そうか。
真っ当に生きる時代になった
ということでもあるな。
 
「真っ当に生きていい」ではない。
「ここからは真っ当でないとしんどそうね」が近い。
 
 
真っ当という言い方だと語弊があると思うが
まぁ、私が真っ当と思っていたものだよ。
 
私が最も大事に感じている、
私にとっての「ふつう」ということでもある。
 
「自由」と言ったほうがしっくりくる人も多いだろう。
 
 
 
真っ当、ふつうに、自由に生きるには
これまでは 誰かと戦ったり
自分を守ったりせねばならんところも多かった。
 
それで、
変に言い訳くさくなったり正当化したり
変に強めにアピールしたり
変に誰かを批判したり
そういうことをするクセがついている。
 
一番大事なものを諦めないために
少しずつほかのなにかを諦めて
やっと生をつないでここまできた。
 
 
言い訳なんてせず
やたらめったら主張せず
批判なんてせず
おおげさにせず
なにも諦めず
本当は ただ単に この真っ当を
このふつうを生きたかっただけなんだ。
 
 
 
大事なものを諦めないために
少しずつ諦めたそのありようや
少しずつ諦める姿勢やクセが
今、異物と認識されてきているようだ。
 
 
 
 
前にも似た話をしたことがあったな。
 
ずっと向かい風の中 歩いていたから
前のめりになっていた。
向かい風がやめば、前に倒れる。
 
まるで、ここまでの
どうにもならんことを
どうにかしようとがんばった踏ん張りが
仇となるようなことだ。
 
納得のゆかぬ者もあるだろう。
 
 
 
前のめりではなく ふつうに歩く
リハビリをせにゃならん。
でも、リハビリが間に合わない者もあるだろう。
 
ここまで人類をつないできた
尊い前のめりだったと思おう。
誇りに思おう。
偉そうにはしなくていいけどね。
 
前に倒れたら
とりあえず一休みしよう。
 
そして寝転んだまま
あの向かい風が止んだ
今の空気を深呼吸しよう。
 
 
 
 
そして、これは小声で言う。
 
でも、その向かい風に前のめりになるとき
ちょっと体重を預けて
向かい風にもたれていたこともあったと思うんだ。
 
向かい風にぶーたれながら
向かい風にこっそり甘えてラクしていたこともあったよね。
 
イヤな向かい風がなくなって 甘えられなくなって
それで前に倒れると
「いやだいやだ」と言ったそれに甘えて
依存していたことがバレる。
 
なんだかバツが悪いもので、調子が狂うよね。
さっき「がんばったのに仇みたいだ」と言ったけど
このバツの悪さを隠したくて 
「仇かよ!」と怒りたくなる
そんな心もあるのかもしれない。
 
前に倒れたら
向かい風に甘えて依存していたことに
こっそり手を合わせて「いやはや…」と言って
ちょっと反省したら
また起きあがれるよ。
 
 
うむ。小声で言った。
 
 
 
 
いきなり真っ当ができる人は
もう、そのまま行っている。
楽しそうだ。
 
リハビリが必要な人は
リハビリしよう。
 
そこは、遅れても大丈夫。
こういうリハビリをしているところなんだ と
自覚してやっている人には
今の風向きは 厳しくないみたい。
むしろやさしい。
風がやさしくなでてくれる。
回復を応援してくれる。
なぜなら、真っ当だから。
 
自覚しないで正当化したり
誰かやなにかに八つ当たりしている人には
今の風向きはだいぶ厳しい。
風は止んでいるのに 自分のところだけ暴風がふき荒れる。
 
 
 
私もそれなりにリハビリがいる人なので
ゆっくり行くよ。
 
 
 
 
 
 
倒れても
ずっと目指していた
ここまで来られたのは
本来、うれしいことなんだ。
 
自分が倒れ中だと
あんまり大騒ぎしてよろこぶ気持ちには
なりにくいかもしれないけれど
 
ちょっとずつでも よろこべたらいいね。