自分罰ゲーム連投第10弾

なかなかどうして続いてますね、あたし

 

旧社屋の解体は、今こんな感じです

この位置(デニーズの隣の道路)から斜め前の交差点の信号が見えます

本当になくなってしまったんですね、としみじみ

会長の話 その2,3でお話しした

無駄に厚い基礎、引き続きうちの兵どもが苦戦しております

少しずつ積み出して減っておりますが、まだまだ先は長そうですね

 

 

私がよく『大は小を兼ねるっていうじゃん』と言うと

「なら、スコップぐらいの耳かきが耳に入るんだな?」とどや顔で笑っていた会長

いやいや父上、常識の2倍以上の基礎の深さこそ『スコップ大の耳かき』なのでは?

さてさて、どえらい置き土産をしていった会長のお話の続きをどうぞ

 

 

父はよく姉や、私や、弟が泣くと、
「俺はこの歳まで一度も泣いたことがない。泣くのは弱虫の証拠だ」
と私たちに言っていました
私たちは物心がついて暫くしてもそれをまともに信じていたんですが
私がある日母に
「じゃぁ、親父はお婆ちゃんが死んじゃった時も泣かなかったの?」と聞くと
母は暫く黙った後、「絶対親父に言ったらだめよ」っと言って
こんな事を教えてくれました

当時すでに小田原で土建会社を営んでいた父は祖母の死に目に間に合わず

病院に着いた時には祖母はもう硬くなってしまっていました
父は医者が、硬直が始まっているので普通車に乗せるのは無理だ

と言っても耳を貸さず、泣きながら祖母をさも愛しそうに抱きかかえ

硬くなった腕を、足を、優しく言い聞かせるように摩って自分の車に乗せ

家まで運びました

祖母の遺体に誰にも指一本触らせず、体を綺麗に拭いてあげながら
「可哀相に、こんなに切り刻まれて」っと手術の傷跡を優しく撫でながら呟きました
父は通夜、葬式の支度の間中ずっと泣きっぱなしで

祖母の遺体の傍に張りついていました
そろそろ出棺の時間になり、親族の皆が棺桶の蓋を閉めようにも

祖母の遺体にしがみ付いて離れず
結局父は、親戚筋の力自慢の男衆に5人掛かりで引っぺがされる始末

母も居たたまれなくてずっと泣きっぱなしだったそうです

一度も泣いたことがない、、ねぇ。。。

随分後になってから、私は一度だけ父が泣いたのを見た事があります
それは私の母方の伯父の葬式でのことでした
私たちはずっとその伯母(母の姉)夫婦と一緒に住んでいました
その伯母も伯父も父の会社で会社の創立以来ずっと働いていたので

私たち姉弟にとっては第二の父母のような存在でした


二人とも勿論山形県出身であったのですが

仕事の都合で、二人いた娘(私たちの従姉妹)は母方の祖母が面倒を見ていました
二人とも嫁いでいて、長女の方は夫婦で伯母夫婦の近くに越してきたのですが
次女の方は有名旅館の跡取りに嫁いでしまった為、山形県に残る形となってました
雑誌で取り上げられるほどの旅館の仕事はとても忙しかったのでしょう
嫁いでからというもの、彼女が伯母夫婦を訪ねてきた事は一度もありませんでした


そして伯父の葬式の日、前の晩の最終電車で到着した彼女は
その日も目を真っ赤に腫らしながら、何度も何度も
「お父さん、ごめんなさい。お父さん、ごめんなさい」

と伯父の遺体に縋り付いて泣いていました
そんな彼女の姿を見、声を聴いた父の目からは涙がボロボロこぼれていました

自分が母親と別れたあの時の姿を重ねたのかもしれないですね

 

さすがに

あれ?泣いたことないんじゃなかったっけ?

とは突っ込めず、一緒にボロ泣きした私でした

 

つづく