第41回「官兵衛で國創り」は「いざ出陣!!渋谷攻略?!」をお伝えします。「渋谷」は東峰村長の名前ではありますがNHK放送センターがあるのが東京の「渋谷」です。

 ちょうど1年前ぐらいにわたしが「官兵衛で國創り」を構想していた頃、渋谷村長や周囲に話していたことです。「1月から軍師官兵衛・追走番組をスタートしたら来年の夏から秋ぐらいには渋谷村長を団長に渋谷(NHK放送センター)に乗り込みますよ。」と話していました。私が企画するあらゆる企画がそうであるように1年前はこの話を誰も本気で聞いていませんでした。が、やはり現実になりました。最近お会いした渋谷村長も「いやあーごめん、やっぱりあの頃はまさかこんなになるなんてわからんやったなー」と笑って素直に答えられます。

 もう来週になりますが10/16(木)に構想通り「渋谷」村長を団長に福岡県内、全国各地から集まり「渋谷」を攻略致します。10/12(日)の「官兵衛で國創り」は「渋谷攻略」を「住民ディレクターは地域づくりの軍師」をコンセプトにお伝えします。

「官兵衛で國創り」Facebookページ
「官兵衛で國創り」生放送は とうほうTVホームページで 


 熊本の民放時代はディレクター&プロデューサーとして、また同時にカメラマン、編集マンとして様々な番組を創ってきましたが長く継続してやってきたのが「ズームイン!!朝!」と「愛は地球を救う!」24時間テレビです。現在の住民ディレクターは「ズームイン!!朝!」が原型です。

 「朝で生でジャーナルで」というのがギニョさんと愛称で呼ばれていた斎藤総監督の徹底して曲げないコンセプトでした。住民ディレクターは朝は忙しくてテレビマンのように「朝で生で」は難しいのですが現在、毎週日曜日の夜にやっている「軍師官兵衛」追走番組は「夜で生でジャーナルで」と夜の「ズームイン!!朝!」です。。全国から顔を出してもらう時間がなかなかとれないのが課題ですがこれは最終回の26時間テレビで思う存分出ていただくための実戦での鍛錬です。

「ズームイン!!朝!」と並んで日テレ系で長寿番組の一つ24時間テレビもプロデューサー、ディレクター、カメラマン、ADを一人で兼ねてよくやっていました。毎回熊本だけのオリジナルでかなり過激なチャレンジを繰り返していました。24時間を共にやり遂げるのはいろんな意味で関わる大変多くの方々との交流が一気に深まり、気持ちひとつになっていく貴重な場が育っていきます。わたしは今回「官兵衛で國創り」で「何故26時間テレビですか?」と問われれば「これまで1年間関わっていただいた全国の皆さんの気持ちが一つになるから」と答えます。

 信長、秀吉、家康の元で官兵衛が走り回り、村重、半兵衛、宇都宮鎮房、そして殿について活躍してきた栗山善助、母里太兵衛などなどこれまで歴史の表舞台とは無縁だった家臣団や家族の暮らしがあったことがどんどん見えてきました。一人一人自らを投影する役者も異なるでしょうし、追走する中で自分自身を発見された方も多いと感じます。

 その発見、気づき、つながり、広がり、想像の翼の世界、表現、創造・・・などの今年の成果を発表し合う26時間です。「ズームイン!!朝!」は「じゅうみん!!朝・昼・夜!」になり「24時間テレビ」は「26時間テレビ」になります。さらにその理由を詳しく今夜語ります。なにしろやっと今夜の準備が始まったばかりなんです。急がないと!?

「官兵衛で國創り」10/5(日)20:45から とうほうTVホームページで!! 生放送です。


 テレビのことをやりはじめてすでに約30年を過ぎました。間違って熊本のテレビ局に入ってすぐに感じたのがエラい人ばかりいる場所だということでした。「わたしには合わないなあー」、といつも違和感がありましたがいつしか「朱に交われば赤となる」のことわざ通り、知らぬ間に自分もエラくなってしまっていました。

 そのことに気づいたのはまさに市町村で人知れず自分のことではなく他の人達のことを考えて静かに動いている方々がいることを知ってからです。そう!!そういう方々のために何かできることを黙々とやらなければ、との気持ちが、そういう方々の行動を見て自然と生まれてきました。その方々が今もわたしの支えであり、叱咤激励され続けてきて「住民ディレクター」の発想になっています。

 しかしこの30年間変わらないのは「人はあっという間にエラくなる」という一つの傾向です。わたしは幸い、アシスタントディレクター(AD)から記者、ニュースデスク、プロデューサー、営業、経理、タイムキーパーとあらゆる業務をすべてやってきたのでいつも他者ができないことをやる究極のAD(アシスタントディレクター)でした。穴があいたらそれをやるのがわたしのプロデュース力です。全部やってきたから穴があいたらそれもできる。しかし通常のプロデューサーはそんなに色々なことは経験してませんから(例えばカメラマン、編集、タイムキーパー、経理、営業など全てをやってきたプロデューサーはまずいません)穴があいたからと言って自分ができるものではありません。誰かに指示するわけです。

 わたしは指示する前に自分でやってしまいます。例えば萩本欽一さんを熊本に呼んできて熊本がオープニングで開けた24時間テレビ「愛は地球を救う12」の時はわたしが熊本市体育館のステージの裏で欽ちゃんと五歩一プロデューサー、神戸ディレクターと3人で欽ちゃんの背中を押してその年の24時間テレビははじまりました。が、同じ年のその24時間テレビのフィナーレでエンディングテーマをみんなで歌ってる時に、たまたま会場の壇上に並んでいた小銭が詰まった瓶類が振動で倒れ落ちて割れてしまいました。

 しかし、みんなフィナーレに酔いしれてしまっていてADやボランティア誰一人それを掃除して片付ける人もいません。わたしはその年の総合プロデューサーでしたが、一人ホウキとチリトリをもって壊れた瓶類を集めていました。あれから約25年経ち、今は住民ディレクター活動の総合プロデューサーですが、今もってADをやっています。わたしがADをやめられない理由は?正直言ってみなさんがあっという間にエラくなってしまってADをやれなくなるので、結局万年ADを今でもやめられない、というのが今の実情です。エラくなる人達はなっていいですが、何故そんなに簡単にエラくなっていかれるのでしょうか?

*写真は黙々と人吉球磨地域のために活動してきた日本のおふくろ 山北幸さんと、幸さんの後継者 人吉「
ひまわり亭」の本田節さん。 


 番組づくりには様々な役割があることはわかってもらえたと思いますが「それに参加すると何故地域づくりの力が養成されるか?」が次のテーマです。

 しかし、その前に「地域づくり」って何でしょう?ほとんどのテレビマンが全然わからない「地域づくり」って?もちろんテレビ局の皆さん取材はよくされているので「地域づくり」や「地域活性化」は知っているはずです。「知ってはいてもわからない。」・・とは?。

 「知っているけれど自分ではできない」というと怒るテレビマンも出てくるかもしれませんが「知っているけれど自分ではできない」というと感じはつかめるでしょう?これってあらゆる事に共通することですよね。「知識としては知っている、でも自分でやれと言われればできない。

 大方の男性が料理ができない。野球やサッカーファンが選手のヘマにブーイングはできても代わりには100分の一もやれない。その状態がテレビ番組の「番組づくり」という閉鎖されてきた世界と地域づくり=地域生活の活性化という実際はごく一部の人しか携わっていない活動が一つになるっていうことですから、わかりにくいことこの上ない話なんです。

 一応この項でわたしなりに「地域づくり」を一言で言うと「元気であり続ける暮らしをプロデュースする」です。テレビの番組づくりが「元気な暮らしをプロデュース?」ここがさらにわかりにくいことでしょうね。 

(3)につづく


 「番組づくり」が「地域づくり」ということはわからない人にとっては何万遍話してもわからないかもしれません。「番組をつくったことがない」というのが理由の一つです。経験がないとイメージが湧きませんから。

 もう一方で毎日のように番組を作っているテレビマンたちが全然わからないのです。「地域づくりの経験」がないからです。「地域生活の経験」と言ってもいいかもしれません。

 「番組づくり」と「地域づくり」が一つになるには「番組づくり」も「地域づくり」も経験した人でないと本当には理解できないことです。番組づくりのプロセスは企画して撮影、取材して編集して、放送する。一人でつくれるVTR番組は技術が好きな人向きです。そういう人は撮影も編集も自分でします。撮影も編集も苦手でとてもできない人にはスタジオ番組が適しています。

 通常で言うと、プロデューサー、ディレクター、カメラマン、音声、スィッチャー、ミキサー、フロアーディレクター(FD)、アシスタントディレクター(AD)、タイムキーパー(TK)、VTR係(スタジオの話に応じてビデオを出す人)、そして話し手(司会者、キャスター、アナウンサー、リポーター、コメンテーター)という具合に役割は山ほどあります。

 このうちのどれかをやれば番組づくりに参加しています。いやいやもっと言えば弁当を買いに行ったり、集まった人達にお茶を出す仕事もあります(これはテレビ局では本来ADの仕事ですが住民ディレクターではこれはこれで賄係としてあります)。さてここまでで少しは番組づくりというのがかなり広範囲な役割があり多様な仕事があることがわかってもらえたでしょうか?

 弁当を買いに行くのも「番組づくり」ということを理解してください。企画したりディレクターをやったりカメラで撮影するのだけが番組づくりではないのです。

 (2)につづく

岸本晃のFacebook  

 


 民放での住民ドラマ初監督となった「平成元年のタイムスリップ」は熊本市の中心商店街を舞台にタイムスリップしてきた熊本市電の運転手の人生を巡って織りなす家族愛を描く娯楽作品でした。

 そして第2作は鹿本郡市広域行政組合との共同制作で、不老不死の男と革命家で浪曲師の宮崎滔天の長兄宮崎八郎との出会い、謎の「八郎の壷」を追いかけるサスペンスも絡み「生きる意味を考える」ドラマでした。今振り返れば宮崎滔天は「花子とアン」を支える白連の最後の夫、宮崎竜介の父でドラマの八郎は叔父にあたり、白連と別れることになる炭坑王 伊藤伝右衛門の炭坑がある東峰村の歴史ともしっかりと繋がっています。

 さて、このドラマでは6市町村(当時?)の自治体からドラマ制作班を組み、住民の方々に企画の段階から出演者交渉、ロケ地の準備、大道具小道具などの手配などをすることでドラマ作りに積極的に関わり、本格的にノウハウを身につけてもらう地域活性化ドラマとしてのスタートを切りました。「住民ドラマ」は結局、ドラマ本体よりもむしろこういう後方支援的な作業の円滑な動きを創ることが成功の鍵で2作目は親しい永村ディレクターに監督は譲り、わたしはプロデューサーに徹しました。

 「番組づくり」が「地域づくり」となるドラマでの地域活性化創造プロデューサーの本格的な誕生の時でした。当時坂東玉三郎さんが応援して復興をはじめたばかりの芝居小屋 八千代座でドラマPRイベントを組み、運動会の夜に満員御礼の中、住民ドラマの大宣伝会が実現しました。

 そしてその後、奇しくも八千代座復興に関わる玉三郎さんのドキュメンタリーを制作することになります。

*住民ドラマの作り方講座 うきはICT寺子屋主催


ひょんなことから住民制作ドラマの講座をうきは市でやることになりました。色々と振り返っているうちに慶応義塾大学大学院の修士論文を書いてくれた高橋明子さんのブログが出てきました。そのまま貼付けさせてもらいます。
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岸本さんが、住民制作ドラマの資料を探しておられると拝見し、修士論文から引っ張り出してきました。もとは、もちろん、全部岸本さんから聞いたりいただいた資料です。

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資料:「住民の自律と協働を促す映像制作プラットフォーム」(2006年度修士論文)

慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科 高橋 明子

 P19~  *以下、論文原文で、岸本さんや住民ディレクターの皆さんは敬称略で失礼しています。

 2.2.3 住民参画ドラマ制作

取組みの時期が若干前後するが、1989~94年にかけて、岸本が熊本県民テレビで取り組んだ住民参画型のドラマ制作も、住民ディレクターの原点のひとつである。 

 最初に取り組んだのが熊本の商店街を舞台にした『熊本県民ドラマ「平成元年のタイムスリップ」』(1989年)である。これは、岸本の同期(園田文彰氏)がドラマ制作を希望し、シナリオは園田氏が執筆、監督を岸本が務めたもので、数千万の予算が必要で地方局では到底難しいと言われていたドラマ制作を、スタッフを熊本県民テレビで内部化することで数百万で制作したものである。ドラマの出来映えとともに、その制作手法が当時は大きな反響を呼んだ。

 第1作が反響を呼び、第2作、第3作には1000万規模の予算が集まった。第2作は『企業ドキュメンタリーロマン「赤バス物語」』(1990年)と題して、県内を走るバスを舞台にした企業ドキュメンタリードラマを制作。第3作は『八郎の壺』(1993年、山鹿鹿本広域行政組合と共同制作)という地域の歴史ドラマを制作した。

  【新聞記事】村おこしビデオ、地域PRに知恵競う-ドラマ仕立て人気 1993/07/12, 日本経済新聞夕刊     

 おらが町や村の観光名所、特産品などを映像で紹介したむらおこしビデオに、ユニークな作品が続々と登場している。ドラマ仕立てあり、UFO(未確認飛行物体)ものあり、コンピューターグラフィックス作品あり、と手法もさまざま。話題づくりにも一役買うこの面白ビデオ、果たして視聴者の心をつかむことができるか。(中略)

  同じドラマ仕立てでも熊本県の山鹿鹿本広域行政事務組合が企画したビデオ「八郎の壷(つぼ)」は地元の民放で放送された本格的なものだ。この事務組合は山鹿市と周辺五町の鹿本郡市が対象。自治省の「ふるさと市町村圏事業」の指定を受けたのを機に、昨年四月にドラマ制作に取り掛かった。ドラマは自由民権運動の推進者で、西南の役で戦死した郷土の英雄、宮崎八郎が残したとされる壷をめぐり、サスペンスタッチで展開する。鹿本郡市の美しい自然を背景に、現代から明治、さらには古墳時代にまでさかのぼり、やがて不老不死伝説につながっていく……。主役、準主役はプロの俳優だが、それ以外の役は公募で選考。熊本県民テレビに制作を委託し、事務組合がスポンサーになって昨年十月十日の体育の日にお茶の間に流れた。その後、評判を聞きつけて、日本テレビや読売テレビなど全国十四の放送局でも放送された。制作費はスポンサー料も含めて千二百万円。事務組合事務局の阪梨健氏は「宣伝効果を考えれば安いもの。今のところ経済波及効果は出ていないが、今後観光客の増加などを期待したい」と力を込めて話す。

*つづきは高橋さんのブログで。ブログはこちら→八百万人にあります。 


 インタビューを受けるということを随分数多く経験してきましたが今日は久しぶりに手応えがあるインタビューでした。住民ディレクターではインタビューはしないのです。お互いが生活人だからそれはどちらかが話を聞くというものではなく常に双方向の会話になってしまいます。

 「生活人がテレビをつくることで豊かな暮らしを創造する」住民ディレクターの発想は全く互角の関係で成り立ちます。しかし、現実にメディアで仕事をしている方々がいるのでその人達からはインタビューを受けることはあります。わたしもかつてはやっていたことですが今はほとんどありません。今は会話です、生活人ですから。しかし、相手がタレントさんであればインタビューはあり得ます。ちょっと前に「軍師官兵衛」の濱田岳さんにお会いした時は久しぶりにインタビューをしました。

 さて、話を戻します。今日のインタビュアーは農業関係の雑誌社の方でした。詳細は省くとしてご自分がずっと疑問に感じていたことを全てわたしの実践にぶつけて来られたのでこちらも明快にお答えできたのです。自らの裡なる声から発する疑問、質問はこちらも本音で返すしかないので気持いいほど会話になります。結果的にはインタビューではなく、やはり会話になるのです。

 しかも、きっと今日のインタビュアーの方は別れてからすぐそのまま何らかのカタチで影響があるはずなんです。要するに当事者になってしまったと感じるのです。今朝、東峰村に着くまでは色々と想像の翼を広げて来られたのでしょうが、いざ会って話してみると「悉く予想外の答えだった」という話をされていましたが、そのまま本音だと感じます。

 だからわたし自身も日頃言い続けていますが「住民ディレクターという生き方をお伝えしています」ということをそのまま語らせてもらったのです。気持がスッキリ!! 恐らくそのまま原稿には生かせないかも知れませんが(デスクとの戦いも大変でしょう!?、わたしもテレビでニュースデスクを長くやってましたからわかります。)、お会いしたことが人生です。わたしにとってはとても大切な人との出会いでした。

 こういう出会いは結果は関係なくすでにコミュニケーションが成り立っているので必ず「次が来る」のです。コミュニケーションできない方々とは最終的には仕事を一緒にすることはありません。住民ディレクターという生き方をお伝えしています。

 


 花子がラジオで子どもたちのためのニュースを読むことになった顛末を見ていたら「花子さんは住民ディレクターだった」とよくわかりました。

 ラジオ局の若きディレクターが白連さんの知り合いで花子さんと出会い、家の庭先で子どもたちに読み聞かせをしているところを見て、子どもニュースの読み手を花子さんに頼みます。ラジオ局に行くといかにもエリートアナウンサーらしき人物が、ニュースは「色を出さずに透明で読むべき」的な話をします。この辺りは住民ディレクターの皆さんがよくプロに言われることと全く同じ状況です。

 そしてニュースを読む当日に「飛び込み原稿」を読むことを強要されます。いきなりで頭が痛くなった花子さんの手にはラジオが大好きだった亡くなった子どもの写真があります。子どもがよくラジオの真似をしていたのを思い出し、花子さんは奮起します。そして慌ててスタジオに飛び込んでラジオ局のディレクターに頼んだのが「自分が書き直した原稿を読みたい」という申し出。原稿にはあちこちに赤字で添削されています。当時は逓信省に許可をとらないといけなかったのですがディレクターが原稿を読んで即断します。

 そして両親や夫、知人たちがそれぞれの土地でラジオの前に群がり、遠く離れた東京にいる花子さんの第1声を待っています。そして・・・。

 住民ディレクターの姿がそのままでした。特に夫が、花子さんがあがり症で不安を隠せない様子に「原稿を読むのではなく、子どもの顔を浮かべて語りかけるといい」というようなアドバイスをします。まさにこれはわたしが18年間言い続けていることです。書いたものを読むのではなく「具体的に人の顔を浮かべてその人に話すんです」。

 花子さんのラジオ放送の声を少し前に飯塚市の伊藤伝右衞門邸で聞きましたが、本当に本当にやさしい声でいつまでも聞いていたい語りでした。住民ディレクター花子さんたちの模索があって一時的にはラジオもテレビもプロのものになってしまっていましたが、ICTの発展は花子さんとのつながりを今に創ってくれていることを感じました。

 ラジオの前で花子さんの声が聞こえて大喜びしている当時の人達の姿は自分自身の撮った映像が流れて大喜びしている住民ディレクターの皆さんの感動とダイレクトにつながっています。


 次々と新しい発見が起こる「官兵衛で國創り」。今回は官兵衛の筆頭家老でわれらが殿、栗山善助の384回の法要でのこと。

 濱田岳さんの「善助そのもののような」心温まるビデオメッセージに杷木志波の皆さんはとても喜んでおられました。384年の時を超えて栗山善助、地元住民、濱田岳さんとのご縁がしっかりとつながっていることがよくわかりました。そして終了後にちょっとしたハプニングがありました。

 詳細は省きますが、このことで何とかしようと集まった皆さんが気持ち一つにしてそのハプニングを解決する場になりました。実はその当事者は栗山善助の家臣で善助が亡くなった日に殉死された方のご子孫でした。翌日の昨日、御礼に朝から再び円清寺を訪れたご子孫からメールが入り、殉死されたご先祖を追いかけてさらに殉死されていた家臣団がおられたことがわかり、そのままその方々も供養していただいたとのことでした。なるほど、一昨夜のハプニングは何か意味があるのでは?とおもってましたが、結果的にはそういうことにつながったのでした。

 「官兵衛で國創り」明日8/17(日)はわたしは光姫の故郷、加古川から中継です。光姫のご子孫とは取材にお邪魔した円応寺でたまたま来られた瞬間にお会いするなど「官兵衛で國創り」の場は次々と想定外の出会いが続きます。また、明日「軍師官兵衛」では村重が死んでしまいますので急遽、伊丹市の仲野さんらにお願いし、4度目のご出演を快諾いただいています。

 善助、光姫、村重と考えてみれば官兵衛にとって重要な位置を占めている3人の登場になりました。さらに善助を守った忠臣と、そのまた忠臣であった家臣団・・・、無名で誰も知らないまま亡くなった多くの方々がこの番組で供養?されることもだんだん見えてきたもうひとつの活性化効果です。