占いを書いているとき、私は「ようし、占いを書こう」とは思っていない。
パソコンでWordの作りかけの文章を開き、ホロスコープ作成サイトを開き、参考資料の本を開き…ということをする。
そのときの頭の中は
「最後に開いたデータが上に表示されるの、便利だー」とか(←何度やっても毎回思う)
「アスペクトのページは本の真ん中くらいだったよな」とか
「あれまぁ、サターンリターンの土星と トランジットのドラゴンヘッドと冥王星対極点と 出生の太陽の反対が結集していたのか。地球星座…うひょ!」とか
そんな感じだ。
私が占いをしているとき、「占い」というワードが頭から消えている。
そういうことってよくある気がする。
本気で生きているとき「ようし、本気で生きるぞ」とは思っていない。
その瞬間のやることに没頭しているから、具体的なやることに気持ちが向いて、「本気」という概念からは離れている。
スポーツを思い出してもイメージしやすいかもしれない。
勝ちたいとき、「勝つ!」ということじゃなくて、ボールの動き方とか チームのメンバーがどこにいてどんな動き方をしているかとか そういうことに気持ちが向いている。
キャッチしたボールを一塁に投げてランナーをアウトにする局面で、「絶対勝つ!」と考えていたら、ボールを投げるのの邪魔になるだろう。
一塁に一塁手がいるかとか、距離に応じてワンバウンドで投げるか ノーバウンドで投げるか 軽くポイっと投げるか 思いっきりレーザービームみたいに投げる必要があるかとか、そういうことを瞬時に判断する。
「勝つ!」と思っている場合ではないはずだ。
おいしい料理を作りたいときも
塩にするか しょうゆにするか
キャベツにするか ハクサイにするか
焼くか 煮るか 炒めるか
シメジにするか エノキにするか シイタケにするか
人参をカットするのが先か、みそ汁を作るのが先か。
そういう感じだ。
占いを書いているけれど「占い」とは思わない。
勝ちたいけど「勝つ!」という言葉が頭にない。
料理をするけど「料理」と思っていない。
頭の中や 実際の行動は、より具体的な感じになっている。
というところまで書いて昨晩は寝落ちしたようだ。
やぁ、おもしろいな。
行為や状態についた名前(占いとか料理とか)と 本人が「自分はこれをしている」と感じることって、違うことがけっこう多いようだ。
そこが楽しくて そのおかげでどんどんハマっちゃうケースもあるし、逆に「こんなはずじゃなかった」「思ってたのと違う」となるケースもある。
これは、「よりありありと具体的に想像できることで現実化がうんぬん」のしくみに応用できそうだな。
サビアンの天秤座6度にもそんな話があった。
うむうむ。
外側からそれを見ているときの呼び方で考えるよりも、自分が内側からそれを体験しているときの感じを思い描く みたいなこと、このへんのことに応用できそうだ。
めちゃくちゃ具体的だからな(笑)
あるいは、こういう願望実現のことを話すときの「より具体的に」というのを、こういう切り口から説明してもおもしろそうだ。
いろいろ使いようがありそうな思いつきであった。