの” とは言わず「あなたがたの(国 /町々)」と言い、まるでご自身との関係が無いかのような表現をしているところです。これは、「罪」とは神との関係を断絶するものであることを示しています。また、南ユダ(北イスラエルも)が、神さまの与えてくださった土地を「自分のもの」と考えていたことをも示していると思われます。これははるか昔から警告されていたことです。

 参考)申命記8:11~20

「他国人が食い散らし、他国人の破滅にも似て荒れ果てている」

 神さまは、南ユダをさばくために「他国人」を用いることを告げられます。当時の南ユダに攻め寄せる「他国人」として考えられるのはアッシリヤ、アラム、エジプト、バビロンなど多数いますが、一時的に難を逃れても、最終的には、バビロンによるエルサレム陥落とバビロン捕囚によってエルサレムは荒廃するのです。

*8節を読みましょう。

 「しかし」とあるように、ご自身を拒み、悔い改めることもしない民に対して “さばき” を宣告して切り捨ててしまうのではなく、常にあわれみを示してくださるのが主なる神なのです。どのような暗い時代にも “残りの者”(真実な信仰をもつ者)を備えてくださっていて、“イスラエル” が完全に消滅してしまうことがないようにしておられるということです。しかし、その “残りの者” は多数ではありませんし、強力な存在でもありません。

 「ぶどう畑の小屋・・・きゅうり畑の番小屋」とは、簡易的な建物のことで、危機の中で辛うじて立っている状態を示し、9節では「生き残りの者」「少し」であると言われているので、むしろ弱く、少数であることが語られます。

*10節を読みましょう。

 ここからは、神による招きとともに、南ユダが取るべき応答が語られます。

 「聞け」とは、“聞き従え” という意味で、単に音声として聞くことや、傍聴することではなく、従う(実行する)覚悟を持って聞きなさい、という意味です。そして、何を「聞け」と言われているのかというと「主のことば / 神のみおしえ」だと言っています。それはそうでしょ、と思われるかもしれませんが、当時は、罪によるさばきを宣告し、悔い改めを迫るメッセージを語る預言者に対して「滅ぼされることはない。エルサレムは不滅だ!神殿があるのだから私たちは負けない!」と真っ向から否定し、偽りを語る者たちがいて、多くの民はそのようなニセモノの平安や希望を受け取り、罪を自覚することも、悔い改めることもしなかったのです。なので、そのような惑わしの声ではなく、「主のことば / 神のみおしえ」にしっかりと見身を傾けなさいと招いておられるのです。

 「ソドムの首長たち / ゴモラの民」とは、南ユダの指導者たちと民を指していますが、「ソドム / ゴモラ」は、神のさばきを象徴する地名で、そのエピソードは創世記13章に記されています。南ユダをこのように呼んでいるのは、さばかれて当然の者、それほどの罪人であることを示しているのです。しかし、そのような者に対しても直ちにさばいてしまうのではなく、あわれみと忍耐をもって悔い改めるよう何度も呼びかけ、滅び失せてしまうことではなく、救われ回復することを願っておられることをも示しているのです。

*11~15節を読みましょう。

 神さまが南ユダに対して「聞け。…主のことばを」と呼びかけておられることのもう一つの意味は、彼らが、礼拝や祭りなどを決まったように執り行うこと、つまり、それらを儀式や行事として行っていれば大丈夫と勘違いしていたので、その誤りを正すためでもあったのです。

 11節では、決められた通りにいけにえをささげている様子、12節では、礼拝のために都上りして熱心な素振りを見せる様子と、異教的なものを持ち込んで神殿を汚している様子、13~14節では、過ぎ越しの祭り、仮庵祭り、七週の祭り(ユダヤの三大祭り)をはじめとする例祭を年間行事のように行う様子、15節では、祈りの時刻に決まったスタイルで祈りをささげている様子などが描かれ、これらすべてが人間の側の自己満足に過ぎず、神には喜ばれていない“形だけ”の空しい行為であることを指摘しています。先ほどの「聞け。…主のことばを」という呼びかけと共に思い出されるのは以下のみことばです。

Ⅰサムエル15:22「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」

*16~17節を読みましょう。

 ここから再び神さまの招きのことばが続きます。

「洗え。身をきよめよ」

 人間同士なら、一度信頼関係にヒビが入ると修復に時間がかかりますし、裏切りや背信行為があれば、その相手とは縁切りしてしまうこともあるでしょう。しかし神さまはそうではないのです。「身をきよめよ」とは、神が民と再び近い関係に戻ることを前提にして呼びかけておられることばだからです。何のためにきよめるのか?それは、聖なる神に近づき、聖なる神と共に歩むためです。それを望んでいることを示しているのです。

レビ19:2「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」

 「身をきよめ」るために必要なことは、「主のことば / 神のみおしえ」に聞き従うことと共に、捨てるべきものを捨て、成すべきことを行うことです。捨てるべきものとは「悪 / 悪事を働く」ことです。ここでの「悪」とは犯罪的な行為のことではなく “偽善” のことです。そして、成すべきこととして次のように語られています。

「公正を求め、しいたげる者を但し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ」

 これは、律法の要約でもある、神のあわれみを持って “隣人を愛する” ことを示します。

*18~20節を読みましょう。

 2節から始まった神による告発の山場がここです。

「『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる」

 神さまは、南ユダに何も言わせないよう一方的に問い詰めて訴えているのではなく、南ユダが応答することを求めておられます。

「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」

 なぜ「罪」が赤いと表現されているのかというと、15節で「あなたがたの手は血まみれだ」と語られていたことが関係しています。

イザヤ59:7「彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。」

 ちなみに、上記のみことばはローマ3:15に引用されています。

 そして「赤い」ものが「白く」されるとは、人間業では ”不可能なこと” を示す表現です。特に「緋」とは二度染めをした布のことで、なかなか色落ちしないので、より不可能であることを示します。つまり、私たちの罪が赦されることは、人間業では ”不可能なこと” であると言っているのです。本来であれば、赦されるはずの無い者が赦される、自分で自分を救えない者が救われる…それが神さまの恵みによる救いなのです。

 「洗え」と言われていますが、「緋のように赤(い)」と表現されている通り、自分で洗ったところで洗い流せないのが私たちの罪なのです。しかし「洗え」と言われているのは、神さまが洗ってくださるから「洗ってください」と素直に神に助けを求めなさいという招きなのです。

 さばきを宣告した ”さばき主” が、赦免の方法を用意し、成し遂げ、差し出してくださっている ”救い主” であるのです。であるならば、これほど確実な救いはないのです。

 

では、1:1~20を読みましょう。  

   ・・・最後にお祈りしましょう。