満席の客席。シアタートラム。
間もなく始まるという頃、場内が自然に静まり返る。
静まることはあっても、静まり返るという感覚は久しぶりの気がした。
これから始まる物語への程よい緊張感がその場に流れるこの感じが好きだ。
静かなのに心拍数があがる感じ。
そして舞台『ブレイキング・ザ・コード』はスタートした。
これは第二次世界大戦、ドイツ軍の暗号「エニグマ」を解読したことで知られるアラン・チューリングの物語。
2021年にはイギリスの50ポンド紙幣にもなっているアラン・チューリングは、41歳の若さでこの世を去っている。
舞台には市松貼りのフローリング。それが鏡に写ったように舞台奥、目線の先にもある。
この床は、学校の教室などでもよく見られる柄だ。
アラン・チューリング(亀田佳明)はこの床を几帳面に数えるようにして踏む。
街中の歩道やマラソンコースもきっと、決めたラインを歩いたり走ったり、数えたりするだろう。
彼の中にあるこだわり、譲れないものがあることがわかる。
未知なるものを追求する喜びをまとっている時のアランは、饒舌で、得意気で無邪気で少しわがままだ。
もっともっと繊細さを前面にして演じてしまいそうなところを、亀田さんはそうしていなかった。ように見えた。
特別にしすぎないことは彼へのやさしさ、いや、人に対するやさしさ、理解なのかなと思う。
それはこの作品に登場するそのほかの人物たちにも共通していた。
母 サラ・チューリングを演じるのは保坂知寿さん。
アランを柔らかい毛布でくるむみたいにやさしく抱きしめるだけでなく、息子という他人として接する大きな愛を感じた。
彼のことをきちんと理解してあげられなかった人、なのかもしれないが、そもそも自分以外の人を完全に理解などできない。
朗らかだったり、凜としていたりするサラが、なんの前触れもなく嗚咽しながら泣く夜があっただろうと、舞台には登場しない彼女の時間を思った。
アランは同性愛者だった。
彼と関係を持つロン・ミラーを演じるのは水田航生さん。
彼との刹那の関係が、結果的にアランを追い詰めた。
時代は同性愛を禁じていた。なぜアランはロンを見つけてしまったのだろう、どうして彼を誘ってしまったのだろう。
一瞬にして惹かれ合ったとかではなく、フィットする誰かとかではなく、敢えて違和感もありながらそうしてしまった気がしてならない。
それはロンもまた。
アランの同僚、パット・グリーンを演じるのは岡本玲さん。
聡明で気持ちのいい人だ。アランの母 サラとの会話から、彼女が魅力的でやさしい人であることがわかる。
本当はさまざまな葛藤を抱えているに違いない。「なんで?どうして?」と大きな声を出しそうになる時だってあるはずだ。
そういうものを飲み込んで、今、目の前にいる人を尊重できる彼女は、この作品の登場人物の中で一番強い人なのかもしれない。
「ツヨイ」は「ツライ」にちょって似ている。
田中亨さんは、アランの同級生クリストファー・モーコムと異国の青年ニコスを演じる。
アランはクリストファーともニコスとも距離や時間の測り方を完璧には出来なかった。
そんなことは当たり前なのに、時代はその不完全さを許容してくれない。
相手の手を握り、ホッとするとか、あたたかいと感じられる瞬間がアランとの間にあったならいいな、そうであって欲しいなと願ってしまったこの気持ちはなんだろう。
アランを取り調べる刑事、ミック・ロスを堀部圭亮さん、
加藤敬二さん演じるディルウィン・ノックスは、アランに暗号解読を依頼する。
ジョン・スミスはアランに向かって不敵に微笑む。
舞台の両端には階段があって、彼らはここを使って舞台上からいなくなることが何度かある。
袖にそのままはけるのではなく、階段を下りることで舞台上からいなくなる様子が、何かを拒絶したり、ないものにしたりするような恐ろしさに重なって見えた。
過去など振り返れない、振り返っても意味などないとシャッターを下ろすみたいで、見えなくなる様は美しいのに、恐怖も感じた。
アラン・チューリングが選ぶ未来は、いや、選ばなかった未来は今、どうだろう。
舞台が始まる時に静かな中で上がった心拍数は、
カーテンコールで拍手をしながら、再びあがった。
舞台の奥の床や劇場の壁に反響した拍手がステージ上はもちろん、自分たちを包む。
それが今とこれからの未来だったらいいなと願いながら拍手を続けた。

<公演日程>
4月1日(土)~4月23日(日)
シアタートラム
