漫画の『のだめカンタービレ』の、楽譜と向き合うシーンを思い出していたよ。

 

 

 

 

ピアノの指導があまりにも厳しくて、主人公が「楽しくピアノを弾いて、なにがいけないんですか!?」とブチ切れるシーンがあります。
 
主人公は、楽譜の通りにピアノを弾くのがしんどくて、トラウマもあって、それを避けるように楽しくアレンジして弾くクセがあるのですな。
 
「楽しくピアノを弾いて、なにがいけないんですか!?」に共感できる人は きっとたくさんいると思う。
 
 
 
でも、それからしばらくすると 主人公は
七転八倒しながらだけど、音楽を基礎から勉強して そして楽譜を読んで、曲を作った人が その当時にどんな気持ちで なにを表現しようとしたかが分かるようになっていく。
 
先生たちが「楽譜と向き合え」と厳しく言ったのは これのためだったんだと分かる。
 
 
それを経て、主人公は 世界的なピアニストに成長していく。
 
 
音楽に 自分を乗せるんじゃなくて、音楽をよりしろにして 作曲者の心を降ろすようなこと。
 
 
 
チャネリングとかで 誰かさんのメッセージをキャッチして伝えるときに、チャネラーさん自身の意見を混ぜて伝えたら 違うものになっちゃうのと似ている。
 
チャネラーさん自身の考えはひとまず置いておいて、誰かさんの話をひと通り聞く必要があるね。
 
 
「自分を打ち出していくのが大事」というのも確かにあるんだけど、それじゃないときもあるわけだ。
 
 
 
こういう局面では
個人性を脱色する必要があるときがある。
個人的なクセを取り除く。
 
体の動きのクセも
心の動きのクセも
考え方のクセも
取り除く。
 
高次のものは 普遍的。
普遍的なものは 個人的ではない。
こういう局面では、自分らしさみたいな個人性は重要ではなくなっていくんだ。
 
自分を、いったん透明人間みたいにする必要があることがある。
 
たとえば、
H6の恒星の神さまの声を受け取るなら、
H12は神さまの声を聞く巫女さんのようなことで、
そこに自分の個人的な考えを持ち込まないことが大事になる。
そんな局面も出てくるわけだ。
 
 
 
 
神さまが、大きな岩や 能面や 舞踏の「型」を “よりしろ”にして降りてくるみたいなこと。
 
その「型」を 自分がやる、そういうときがある。
 
「型」は、はまらないこと、壊すことが大事と考えるときもあるけど、
高次のものが降りてこられる「すごい型」(アーキタイプ的な型)が できるようになる努力というのもあるんだ。
 
という話ね。
 
 
 
 
のだめカンタービレを読んだときは 私もこんなことは知らなかった。
まだこういう勉強をする前だったからね。
 
でも、あの「楽譜と向き合う」のシーンがすごく心に残っていて たまに思い出すんだ。
 
すると、「私もホロスコープをちゃんと読まねば…」とドキドキして苦しくなってくるので 考えるのをやめる(逃)
 
 

 

 

 
もちろん、
自分自分するのがいいときだってあるぞ!
 
「こうするといいですよ!」と
一概には言えないことばっかりだ。