12


中世ヨーロッパのどの作曲家の作品かはわからないけど、聞き覚えのあるクラシックが流れている。

周りにいるのは20代前半の脂の乗ったサラリーマン男性グループと、30代後半ぐらいのバリバリの営業マン風女性が一人。

イヴの日に合コンでもして盛り上がったのか、笑顔で喋りまくるスーツ姿の若い男性たちの傍らで、女性は一人静かに本を読んでいる。

そして私の目の前には、普段は絶対にプライベートを見せない人物である武志さんという男性が、カフェオレを口にしている。



クリスマス・イヴをバイトで過ごし終えた私が意外にも武志さんに誘われ、やってきた場所は、想像していたおしゃれな飲み屋でもバーでもなく、チェーン展開している普通のカフェだった。

イヴの夜に、一緒に働いた後のお誘い。しかも、あの武志さん。

・・・ちょっとでもそわそわした自分が、情けない。



ふぅーっと時折深い息を吐きながら、武志さんはゆっくりと熱いカフェオレを飲み続ける。

今この状況に居ることが、本当に、不思議でしょうがない。



武志さんはいつも必ず22時からしか働くことができず、そしてあまり周りに自分を見せようとしない。

プライベートや生活そのものがまるで謎めいているが、少し日に焼けた黒い肌や、ゆるくあてられたパーマが時折潤んだ大きな瞳にかかる姿がとても美しく、どうも気になってしまう人。

最近、武志さん目当てにお店に来る女性客もいることに気づいた。

きっと、朱里もそうだったのだろう。

それほど綺麗な顔立ちをした人である。



そんな大人のムード漂う武志さんに誘われ、二人っきりでいることも驚きなのだが、その場所がカフェだということにも驚きを隠せない。

イメージでは、武志さんはこんな庶民的な場所には来ないはずだからだ。



「なんだかね」

席について3分、初めて武志さんが二人の沈黙を破る。

「こうしてると落ち着くんだ。色んな人の姿が見られて」

「は、はぁ・・・」

「俺らの店のバーってさ、ちょっとお酒も入るから、多少その人本来の姿と違う部分も出てきてしまうと思うんだ」

「はぁ・・・」

「でも、ここは違う。自らの意思で来て、自らこの空間に存在を置くことを望む人が来る。お酒もないのに長時間ワイワイと居続けたり、はたまた一人で自分だけの世界に入ったりね。みんな、どこかの居酒屋とか自分の家とか、他の場所でもできることを敢えてこの場所を選んでやっている」

「はい・・・」

「色んな人の人間模様とか、内面っていうのを、覗き込める場所だと思うんだよ、俺は」

「そう・・・なんですかね」

「あっ、ごめん、つい語っちゃって」

「いえ。・・・よく来るんですか?」

「うん、仕事終わりにね、一服がてら」

確かにそのカフェがある場所は、私たちの店から2分も歩けば着く立地だった。

駅からは多少離れた場所とは言え、それが幸いしあまりうるさい客を呼ぶことがなく、落ち着きを得られていると感じる。

「そうなんですね、意外です」

思い切って意外だということを伝えてみた。私にしては、めったに言わない本音だ。

「そう見られがちだけどね」

武志さんはそれまで斜め向こうを向けていた体勢をこちらの真正面に向き、

「一服って言っても、煙草吸わないからただの小休憩だし」

そう言って、カップの中身をこちらに向けながらクシャっと照れ笑いをする。

「実は、コーヒーだけっていうのは飲めないしね」



人は見かけによらないとよく言うけれど、良い意味で期待を裏切られたのはこの時が初めてだ。

その後少しだけ話をして、私の大学のこととか、武志さんが普段カメラマンのアシスタントをしていて、いつも撮影が早朝から一日かけて行われていることなどを話し合った。

武志さんはイメージと違って話すとそれなりに喋る人で、私たちの会話は割とよく弾んだ。

そうやって先生以外の人と知り合えば知り合うほど、私の中から先生に対する切なさが和らいでいくのを感じた。

でも、決して先生を忘れるということではなく、先生に会えない切なさやもどかしさだけを忘れることであり、

やはりこうした中でも、先生に対する愛情は、意識してか否かはわからずもどんどんと美化されていっていた。



会えない寂しさは、我慢すればいい。

周りの人たちが、支えになってくれている。

だから私は、先生を好きだということだけ思っていればいい。




時折、武志さんが遠くを見つめ寂しそうな目をしているかのようにも思えたけど、

そんなはずもないだろう、とさほど気にも留めず私はココアを飲み干した。



十分な時間をとった後、武志さんは「じゃ、帰ろうか」と私を促し、私たちはタクシーでそれぞれの帰途についた。



11



あんなにも恐れていた聖なる夜はいとも簡単に訪れ、


バイトに充てたその日は、まもなく終わりを迎えようとしていた。


イヴの夜はさすがにカップル客ばかりで、音楽はしっとりとしたジャズを流して照明も落とし、いつもよりもムーディーな空間を演出していた。


私は迎え撃つ数々のおアツいカップル客にも動じることなく、先生のことはなるべく考えないようにしていた。




不思議と、お店にいる時は先生のことをそれほど考えない時間が送れているのも事実だ。


オーナーの田嶋さん、サブの宮元さん、22時からの貴公子・武志さん、それに哲・・・みんな、新米で唯一の女である私を受け入れ、すんなりとこの“場所”に居させてくれるようになった。


ここは接客という私の中で未知の領域だった仕事をする場所にしても、どことなく居心地がいい。


先生のことは、自然と考えなくてもよくなってきているのだろうか?




「菜緒ちゃんさ」


隣で武志さんがつぶやいた。25時半を過ぎ、ラストオーダーを終えた武志さんと私が洗い終わったグラスを磨き上げていた時だった。


視線を手元のグラスに落としたまま、武志さんは言う。


「今日、この後の予定は?」


「えっ?」


びっくりした。田嶋さんはおろか、哲にもバイトの終わりに誘ってもらったことはない。


武志さんは周りのスタッフやお客様に気づかれないようにするためか、目を合わせることもなく、ただひたすら手元を動かせていた。表情も、寡黙にドリンクを作るいつもの様子と変わらなかった。


「あ、ありませんけど・・・」


一瞬、武志さんの手が止まる。ゆっくりと穏やかな表情をした顔が、ゆっくりとこちらを向く。


「じゃあ、決まり」


それだけ言って、グラスを磨き終えた武志さんはカウンターの奥に行ってしまった。何事もなかったかのように、お客さまの空いたお皿を下げている。


武志さんとも大人になると、この時間から飲みに行ったりするのかな。




チラリと哲の方を見たが、哲は一生懸命テーブルを拭いていた。


哲に気付いてほしかったのか、そうでなかったのかは私にもわからなかった。




このお店で、哲以外の人と新しく親交を深めるかもしれない夜にチラチラと初雪が降っていたことを知ったのは、お店を出た26時半のことだった。



10



寒く、薄暗い夕闇の中を家まで歩いて帰る。夏の暑さよりも、冬の寒さの方が私は好きだ。


冷たく澄んだ空気の中を、ブーツが奏でる重厚な音を聞きながら、物思いに耽る時間がいい。


街を歩く人々も、イルミネーションが輝く中にいれば楽しそうに見えるけど、


夕方という微妙なこの時間においては、誰も彼も寂しそうに見える。


辛さとか苦しさで見せる表情ではない。


それぞれの心の奥底にある、人知れない「切なさ」が作り出すものだ。


そんな人々の顔を見て、どことなく自分と似ているのではないかと、考えを巡らせる。


私はいつもそうやって、冬の夜道を歩いている。




「おかえり。今日はバイトないんでしょ?今夜はシチュー作ったから。菜緒、好きでしょう?」


お母さんは昼間は働きに出ているけど、夕方には帰宅していつも私の帰りを待っていてくれる。


そしていつも、腕によりを掛けた料理で私を迎えてくれる。


「うん、ありがと。楽しみにしてるね。」




私が、先生と付き合っていると知ったらお母さんはどういう反応をするだろう。


早くに夫を亡くして、一人きりで娘を育ててきたお母さんは、その娘の交際相手を知るとどう思うだろう。




夜、食卓にはサラダとパンも加わっていた。


「でね、色んな人が来るの。カップル、サラリーマン、女性の一人客とか・・・」


「そうなの?バーって、なんだか入りづらいイメージだけどねぇ」


「私もはじめはそう思ってたの!でも今は全然。結構ね、大学生がグループで来たりもするんだよ」


「そうなの?お母さんは、てっきり菜緒は大人の世界に飛び込んでいった勇気ある子だって思ってた。菜緒だけじゃないのね」


「大人の世界だなんて大げさだよ~お母さん。今はね、そんなんじゃないんだよ。結構店内も明るいし」


「そう・・・よかった、安心した。」


「何が?」


「・・・心配だったから、お母さん。菜緒は、小さい頃から内気な引っ込み思案だったし。家庭教師もすぐに辞めてしまったのに、今度のバイト先はバーでの接客だなんていうから。うまくできてるのか、気になってたのよ」


「・・・心配性だなぁ、お母さんは」


「あら、娘に幸せになってほしいと思ってるのはどの親も同じよ?」


「そんなバイトひとつで大げさな~。幸せがどうこうって話じゃないじゃん」


「わからないわよ。世界はグンと広がるんだから」


「世界・・・ねぇ・・・」


真っ赤なプチトマトをつまみ、上を向いてパクンと口にした。




「いい人とか、いないの!?」


突然のことで驚き、思わずプチトマトの果汁を噴出しそうになった。


「なっ、なに言ってんのお母さん」


「だって、ねぇ、菜緒もお年頃だし」


「そりゃ成人式も迎えて一応大人の仲間入りはしましたけど。そういうのは、全然だよ」


「不思議ー。お母さんが大学生の頃はもっと遊んでたのになぁ」


「え!?なになにそれどういうこと!?詳しく教えてよぉー!」




会話がお母さんの昔話にシフトして、内心ちょっとホッとした。


昔から友達のように何でも言い合えてきたお母さんと私だけど、やっぱり彼のことは言えない。


誰かと付き合っていることも、言えない。


幸せなことばかりじゃないから、言えない。




不倫しているだなんて、絶対言えない。