ルカの福音書6:24~27 | 聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

*24節を読みましょう。

 ここからは四つの “「哀れ」な人” が挙げられています。最初は「富む者」です。

 人間は金銭的状況で、安心・安定か不安・不安定化を見定めがちです。経済的問題は人を悩ませ、社会を暗くします。しかし、イエスさまは「富む者は哀れ」だと言われたのです。「哀れ」とは、“悲しみ、悲惨” などの意味があります。なぜ悲惨で悲しい、と言われているのでしょう? その理由は「慰めを受けているから」です。

 ここでの「慰め」とは、“自分が望んだもの”、“自分が取り引きしたもの” の意味で、あくまで “その人” が望んでいたものであり、神さまが与える “慰め” のことではありません。また、「受けている」とは “領収済み、勘定済み” という意味で、これから継続するものではなく、すでに終わっていることを示しています。

 お金で手に入れることができるのは ”自分が欲しい” と思ったものであって、”自分にとって本当に必要なもの” とは限りません。しかも、持っている範囲の金額内のものしか手に入れることはできないのです。

 先回も引用しましたが、下記の聖句にあるように、一番大切な “いのち” は、どれだけ莫大な富(全世界を手に入れるほどの富)があったとしても、お金と引き換えに手に入れることはできません。

ルカ9:24「たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」

 それが分からず「お金があれば欲しいものを手に入れることができる」と勘違いして ”お金” を頼りにしていると、富を得ることに心を奪われ、富と引き換えに手に入れたもので自分を慰め、飽きると新しいものを手に入れて慰め・・・の繰り返しをしています。決して満たされ続けることが無いので、そのループから解放されることはありません。…なのに、それがどんなに空しいことであるか気付かず、架空の満足にひたっている・・・その姿は「哀れ」だと言っているのです。

*24節を読みましょう。

 二つ目の “哀れな人” は「いま食べ飽きている」人です。これは21節の対比として語られていることなので、文字通りの意味ではなく、いろんなことに興味を示して楽しんだものの、結局飽きてしまっている人のことです。世の中には人生を満喫しているように見える人たちがいますが、その人たちが本当に満足しているか?と言えば、そうでもなかったりします。

 「飽きている」人の哀れな点は、「やがて飢えるようになるから」とあり、これは、何によっても自分の心を満たすことはできないという空しさを必ず味わい知ることになる、ということです。

 栄華を極めたソロモン王もこう記しています。

伝道者の書1:2「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」

同 2:1「私は心の中で言った。『さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。』しかし、これもまた、なんとむなしいことか。」

 三つ目の “哀れな人” は「いま笑う」人です。これも21節の対比なので、楽しく笑っている人のことではなく、罪の自覚をもたずに、さばきの警告に対して笑い飛ばす(聞き入れない)人のことです。このような人の哀れな点は、「やがて悲しみ泣くようになるから」です。これは、罪を悔い改めて救いを求めなかったので、自分の罪の責任を自分で負わなければならなくなった、というさばきの場において流す後悔の涙を意味します。

*26節を読みましょう。

 四つ目(最後)の “「哀れ」な人” は「みなの人がほめる」人です。みんなの前でほめられるなんて名誉なこと!と思いますが、ここで言っているのはそのような称賛に値することをしたことで “ほめられている” のではなく、ほめられたい欲をもって ”人前で格好つけたり”、”見栄を張ったり” すること、を意味します。

 なぜ哀れなのかというと、人から受ける称賛や評価は、魂の救いに何の影響も及ぼさないからです。人間にとって最も大切なことは “いのち” です。この “いのち” は、肉体の死とともに消滅してしまうものではなく、死後には天国か地獄のどちらかで ”永遠” という終わりのない時間を過ごすのです。その行き先を決めるのは生きている間だけです。後半の哀れな人の4パターンは、どれも “いのち” 特に “永遠のいのち” を軽視し、“今” をどう楽しむかに焦点が当てられている人であるのです。“今” という時は、いつか終わるときがきます。しかも、急にです。だからこそ、いのちについて無頓着で、何も準備しない人は “哀れ” なのです。

*27節を読みましょう。

 ここから38節までは “愛する” ことについての教えが続きます。

「あなたの敵を愛しなさい」

 当時のユダヤ社会において、このことばは、かなり意表を突くものでした。なぜなら、律法においては「あなたの隣人を愛しなさい」と教えられていたからです。この「隣人」を、イスラエルの民は “同胞” と捉え、特に、自分の身近な存在に限定して解釈していました。なので、自分にとって愛しやすい人を愛することで「自分は律法を守れている」と感じていたのです。そこへ「隣人」ではなく、「敵を愛しなさい」という高い要求を投げかけられたのです。これは、イスラエルの民が聖書を都合の良いように解釈していることを指摘し、「愛する」とはどのようなことを意味するのかを教えるためです。

 彼らの間違いの一つは、「隣人」の解釈です。

 そもそも、神さまの言われる「隣人」とは、出会うすべての人を含む広範囲なものなので、実は「敵」も含まれているのです。

 彼らの間違いの二つ目は「愛する」ことの意味です。

 人が誰かを「愛する」ときに、相手に “愛するに値する理由” が ”あるかないか” で決めます。もし、愛する理由がなければ「愛しなさい」と言われてもできないのです。それは人の愛は “感情” に結びついているからです。

 一方、神の愛は “感情” ではなく “意思決定” です。神が私たちを愛してくださったのは、私たちに愛される価値があったからではなく、神さまが「愛そう」と “決めて”(←意思決定)くださったからです。それゆえ、神の愛は変わらないのです。私たちがどんなに愚かでも、ダメでも、変わらず愛してくださるのです。

 

*お祈りしましょう。