自由になることは、選択肢が増えることではない。
やるべきことをやれるようになることだ。


という趣旨の言葉に出会った。

翻訳班から送ってもらえたジェフリーさんの文献の中で、ディーン・ルディア氏の言葉を引用した…というものだった。


ディーン・ルディアって、サビアンシンボルの素になったもの… ホロスコープの1度1度を幻視してシンボルを見た人だったかな?(忘れた)



自由になることは、選択肢が増えることではない。
やるべきことをやれるようになることだ。


ぐわあああああ!!!
その通りだああああああ!!!!
と感銘を受けたのです。



その人の心の成長度合いによっては「自由って選択肢が増えて好きなことができてうれしいな」と感じることもあると思うんだ。

むしろそっちの方が多くの人のいう「自由」であると思う。


でも、
「自由になった!好きなことをし放題だ!いえーい!」
っていうのは

まだ“好き”から自由になれていない。
まだ“好き”に縛られている。


というのを知って


さらに

こういうことも考えていた。



自由の中で イキイキうれしく生きるのって、
放埒(ほうらつ)になることとは全然違っていて

逆にすごく狭い「自分の道」「自分が生きるべき形」にズンズン入っていくような感じがしていたんだ。

なんか、どんどん一本道っぽさが増していくような感じ…
(これは私の出生図にヨッドがあるから というのもあると思うけど)



その「自分の道」を歩いていて 障害物や困難に出会ったとき、
大抵、その障害物や困難は 自分自身に未熟なところがあるために障害物や困難として感じるようになっている。


自由になるっていうのは それを障害物や困難として感じないくらいに成長できていること…

あるいは障害物や困難だと感じて「嫌だなぁ」と思っても 避けてしまわずに自分の道を進んでいけるような感じのことだなぁ

うへぇ、すげぇハードなことだなぁ
自由キッツいwww
クッソ!!パネェな!!

とか思っていたのですよ。



それを、ルディア氏にすごく簡潔に表現されてしまったようで
うへぇ…!!と思った次第です。




でもまぁ、その人その人 そのときそのときに見えている景色・直面していることって違うからね。

いきなりこんなことを考えなくてもいい。

そのときそのときに感じていることを そのときの自分の感性で味わうのがいいなと思うよ。



2021年4月に書いたおはなしでした。



こんなことを考えて、毎日16時に過去記事を紹介しています。
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