皆さんは南米にあるベネズエラという国をご存じでしょうか?

 

日本から遠く離れた国なので、名前しか知らないという方も多いと思います。

ベネズエラは以前紹介したレバノンと同じようにもともとは豊かな国でした。

 

しかし、今や世界最悪のハイパーインフレーションに見舞われています。

そのインフレ率は以前のレバノンをはるかにしのぐ268万%です。

 

お金を捨てる人やお金で折り紙をする人までいます。

また、治安も非常に悪いです。

 

強盗が相次ぎ、殺人発生率も日本の300倍近くに達しています。

アメリカの調査では数ある国を抑え、世界一危険な国に選ばれました。

 

現在多くのベネズエラ国民が海外へ難民としてベネズエラを後にしています。

ベネズエラから逃れた難民は300万人と言われ、これはベネズエラ国民の1割に相当します。

 

今回はなぜベネズエラが没落したのか?について解説していきます。

 

1、ベネズエラってどんな国?

 まずは、ベネズエラがどんな国か解説していきます。

 

ベネズエラは南米大陸の北に位置する国で、西にコロンビア、東にガイアナ、南にブラジルがあります。

また、北部はカリブ海に面しています。

 

面積は日本の2倍以上もある大きな国ですが、人口は日本の4分の1よりも少ないです。

そのため、自然が非常に残っている国で国土の40%近くが自然保護区に指定されています。

 

ベネズエラの主要産業は鉱業と観光です。

特に石油はすごく、サウジアラビアに次ぐ埋蔵量と言われています。

正式名称はベネズエラ・ボリバル共和国で、首都はカラカスです。(後に出てくるので、覚えていただけたらと思います。)

 

以上がざっくりとしたベネズエラの特徴です。

 

 

2、ベネズエラの光

 ベネズエラはかつて中南米で、いや世界でもトップクラスに豊かな国でした。

理由は石油。

ベネズエラは石油に恵まれた国であり、かつ石油の生産にいち早く成功した国でした。

当時のベネズエラは輸入額に比べて、輸出額がずば抜けて多い国でした。

 

特にオイルショックにより、石油の価格が高騰したときのベネズエラは「サウジ・ベネズエラ」と呼ばれるほどに潤っていました。

 

3、ベネズエラの失敗

 豊かだったベネズエラ。 それではいったいなぜベネズエラは転落してしまったのでしょうか?

それには、主に2つの理由が関係しています。

1つ目が石油に依存しすぎたこと、2つ目が政治の腐敗です。

 

3-1、ベネズエラと石油

それでは、まず1つ目の石油への依存について書いていきます。

ベネズエラは石油が発見されるまでは、コーヒーとカカオをメインに生産する農業の国でした。

 

しかし、1918年から石油の産出が始まり、1950年代にはアメリカ、ソ連に次ぐ世界第3位の石油産出国となりました。

1950年代当時は石油以外の産業も持っていたために、ベネズエラは安定して国が回っていました。

 

ですが、1970年代にオイル・ショックが起こります。

(※オイルショック・・1970年代に発生した原油の供給圧迫と原油価格の高騰に伴って起きた世界経済の混乱。)

 

今回はオイル・ショックの話ではないので詳細は割愛しますが、このオイルショックによりベネズエラは莫大な金を手にいれます。

石油で莫大な金が入るのなら、他の産業を頑張る必要はありません。

そこで、ベネズエラはあらゆるリソースを石油の輸出へ注ぎ込みました。

 

こうして、ベネズエラは石油に依存することとなります。

ちなみに、国が何か特定の少数の産業に依存することを地理の用語で「モノカルチャー経済」といいます。

 

モノカルチャー経済の問題点は依存している産業が打撃を受けたときに国全体が一気にピンチに陥ってしまうことです。

 

 

3-2、ベネズエラの政治

  ベネズエラは非常に資源に恵まれた国です。普通に政治がまともに機能していれば、今のような大混乱に陥ることはなかったでしょう。

 

しかし、ベネズエラは政治で失敗を続けた国でした。

まず、モノカルチャー経済の国に比較的多いのが貧富の差です。

例えば、石油産業に依存していたベネズエラの場合石油関連の仕事につけた人は富裕層になれましたが、それ以外の人は貧しいままになっていました。

 

豊かな人はどんどん豊かになり、貧しい人はどんどん貧しくなる。

ベネズエラの貧富の差は深刻な問題となっていました。

 

1979年2度目のオイル・ショックで石油価格が下落。GDPの90%以上を石油に依存していたベネズエラはピンチになりました。

そのとき負った負債は全く解消されることはありませんでした。

当時の大統領カルロス・ペレスは緊縮政策を実施し、これにより公共料金が上がり、1989年のカラカス暴動につながったといわれています。

 

そして、この暴動でペレスは引退し、1999年にこの暴動の中心だったウゴ・チャペスという人物が大統領へ就任します。

チャベスは、ベネズエラの現状を変えるためにあらゆる政策を打ち出します。

 

チャベスは社会主義を掲げました。

 

彼はとにかく格差を是正したかったのです。

社会主義にするため、チャベスは石油会社を国有化しました。

そして、石油の収入を格差の是正につなげたのです。

具体的には、スラムの解消、学校建設、医療費無料、職業訓練などです。

 

チャベスは反対派の言動を制限するなどの独裁色も強かったですが、一方で上の政策により今でも人気の高い大統領です。

 

いい面もあったのですが国有化したことで、石油会社の海外からの投資が途絶え、経営効率も低下し始めました。

 

また、彼は為替取引を禁止しました。

しかし、取引を禁止されても国を運営していくためには輸入もしなければなりません。

ベネズエラの貨幣はどんどん流出していくこととなった。

 

ベネズエラの通貨の需要はどんどん下がっていきました。

これにより、ベネズエラはインフレになっていきました。

しかし、同時に原油価格は減少し続けていたのです。

 

実は原油価格が減少した理由はベネズエラ自身だったのです。

皆さんはベネズエラの正式名称を覚えていますか?

「ベネズエラ・ボリバル共和国」です。 (一応国紹介にも書いてありましたぜ)

 

実はこの後ろのボリバルというのは、反米主義という意味です。

アメリカが嫌いだったのは、ベネズエラだけではありません。同じく産油国のアラブ諸国もそうでした。

彼らは、アメリカのシェールオイルが気に入りませんでした。

シェールオイルは石油の代替品として、注目されている資源です。

 

石油で稼いでいる国にとっては、そりゃあ面白くないですよね。

そこで、アメリカのシェールオイル会社をつぶそうと、原油価格を低くし続けたのでした。

 

結果として、アメリカのシェールオイル会社は潰れましたが、同時にベネズエラもどんどんと追い込まれることになりました。

 

ベネズエラも一度石油価格が高騰した2007年には好景気に湧きました。

ウゴ・チャベスはその時も貧困層に対する手厚い支援を行いました。加えて、貧困層でも食料品が無理なく買えるように価格を据え置きにするように命じました。

 

しかし、実はこれが転落の始まり始まりとなったのです。

まず、政府が設定した農作物の価格は低く、あまりにも儲からなかったため多くの農家や企業が農業分野から撤退することになりました。他の産業分野でも同様のことが起こりました。

 

この結果、ベネズエラは深刻な物不足に陥りました。

供給は減っても、需要は変わりません。ですので、ベネズエラは深刻なインフレになりました。

 

そして、結果として経済格差や治安の悪化などの問題を解決できないまま、ウゴ・チャベスはこの世を去りました。

 

3-3、マドゥロ政権

 その後チャベスの後を引き継いだのは、副大統領だったマドゥロです。

マドゥロはチャベス政権のいわゆるNo.2でした。なので、基本はチャベスと同じ政策を選びました。

 

つまり、チャベス時代の問題が全く解決されませんでした。

例えばマドゥロは再度価格固定を企業側へ命じました。

 

結果として、ベネズエラはより深刻な物不足に陥りました。

そして、もちろんインフレも加速することになりました。

 

ハイパーインフレと呼ばれる悪質なインフレーションが発生しました。

このハイパーインフレを静めるためには、外貨を稼いで自分の国の通貨の増刷を停止させるしかありません。

 

しかし、同時にベネズエラ原油生産が減少しました。

これは、ベネズエラの石油の輸出の減少を意味します

 

さらに悪いことは続く。

石油輸出を担っていた会社を国有化したことで、この会社は経験が全くない人だけで経営されることとなりました。

これにより、外貨獲得のための石油輸出の効率はさらに落ちてしまったのです。

 

現在もベネズエラはGDPの95%前後を石油に依存しています。

しかし、石油産業につく人は国民のごくわずか(0.5%)です。

 

国民の大部分が貧困層であり、治安も非常に悪くなっています。

警察自体も腐敗しているため、収拾がつかなくなっています。

 

ハイパーインフレとなったベネズエラで生活するのが困難になり、多くの人がベネズエラを離れています。

現在までにベネズエラ国民の1割以上にあたる400万人がベネズエラを離れたといわれています。

 

当のベネズエラは難民を認めておらず、周辺諸国が頭を抱えています。

 

 

 

 

 

お読みいただきありがとうございました。

いかがでしたか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さんは「レバノン」という国を知っていますか?

某自動車の社長が逃げた国として日本では知られているかもしれません。

 

そんなレバノンはかつてはヨーロッパのパリと呼ばれ、中東でもトップクラスに豊かな国でした。

ですが、レバノンは衰退をはじめ現在のレバノンは崩壊寸前となっています。

 

世界銀行によれば、世界最悪の経済危機を迎える国と言われています。

 

なぜ、「中東の優等生」だったレバノンが崩壊してしまったのか?

詳しく見ていきましょう。

 

 

1、レバノンってどんな国?

 まずは、レバノンって何?という人もいると思いますので、軽く紹介します。

レバノンは中東にあり、北にシリア、南にイスラエルに囲まれた小さな国です。

中東にありますが、キリスト教信者が非常に多い国です。

もちろん、中東にあるためイスラム教を信仰されている方も多くいます。

 

地中海に面していることから、地中海性気候であり、オレンジなどの栽培が盛んにおこなわれている国です。

 

2、レバノンの光

 レバノンはもともとオスマン帝国(現在のトルコ)に支配されていましたが、第1次世界大戦の影響によりフランスによって支配されることになりました。その後1920年にレバノンは隣のシリアとともに、フランスの支配下でしたがシリア・アラブ王国として独立しました。

 

しかし、その後このシリア・アラブ王国はフランスと戦争を起こし、この王国はすぐに崩壊してしまいました。

そして、フランスは中東では珍しくキリスト教徒の多かったレバノンエリアへ注目しました。

 

そこで、フランスはさっそくレバノンを"大レバノン"としました。

そして、その後大レバノン国が正式に独立しました。ちなみに、この後レバノン共和国となりました。

ただし、この時はまだフランスの支配下にありました。

 

そして、1940年代に入り、第2次世界大戦が勃発しました。

詳しいいきさつは省きますが世界大戦がきっかけとなり、レバノンは正式に完全独立しました。

 

大戦後レバノンは自由経済を採用し。金融・観光の面で急成長しました。

中東経済の中心地かつ地中海有数のリゾートになりました。

1人当たりGDPも中東ではトップクラスになり、一時期は"中東のパリ"と呼ばれるまでになりました。

 

3、崩壊の始まり

 レバノンは地理的にイスラエルの北に位置する国です。

世界史や地理を勉強されている方は知っていると思いますが、イスラエルはなかなかトラブルの多い土地です。

イスラエルはもともとパレスチナというアラブ人が住む場所でした。そこへユダヤ人がやってきて、ユダヤ人の国家(=イスラエル)を建国しようとしました。

当然アラブ人との間に対立が起こります。

この小さな火種はどんどんと広がっていき、周辺のアラブ諸国も巻き込んでいくこととなりました。

これが、かの有名な中東戦争の始まりです。

 

 

この騒動により、イスラエルから多くの難民が発生することになりました。

イスラエルと隣り合うレバノンにもやってきます。

 

ここから、レバノンの歯車は狂い始めました。

 

レバノンはもともとキリスト教が多かったのですが、この難民が入ってきたことでイスラム派が多くなりました。

このまま何かトラブルが起きればキリスト教徒は数で負けてしまうかもしれない・・と考えました。

 

これ以上難民を受け入れたくなかったキリスト教徒たちは難民追放のために、軍隊を組織しました。

この結果、レバノンで内戦が始まってしまいました。

そして、この内戦にはシリアやイスラエルも介入し、泥沼化していきました。

 

なんと内戦が終わったのは、15年後の1990年でした。

戦地であったレバノンはもうボロボロとなっていました。

 

3-2、内戦後の浮き沈み

しかし、ようやく戦争が終わったので、ここからレバノンは巻き返します。

フランスや周辺の産油国がレバノンへ援助し、次第にレバノンは復興していきました。

インフラや港が次々に整備され、政府も順調に稼働し始めました。

 

90年代レバノンは急成長し、毎年コンスタントに経済成長を遂げました。

外貨準備高も増加し、インフレも収まりました。これは当時のレバノンの首相だったハリーリーの影響も大きいです。

 

レバノンは90年代に大きく経済成長を遂げ、外国から資本が流入するようになりました。

レバノンは再度"中東のパリ"へと返り咲く・・・・・・・はずでした。

ですが、内戦の傷跡はまだ完全には癒えていませんでした。

 

それがヒズボラです。

ヒズボラはイスラム過激派の1つで、内戦中に結成された組織です。

ちなみに現在も活動しており、日本やアメリカ、イスラエルなどはヒズボラをテロ組織としています。

 

1996年 隣のイスラエルで、連続爆破テロが発生しました。

イスラエル側はレバノンのイスラム過激派ヒズボラの犯行と断定し、レバノン南部への攻撃を開始しました。

加えて、首都ベイルートへの攻撃も行い、レバノンの復興の兆しが潰されていきました。

 

この時期経済は成長を続けていましたが、国の借金も増え続けていました。

ただし、この時点ではレバノンはまだ保たれていました。

 

しかし、2005年レバノンの首相だったハリーリーが暗殺されました。

これにより、政情は悪化し、抗議運動も勃発しました。

 

そして、今回の暗殺にはシリアが関係しているとして、当時レバノンへ駐在していたシリア軍は追い出されることとなりました。

選挙でも反シリア派が勝利しています。

 

 

ですが、南部には軍事力を持つ親シリア派がいました。もし、彼らを無視すれば今後の動乱は避けられません。

そこで、ヒズボラから6人を政界へ受け入れることにしました。

 

その後ヒズボラはイスラエルに喧嘩を売ったり、反シリア派の重鎮の暗殺などの関係により影響力を次第に伸ばしてきました。

この後も反シリア派と親シリア派の対立はどんどん深まり、レバノンはより一層分断していきました。

 

さらに2008年にはついに武力衝突が始まりました。

その後政情が不安定だったレバノンは当然崩壊の一途をたどります。

 

3-3、崩壊へ

2016年レバノンのドル流動性が低下し始めました。

つまり、レバノンが貧しくなり始めたと思ってください。

 

国を維持するためには、どうしても一定額外貨をためておく必要があります。

そこで、レバノンは策を打ちました。

2018年より一部の銀行で、ドルをこれまで通り引き出せないようにしたのです。

もし、引き出そうものなら、とんでもない額の手数料がかかることになりました。

 

2019年11月レバノン経済はついに本格的に崩壊を始めます。

 

経済危機に陥ってしまったのです。

レバノン政府はなんとかしなくてはいけません。

 

まず、税金の確保のため支出を減らしました。

つまり、公務員の給与と年金の削減です。

 

とはいえ、生活していくためにはお金が必要で、国民たちも黙ってはいられません。

そこで、空港と港の職員、金融業者などが相次いでストライキを起こしました。

 

このストライキには年金をもらっている高齢者や公務員が参加し、どんどんと勢力を増していきました。

 

ですが、レバノン政府はそもそもお金がないために、こういったことをやっているわけです。

レバノン政府は年金の削減などを止めず、さらに税金をどうにか徴収しようと考えました。

 

そこで、彼らが目につけたのがSNSでした。

SNSへの課税です。SNSは利用者が多いので、税金は集めやすいと考えたのでしょう。

 

しかし、これに対し、国民の怒りが爆発しました。レバノン各地で大規模なデモが起こります。

 

このように、あらゆる我慢を強いられた状態で2020年を迎えます。

2020年3月レバノンはとうとう限界を迎えました。デフォルトの宣言です。

わかりやすく言うと「借金を返せません」という状態です。

 

これを受け、レバノン・ポンドは大暴落してしまいました。

つまり、レバノン・ポンドは一時期紙クズ状態となってしまったのです。

自国の通貨が安くなってしまうと、輸入は非常に困難になります。レバノンは地中海性気候かつ国土が小さいこともあり、

自給率が非常に低い国です。食料品の値段が高騰を始めました。

 

 

悪いことは続きます。

2020年この年に起こった出来事。そう、コロナです。

コロナの大規模発生で、外貨を稼ぐことがさらに難しくなり、国内はさらに混乱します。

 

加えて、8月4日レバノンの首都ベイルートの港で大規模な爆発テロが起こります。

この大規模爆発で、首都は半分以上が被害を受け、218人が死亡、7000人以上が負傷し、家を失ったと言われている人は30万人に上ります。

 

この爆発でレバノンでは食糧危機がより加速します。

市に備蓄されていた穀物の約85%が消失してしまったのです。

レバノンの主要港であるベイルートの港がやられたために、レバノンは不便な他の港を使うことになりました。

当然輸送料が上乗せとなります。

 

この事故により、またもや大規模デモが発生しました。責任をとる形で、8月10日に内閣は総辞職となりました。

爆発・内閣総辞職・コロナとトリプルパンチを食らったレバノンの通貨価値はさらに暴落します。

 

これにより、400%を超えるハイパーインフレーションが発生しました。

レバノンはもはや輸入がほとんど出来なくなってしまいました。燃料が輸入できず、レバノンでは停電・品不足が相次いでいます。

 

さらに、追い打ちをかけることが発生しました。

ロシアによるウクライナ侵攻です。

実は、レバノンの主食である小麦の一大生産地はウクライナです。これにより、もともと高騰していたレバノンの主食である小麦はさらに高騰することになりました。

 

3-4、現在

現在のレバノンは地獄と化していると現地の人は言います。

2020年のパンチにより、企業の倒産は相次ぎ、失業率は急上昇しています。

現在国民の80%が貧困層であり、うち34%は極度の貧困状態にあると言われています。

日用品や食料品の値段は高騰していますが、銀行預金で引き出せるのは紙くず同然となったレバノン・ポンドだけとなってしまいました。しかも、2023年にはついに銀行口座の凍結も起こり、怒った市民による放火事件も発生しています。

2023年現在レバノン・ポンドは1ドル=10万レバノン・ポンドとなってしまいました。4年前が1ドル=1500レバノン・ポンドだったことを考えると、どれだけ暴落したかがお分かりでしょう。

ちなみに、この数字はあの爆発事故の時からもさらに悪化している数字なのです。

もはやレバノン・ポンドをいくら持っていても買えるものは少ないです。

 

そのような状態ですが、いまだに大統領は不在で、各派閥の対立も解消しないままです。

 

新型コロナは相変わらず猛威を振るっています。ですが、大病院や診療所が爆発で吹っ飛んでしまいました。

爆発の犠牲者・新型コロナにかかってしまった人は治療が満足に受けられない状態にいます。

そもそも貧困が深刻で医療費が払えない家庭も増えています。

 

治安も急激に悪化しており、窃盗や薬物犯罪が相次いでいます。

内戦の影響で銃が国内で広く流通しており、銃犯罪も多く発生しているとのことです。

 

多くの人がもはやレバノンを離れようとしています。2019年以降パスポートの申請数は10倍以上に増えました。

しかし、あまりにも多くの人が殺到してしまったため、事務処理は全く追いついていません。

 

 

 

今回は史上最悪と言われる経済危機を迎えたレバノンについてのお話でした。

いかがだったでしょうか?


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

その昔あるところに同じ民族が幸せに暮らしていました。
しかし、その後国が分断してしまい、2つの国はお互いにいがみ合うようになってしまいました。
いつかは戦争に発展し、両者は一歩も譲らずそれぞれ別の道を歩むことになりました。
 
いつかはもう一度手を取るはず・・だったが、対立は今も続いている。
 
 
皆さんは「北朝鮮」と聞いてどのようなイメージを思い浮かべますか?
 
ミサイル、拉致問題、独裁、飢餓、・・
とあまりいいイメージを持っていない方が多いかもしれません。
 
事実北朝鮮は非常に貧しく、ここ最近でも餓死が相次ぎ、ジリ貧状態だとニュースで報道されています。
しかし、あなたはこんな疑問を抱かないでしょうか?
 
なぜ北朝鮮は崩壊しないのか? と。
 
そう、北朝鮮は経済はボロボロ、国民の生活は悲惨にもかかわらず、建国から80年近くたつ現在も独裁を維持し続けています。
いったいなぜなのか?
 
今回はその理由について解説していきます。
 
※北朝鮮が崩壊しない理由については様々な説があります、加えて、この記事では著者の主観も含まれます。
そのため、この記事を読んでくださる方の考えと異なることがあります。
あらかじめご了承ください。
 
 
1、北朝鮮について
 まずは、北朝鮮という国について簡単にご説明します。
北朝鮮は南を韓国、北をロシアと中国に囲まれた小さな国です。
 
人口はおよそ2500万人で、GDPはわずか1兆8000億円と言われています。
ちなみに、鳥取県のGDPとほぼ一緒です。鳥取県の人口が55万人ほどと考えると非常に貧しい国であるといえます。
 
ご存じの通り、現在も残る金一族による独裁国家の1つです。
 
もともと朝鮮半島は1つの国でした。
第2次世界大戦で、朝鮮半島は日本の領土になり、その後アメリカとソ連が朝鮮半島の取り合いをしました。
その後、北をソ連型の社会主義国、南をアメリカ型の資本主義国としてスタートさせました。
 
ご察しの通り北が現在の北朝鮮に、南が現在の韓国です。
戦争などで朝鮮半島統一を目指したこともありますが、どちらも一歩も譲らず結果としていまだに分断したままになっています。
 
 
2、結論
 北朝鮮は崩壊の理由を奇跡的にすべて逃れているから。
 
3、北朝鮮が崩壊しない理由
 
 ① 周辺諸国が北朝鮮の崩壊を望んでいない。
  北朝鮮は中国と韓国、ロシアに囲まれています。
 そして、実は中国と韓国は北朝鮮の崩壊を望んでいないと言われています。
 
 中国:同じ社会主義国家として隣に社会主義国家があるのは都合がいい。
 加えて、在韓米軍の存在があるといわれています。現在韓国には米軍がいます。もし、北朝鮮と韓国が併合してしまうと、
 中国のすぐ隣に米軍が存在すると中国は考えているためあまり望んでいないといわれています。
 
 韓国:韓国が北朝鮮との統一を嫌がる理由はドイツの統一があるといわれています。
 ドイツは統一したことで、豊かだった西ドイツ国民の生活の質が下がりました。
 
 そして、もし朝鮮半島が統一するならば同じことが起こるといわれています。
 北朝鮮と韓国で貧しいのは、当然北朝鮮の方です。もし朝鮮半島が統一されれば、大量の北朝鮮国民が南へ押し寄せてくるでしょう。また、豊かな韓国は北朝鮮を支えることになります。
 韓国の人口は北朝鮮と比べても倍ほどしかありません。加えて、現在の韓国は世界でもトップレベルの出生率となり、高齢化が非常に加速しています。
 つまり、この状況で北朝鮮と統一することになったら、韓国経済は破綻するといわれています。
 国民からしてみれば、国が破綻することは避けたい。なので、韓国は北朝鮮がこのまま独立を貫いてくれることを望んでいます。
 
 ちなみに、東欧やソ連など崩壊した社会主義国は周辺諸国が崩壊を望んでしたといわれています。
 これが、他の社会主義国が崩壊したのに、北朝鮮は崩壊しない理由の1つとしてあげられています。
    
 ② 軍事的なクーデターが起きない。
  北朝鮮のニュースを見るたびに、多くの人は北朝鮮では今に国民が怒りを爆発してクーデターを起こすということが言われています。しかし、実は北朝鮮の専門家および脱北者の証言によるとクーデターによる崩壊の可能性は非常に低いのだという。
 
 そもそもクーデターによって崩壊させようという発想があまりない。
 これは脱北者の証言によるものである。
北朝鮮は長いこと大日本帝国なり、ソ連なり、金一族なりの支配下に置かれてきた。
つまり、長い歴史において国民が時の権力者を倒したという歴史がない。
そのため、内部から倒すという発想はなく、ゆえに不満がある人は我慢するか脱北するかを選ぶそうです。
 
これには、儒教の国であるということも影響しています。
指導者に無条件に従うように、国民に儒教の価値観を通して叩き込みました。
つまり、北朝鮮では徹底的に個人を崇拝し、国のために戦うのも当たり前となっているのです。
このことにより、他の独裁国家にはいた反政府指導者が北朝鮮では極めて少なくなっています。
なので、大多数の国民は民主主義や市民革命の意義についてあまり理解していません。
 
ちなみに、拉致被害者である蓮池氏によると北朝鮮の新聞には金一族はやたらと修飾語が多いと証言しています。
「偉大なる~」「わが父」などなど・・。このように、北朝鮮ではとにかく金一族を崇拝するようにされているわけです。
 
これは社会主義が崩壊した東ヨーロッパ諸国との大きな違いとなっています。
というのも、東ヨーロッパでは多くの国民が市民革命や民主主義の意義を理解していたといわれています。
加えて、どこの国にも反政府指導者およびグループがいました。
だからこそ、ソ連や東欧は崩壊したにも関わらず、北朝鮮は現在も体制を維持しているといわれています。
 
 
③ 厳重なクーデター防止システムの存在
実は、北朝鮮でも何度かクーデター未遂が起きています。
しかし、そのたびに奇跡的に回避し、クーデターが起きないように仕組みを作っているそうです。
 
有名なのは、1992年の軍幹部によるクーデターです。
これは軍事パレードを利用して行われる予定だった、金日成親子の暗殺計画でした。
 
実は当時軍事パレードでは、戦車や装甲車などの兵器がパレードで使われていました。
普段平壌に洗車を持ち込むことは禁止されているため、この軍事パレードだけがチャンスとなっていたわけです。
 
しかし、このクーデター計画は直前になって戦車が乗り込めなかったた、計画は中止となりました。
その1年後に金正日の耳にその計画が入り、関係者は全員粛清されました。
 
金正日はこの1件からクーデターを非常に恐れ、クーデター防止システムをより強化しました。
 ① 北朝鮮にいる兵士を24時間監視している。少しでも怪しい兵士がいたら、すぐに逮捕できるようになっている。
 ② 外国の情報に極力触れさせない。外国人が北朝鮮へ旅行に来るときは、
 
④ 世襲制
 金一族の世襲制が続いていることも原因と言われています。
独裁体制の多くのは独裁者当人が死亡することによって終わるパターンは非常に多いです。
 
以前の金正恩や金正日も、他の独裁者と同じ末路になることを恐れていました。
他の独裁者の末路とは、自分の政権や体制の批判です。
自分たちの関係者や子孫にまで危害が加わる可能性を否定できない・・。
なんとしてもこの体制を維持したいと考えていました。
そこで、自分を批判しないもの、親族を最高指導者として採用することにしていたわけです。
 
ですが、残念ながら北朝鮮は世襲制を採用しています。そのため、今のトップがなくなっても子供にその権力の座が行くため、
結果的に体制が変わらないわけです。
 
また、後継者を完全に決める前に暗殺などが起きないように、厳重な警備かつ影武者を用意しているといわれています。
現在の金正恩の前の金正日は、影武者が最低4人はいたといわれています。
 
また、警備も厳重です。トップを4重にもわたる警備で守っているそうです。
この厳重な警備でがちがちにかためられ、暗殺を阻止しています。
 
※ちなみに、かつて金日成親子の暗殺が企てられたこともありましたが、こちらも失敗に終わりました。
 
つまり、トップが倒れないため政権が変わらないということになります。
 
⑤ 国民が貧しい
 国民が貧しいということも理由として挙げられます。
実は独裁国家がある程度存続する理由としてこの理由は結構大きいところがあります。
というのも、貧しいと日々の生活が精いっぱいとなり、クーデターなどを起こす余裕がなくなるわけです。
 
実は、国民が貧しいのは上の戦略ともいわれています。
これは噂なのですが、北朝鮮最高指導者として2代目の金正日は自身の権力が脅かされることを相当に怖がっていたといわれています。加えて、金正日が政権にいた当時世界中の多くの独裁者や社会主義国家が崩壊しました。
そこで、金正日はクーデターが起きないようにわざと国民を豊かにしすぎないようにしていたと言われています。
 
⑥ 北朝鮮は暴発しない
 「窮鼠猫を噛む」ということわざがある。
これは、弱い立場にあったとしてもいざ追い詰められれば、天敵に立ち向かい異常な力を出して反撃するという意味です。
北朝鮮も同様に、あまり追い詰めると戦争を仕掛けるのではないか?という懸念です。
ですが、多くの専門家は難しいと予測しています。
というのも、北朝鮮は現在経済制裁の関係で戦争に必要となる兵器を確保できないといわれているためです。
特に戦争でキーとなる「石油」ですが、北朝鮮は石油を十分に確保できない状態であると考えられています。
さらに、現在北朝鮮は多くの経済制裁を受けており、石油以外の資源も確保できない状態にあります。
 
つまり、戦争をおこして暴発するというのは北朝鮮はやりたくてもできない状態にあるといわれています。
 
 
以上北朝鮮が崩壊しない理由について書いてきました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

構成

・社会主義とは何か?

・崩壊しない国 北朝鮮について

・なぜソ連やユーゴスラビアは崩壊したのか?

 

・なぜ北朝鮮は崩壊しないのか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回は失敗国家ランキング超常連のソマリアについて解説していくぜ。

 

ソマリアは2008年から6年連続で失敗国家1位に君臨し続けた国だ。

なんてたって政府がない国だからだ。

 

 

ソマリアはもともと北部がイギリス、南部がイタリアの植民地であり、1960年に南北が統一し、

ソマリア共和国として独立した。

 

独立したソマリア共和国だが、初っ端から悪運が立ち込めることとなる。

 

ソマリアにいた民族同士で対立することとなった。

汚職も蔓延

 

その時に大統領が暗殺され、チャンスととらえた軍がクーデターを起こす。

モハメド・シアド・バーレをトップとする最高革命評議会が設立された。

 

そして、バーレは社会主義を目指し、名前もソマリア民主共和国に変更した。

 

これまでの縁故主義や汚職の撤廃を訴え、銀行の国有化、男女平等、中央集権化を進めていった。

 

しかし、部族ごとの事情を割と無視して進めていった結果、バーレの理想通りにはいかなかった。

 

失敗の影響でソマリア社会は大混乱した。

バーレ自身にも暗殺未遂など危害が及ぶこととなった。

 

このことで、バーレ自身も狂っていくこととなった。

ついにバーレは独裁に舵を切ることとなった。

 

1975年 自分の反対派を10名処刑

1976年に一党独裁化。

特定の部族の優遇政策を進めていった。

 

1977年にバーレが計画した大ソマリア主義の運動で隣接するエチオピアのオガデン地方で独立意志が強まり反乱。

オガデン地方は、ソマリアが支援しており、これに反発したエチオピアとの間で戦争が勃発。

 

そこに参加してきたのが、ソ連だった。

ただし、ソ連としてはエチオピアもソマリアもどっちも仲間であったため、なあなあの対応を取っていた。

 

しかし、それだと双方が納得せず、どちらにつくか迫られたソ連はエチオピアを選択した。

 

一方ソマリアは、アメリカやエジプトなどの親米アラブ諸国が支援することとなる。

つまり、冷戦の代理戦争のような形となってしまった。

 

ちなみに、エチオピア側についたキューバは、15000人の兵士が送られた。

この戦争は10年に及び、ソマリアは大打撃を受けた。

 

そして、戦争が終わったころに冷遇されてきた国民が団結して、バーレ政権への反抗を開始した。

こうして、ソマリア内戦が始まることとなった。

 

1991年には、敵対勢力が首都を制圧し、バーレはナイジェリアへ亡命することとなった。

そして、次の大統領にアリ・マフディ・ムハンマドが就任した。

 

しかし、これによりもともとイギリス領だった北部がソマリランドとして独立した。

一方首都がある南部でも大統領の賛成派と反対派で揉めることとなる。

結果として、内戦は再度激化することとなった。

 

そして、当時ソマリアを支援していた国連の支援物資を大統領の反対はが強奪することとなった。

補給経路を確保するために、国連は軍事介入を決定した。

 

これに対し、血気盛んな大統領反対派は国連に対して宣戦布告。

 

作戦を決行し、20人の犠牲者が出ることとなった。

 

しかも、派遣された米兵に対して見せしめ行為を行ったことを発信。

これによって、アメリカの世論が撤退論に傾き、アメリカはソマリアから撤退した。

 

止める人がいなくなったソマリアでは、内戦がさらに激化していくこととなった。

 

1998年にはソマリランドに続き、プントランドが独立を宣言した。

その後南西ソマリアも反発する形で独立を宣言した。

 

2004年に一度各派閥の話し合いがケニアで行われ、ソマリアの暫定政府が成立。

このことに、北部のソマリランドが反発。

 

ソマリランドはまだ比較的平和であり、経済も機能し、観光客も来るほどだった。

ちなみに、ソマリア旅行に行ったという場合99%ソマリランドへの観光である。

 

ごくまれに南西ソマリアへ観光する人もいるが。

 

 

2005年に今度はプントランドと南西ソマリアが連邦政府へ協力し、ソマリアの統一を目指した。

 

しかし、このときイスラム派が首都を制圧、アルカイダも介入などした。

はっきり言おう、ソマリアはもうすでにぐちゃぐちゃなのだ。

 

2012年 正式に政府が認められ、ソマリア連邦共和国となった。

 

ちなみに、ソマリアを有名にしたものに海賊が挙げられる。

ただし、現在は海賊はほぼ絶滅したものになっている。

 

ちなみに、なぜソマリアがよく出没することになったのか?

理由としては以下が挙げられる。

 

① ソマリアは情勢が不安定であったため、収入が不安定。そのため、一気に外貨が稼げる海賊行為は国民にとって魅力的。

② ソマリア沖は紅海の出入り口に近く、周辺の陸地は複雑となっている。そのため、海賊が隠れやすい。

③ 地形的に大型船はスピードを出しにくい。そのため、小回りの利く小型船なら、襲いやすい。(海賊は元漁師だった人も多く、船の扱いに慣れている。)

④ ヨーロッパとアジアを結ぶスエズ運河の出入り口で、ターゲットとなる船が多い。

⑤ タンカーも多い。(石油を運ぶ)

 

こうした様々な原因が重なって、海賊が栄えることとなった。

しかし近年撲滅運動が盛んとなり、海賊は激減した。

現在では、ほとんど消滅したと見られている。

 

②ソマリアへ行くには?

 基本的にソマリアへ旅行に行ってきたという場合は、ソマリランドとソマリア2つにわけて考える必要がある。

というわけで、2つの国への行き方を紹介する。

 

1、ソマリランド

  先ほど歴史でもちらっと出てきたが、あらためてソマリランドのおさらいをする。

ソマリランドはバーレ政権の崩壊後に、これまでの南部優遇への対立などから1991年に独立を宣言した。

その後、独自の法律や貨幣なども成立し、事実上ソマリアとは別の国となっている。

 

ソマリランドに住む住民もその多くが、ソマリランドとソマリアは別の国と認識している。

実際、通貨もパスポートも政治体制も違うわけだから無理もない。

 

さて、そんなソマリランドへ行くにはどうすればいいか?

まずは、観光ビザを取る。

 

観光ビザを取るためには、エチオピアなどにあるソマリランド領事館に行く必要がある。

エチオピアの首都アディスアベバまでは、バンコクや香港を経由して行くことになる。

ちなみに、エチオピアもビザが必要なので、頑張って取得しよう。

 

もう1つ観光ビザを取る方法は、ソマリランドのホテルへ依頼する方法だ。

 

さて、ビザを取ったらソマリランドへ入国しよう。

エチオピア航空で行く方法もあるが、ジブチやエチオピアから陸路で入る方法もある。

 

 

ようやくソマリランドへ入国すると、まず入国税として60ドル取られる。

よし、ソマリランドを観光しよう!といってもこれと言って観光地がない。

 

首都であるハルゲイサをふらふらとするというのが、観光客のすることだ。

ソマリア感が割と安全に楽しめるすごい場所なのだ。

実際ソマリランドへ潜入した旅行客もソマリランドをフラフラしている映像しか見たことがない。

 

まあでも、他の国だと首都をフラフラするだけで、再生回数を稼げる国なんてないので、その意味ではすごい国である。

 

2、ソマリア

次に紹介するのは、絶対にアカン国や「リアル 北斗の拳」と揶揄されるソマリア南部の方への観光である。

つまり、ヤバイ方のソマリアである。

 

まず、前提としてソマリアへ行くのはかなり難しい。

それではいつも通り観光ビザを取ろう。

 

ソマリアの観光ビザを取るためには、ソマリアに住んでいる人からの招待状が必要となる。

(噂だが中央アジアの北朝鮮と呼ばれるトルクメニスタンもそうである。)

基本は旅行代理店を通すのが、一般的。

そもそもソマリアは治安の問題もあり、個人でフラっと旅行に行くのが困難。

 

ビザは入国時に招待状を見せて、手数料を払えばゲットできる。

 

 

というわけで、次はフライトを用意することになる。

フライトはどうしても治安の関係からか少ない。

ちなみに、ジブチやエチオピアから行くのが割と一般的である。

 

さて、そんなこんなでソマリアのビザももらい、ソマリアへ無事入国できた!もつかの間。

ソマリアを旅行するときは必ず護衛をつけて、車に乗りながらの観光となる。

 

※個人で行けば、フラフラとモガディシュを歩くことも可能?らしい。

 

ちょっとホテルを抜け出す、少しおしゃべりしたい・・というのも難しいそうだ。

このあたりはなんとなく北朝鮮と似た感じがする。

 

ソマリアも観光スポットは少ない。そもそも観光客も少ない。

そんな中でもスポットはいくつかある

 

 

1、独立の記念碑

 ソマリア独立時の戦いで亡くなった人をいたむ記念碑。

ソマリアに来たら結構案内される場所である。

 

2、ソマリア平和公園

 平和公園という名の通りのちょっとした遊び場となっている。

日本人からすれば、少し大きめの公園程度の印象であろうが、ソマリアではここはオアシスのような場所だ。

 

3、モガディシュ灯台

 かつてモガディシュが栄えていたころのシンボル。

現在は廃墟とかしている。

 

・・まあ、あまり行くところはないらしい。

 

 

 

 

 

 

皆さんは大富豪と聞いて、どんな人物を思い浮かべますか?

 

高級車を乗り回し、豪邸に住んでいる人や会社でものすごく出世している人を想像する人が多いでしょう。

 

しかし、2014年に92歳で亡くなった億万長者は、死ぬまで誰にも億万長者だと思われることはありませんでした。

 

彼の名前は「ロナルド・リード」

 

 

彼は有名企業の社長でも、芸能人でもありません。

ガソリンスタンドの店員を長く勤め、定年退職後は清掃員として働いていた「どこにでもいるような普通の人物」だったそうです。

実際に、彼のことを知る人は口を揃えて「彼について特筆することはない」と言っていました。

 

実はこの「特筆することはない」が彼が9億円の資産を築けた理由の1つです。

 

彼が、9億円の資産を築けた理由 それは「優良株の長期保有」でした。

 

ロナルド・リード氏がなぜ株を長期保有し、9億の資産を築けたのか?

 

詳しくみていきましょう。

 

1、ロナルド・リードの人生

 

 ロナルド・リードは非常に平凡、あるいは少し貧しい生活を送っていました。

両親は小さな牧場を営んでおり、家があまり裕福ではなかったため毎日ヒッチハイクや徒歩で学校まで通っていました。

それでも、リードは家族ではじめて高校を卒業しました。

 

 その後は軍隊や自動車工場を経て、ガソリンスタンドの店員となりました。

その後、そのガソリンスタンドで定年まで働き、その後は百貨店で清掃員として働きました。

 

彼の給料は高いものではなく、年に日本円で300万円ほどだったといわれています。

結婚は1度だけガソリンスタンドに来ていたお客さんと結婚したとのことです。

 

身なりは質素で、いつも古着を着ていました。

そのため、周りの人が彼を貧しいと思い、ランチをおごったというエピソードもありました。

 

このように、彼は本当に普通の人生を送っていました。

 

2、株式投資との出会い

 

 そんなリードが株式投資を行うきっかけとなったのは、37歳のとき。

行きつけのカフェで出会った病院関係者から地元の図書館で勉強することを勧められました。

 

そこで、ウォール・ストリート・ジャーナル、日本で言うところの「日本経済新聞」に出会いました。

ここから、リードは株式投資の勉強に没頭。

 

最初は節約して貯めた小さな金額で、株式投資を始めました。

そして、配当としてもらったお金についても再投資を行い、資産は雪だるま式に増えていきました。

 

こうして、彼は晩年まで投資を続けていった結果、彼の資産は9億円まで膨らんだのでした。

 

3、彼の投資手法

 リードが行った投資手法は、あの「投資の神様」と呼ばれるウォーレン・バフェット氏にも通ずるところがあります。

彼の信念は主に4つ。

 

1、超長期投資

2、配当再投資

3、分散投資

4、徹底した倹約

 

1つずつ紹介していきます。

1つ目は、超長期投資。

リードは長いこと自身の持つ株を手放しませんでした。

優良企業は長期的には右肩上がりで成長します。

そのため、長く持ち続ければ持ち続けるほど、資産価値は上昇します。

 

でも、それならみんなもやればいいんじゃ・・と思った方。

実はなかなかうまくいかないのです。

 

リードが生きている間だけでもオイル・ショックやリーマン・ショックなど様々なアクシデントがありました。

不況が起きると当然株価も下がります。その時にグッと我慢して持ち続けるのはなかなか至難の業なんなんだとか。

 

事実、超長期投資で成功したウォーレン・バフェット氏もインタビューで

「多くの人は早くお金持ちになりたいため、長く我慢してお金持ちになるのは難しい」と証言しています。

 

2、配当再投資

 配当とは、投資した企業が儲けを出したときに株主がもらえるお金のことです。

株主の多くはこの配当を目当てに、株式を購入しています。

 

リードはこの配当を使うことなく、常に株式へ再度投資しました。

基本的には株のリターンは%ですので、投資額が大きければ大きいほど利益は大きくなります。

リードはこの再投資を繰り返すことによって、初期投資の小さな額を徐々に大きくしていくことに成功しました。

 

3、分散投資

 リードが保有して銘柄はおよそ100種類近くありました。

株式の世界では「1つのかごにすべての卵を盛るな」という言葉があります。

 

つまり、1つの会社だけに投資をすると、その会社が倒産したときにすべてを失います。ですが、多くの会社に投資をしておけば、それだけリスクをさげることが可能になるわけです。

 

4、徹底した倹約 

 最後は、株式投資とは直接関係ありませんが、彼が大富豪になった最大の要因です。

実は、リードは大の倹約家だったそうです。

服装はいつもボロボロで安全ピンで止めていたほどだったんだとか。

またその資産額にも関わらず、昔購入した小さな家に生涯住み続けました。

 

このおかげで、リードはブルーカラーであったにも関わらず、投資に回す費用を捻出しました。

 

 

いかがだったでしょうか?

皆さんもこれを機会に倹約を意識して、投資を始めてみてみましょう。