きょうたまたま福島県いわき市の沖合の試験操業の話を昨日まで南相馬市にいたこともあって書きました。そして昨日南相馬市を出る直前に市役所で見かけたのがこの写真のポスタ–です。作家の埴谷雄高さんと島尾敏雄さんの出身地と知り独特の土地柄を感じました。

 さらに南に位置するいわき市にはわたしが尊敬するお二人の放送人がおられます。残念ながらお二人とも故人ですがわたしは随分とお世話になりました。一人は日本で最初の放送評論家の志賀信夫さん、もう一人は映画「植村直己物語」や高倉健さんが主演した「ぽっぽや」の脚本等で有名な岩間芳樹さんです。

 志賀さんはわたしのテレビ局時代から地域に根ざした住民参画、住民主体の番組づくりやドラマ制作に大変興味を持っていただきました。住民ディレクターで起業した平成8年当時は中野の書斎を東京訪問時には宿として提供いただいたり、メディアアクセス全国協議会発足の時は一番に山江村の住民ディレクター実践事例を発表させていただきました。メディアアクセス、パブリックアクセスという分野で山江村の住民ディレクターが活躍するきっかけを作ってくださったのも志賀さんでした。

 岩間芳樹さんは「熊襲復権」をテーマに当時の球磨郡免田町で住民手作りドラマを制作する時に日テレのドラマプロデューサーに相談したら「あなたが考えているドラマを書ける作家はこの二人」と言われたお一人でした。実際大変忙しい最中にご自宅まで押し掛け、とうとうOKをもらい飛んでもない原作・シナリオを書いていただきました。熊襲復権ドラマは古事記、日本書紀でヤマトタケルが蛮族を退治するというニュアンスで書かれ、町民がアイデンティティを喪失しているとの悩みから脱却するために当時の町の係長の依頼でわたしがプロデュースしたものです。町民が主役の手作りドラマは地域を見直し、誇りを持つ大きなきっかけとなりました。

 かつてやってきたわたしたちの活動はきっと古代東日本の阿弖流為(アテルイ)や蝦夷(エミシ)の復権手法として生かせると考えています。


 原発事故以後初の いわき沖試験操業が報じられています。福島民報によると放射性物質検査で全てが下限値未満だったということです。一昨日南相馬市に入ってすぐに市役所の方に案内していただき市内全域を回りました。わたしのためにガイガーカウンターを携帯してくださりどこを回ってもその変化がわかり警戒区域でさえわたしの予想以上の低レベル量を示すのがわかりました。

 同時に市役所の課長さんが大変わかりやすい話し方で南相馬市の実際の日常を話してくださりやはりマスコミ等での伝わり方とは違ってそのままがよく理解できます。そのお話はそのまま住民ディレクターで、せっかく作られたエリア放送局で「課長のそのままリポート」のようなものを放送できるようにすることがエリア放送局にも課長にも大事な使命の一つになると感じました。きっと離ればなれになられている南相馬市の皆さんに役立つはずです。

 しかし、どの地域でもそうですが一見簡単に見えそうなそのことを実現するには多くのハードルがあります。自治体放送局となると民放や民営ケーブルテレビ等とは全く違う課題があるものです。そこを理解できた上で本当に実現できる解決策を提案し行動する力がないと結果的には地域にとってはマイナスになってしまいます。そして動きができないとなるとやれなかった側からは「やれない理由は行政にある」と行政批判で終ってしまいますがそれでは何の解決策にもならないのです。で、どうするか?が常に問われています。

 わずか二日間ですが現地の皆さんとお付き合いさせていただいて相手様がどうであろうと「きっと役立てる」というわたしの気持ちは深まるばかりです。何らかの提案、実践をすることになりますが「押し掛け女房」的にならないように動くことも永年培ってきた暮らしの知恵です。「暮らしの知恵の受発信で生活を豊かにする」住民ディレクターという生き方も今の時代に問われています。


 福島県南相馬市に昨日までの二日間行ってきました。福島第一原発から半径20km以内の警戒区域、さらに30km以内の計画的避難区域があり、今なお福島第一原発による大変多くの課題を抱えておられます。

 震災前の人口が71,500人、震災を経て現在は市街避難者が約15,200人、転出や死亡者が約9,700人ということです。60歳以上はほぼ80%の方が帰還されていますが40歳未満は50%を下回る世代もあり、かなり高齢化がすすんでいます。その南相馬市では市内の仮設住宅の生活が続いている方、一人暮らしを余儀なくされている方や帰還できない市外避難者など同じ市民がバラバラの状況にあり、生活に欠かせない情報提供とコミュニケーションを復活させるためにエリア放送局みなみそうまチャンネルを運営しておられます。市街の方にはホームページから視聴できるようにされています。

 さらに災害FMや防災無線、フォトフレーム、勿論ホームページもあり市の広報紙も含めこれらのメディアを総合的に効率よく運営することが課題です。わたしの印象を一言でいいますとやはり総合プロデューサーの不在です。そして多様な情報提供、情報発信を日常化する市民の参画をどうするかです。

 二日間市内全域を視察し、現状報告をじっくりお聞きし、夜も深夜に到るまで関係するスタッフと交流を深め、二日目にわたしから解決策の提案をしました。一昨日南相馬市に入った時の空気と昨日送り出していただいた時の空気ではガラリと変わって皆さんに明るい笑顔を見いだしましたので今回の訪問の目的は達成できたと感じます。

 わたしとしては3・11直後から総務大臣懇談会のメンバーとして解決策の提案、プレゼンをやり、その後岩手県住田町で今日まで実践してきたことの延長線上にある復興支援策の方向性の正しさを確信しました。二日間、南相馬市に関わっておられるベンチャー企業の皆さんともかなり深い話し合いが出来ましたので事態を打開する動きにつながるようにどんどん動くことしかないこともあらためて強く感じました。

@写真は市庁舎に張られていたもの。杉並区とは姉妹都市という話は八百万人の高橋事務局長から聞いてましたが昨日帰る直前に見つけました。額縁の絵は有名な相馬野馬追の光景

 

 住田町の竹細工の名人小三郎さんのご自宅にスタッフみんなで訪問しお話を伺いました。竹細工の材料や技について、またこれまでのご苦労などをみなさんが次々と聞かれるのにまたはっきりと答えられる小三郎さんは88歳。

 東峰村もそうですが住田町のお年寄りもお元気な方が多い。共通するのはやはり生涯現役だということでしょう。竹細工だけではなく農業や草刈りなど普段の暮らしをそのままずっと毎日続けられていることが共通する健康の秘訣と感じます。しかも自分の資質を生かして竹細工をつくり続けておられます。

 普通の生活を淡々と生きる。難しく言えば中国の老荘思想のようなものですがその暮らしを生きているじいちゃんばあちゃんたち自身は老荘思想等必要なくごく普通に生きてることが学者さんからすれば老荘思想を体現しているといわれるだけでしょう。

 最後に役場の横澤さんが「これまででうれしかったことは?」と聞いたら「生きてることじゃなあ」とあっさりと。簡単に言葉にならないほど「淡々と生きる」小三郎さんのごつごつした指が器用に動くやさしい手ときょろっとしたきれいな目が印象的でした。


 岩手県住田町のケーブルテレビ番組「ねんぷにやっぺし」の企画会議、昨日は欠席者が多かったのですが会議はかなり充実していました。

 8月にこれまでの5集落の出演者、協力者が集まって大交流会を催しましたがその時の参加者の藤井さんが初登場でした。藤井さんから出る質問や疑問、意見が「ねんぷにやっぺし」を見ている町民の皆さんの声を代表するかのような内容のものばかりでした。「ねんぷにやっぺし」は「成果を慌てずじっくり着々と物事に取り組んでいこう」というような意味の方言です。

 で、例えば「一般のテレビ番組と違ってここで場面が変わって欲しいと思ってもずーっと長い話が続いている。頑張って見ないといけないので戸惑っている」「一般のテレビ番組のようにもっと画質を何とかできないのだろうか、どうしても一般番組よりも画質が落ちるので違和感がある」というような意味の発言が続きました。

 一つ目の質問の答えは「テレビが昭和28年にできてから60年間わたしたちは毎日テレビを見てきて今のテレビ制作者=都会の目線に慣らされてきている」「住田町には住田町の暮らしのリズムがあったのに全て東京のリズムで細かく早く転換するカット編集に慣らされてきただけで本来の住田の町民がゆっくりとのんびりと暮らすリズムを『ねんぷにやっぺし』でとり戻す作業をしている。それには1年、3年、5年とかかるので『ねんぷにやっぺし』という気持ちをタイトルにしている」ということです。

 二つ目の質問には「町民全員で創る番組を目指している。画質をあげるということはプロでないと操作できない高価なカメラや高度な編集ソフトが求められる。すると番組づくりは普通の町民から離れてプロだけの作業になっていく。そうなると今やってるようにばあちゃんやじいちゃん、機械が苦手な奥様方が住田テレビに関わる機会があっという間に減っていく。だから敢えて画質が悪くても町民誰でもが簡単に操作できるカメラや編集機を使い続けている。何故ならこの住田テレビは町の活性化を図るために創ったテレビ局だからです。」

 同じことはずっと東峰村で話しています。すでに東峰村では3年経っていますが未だにこのような質問が続いています。逆にこのような質問があるからこそ村民、町民に地域活性化を目的としたテレビの存在意義をお伝えできる機会になっていくのです。すべて「ねんぷにやっぺし」です。

 平成8年に住民ディレクターを発想した時は「理解されるには20年ぐらいかかるだろうね」と山江村の松本佳久さんと話していたのです。


 空が動いています。前から空を見上げることが多いですがここ数年前から天空が大きく変化しているのをずっと感じています。一昨日は東峰村から阿蘇を経由して熊本市内に入ったばかりのあたりで直感的に太陽の沈む方面が何か動いていると感じました。雲はややうろこ雲のような感じできれいになりそうな空模様でした。反射的に西の空が良く見える田んぼの畦道に車を乗り入れてしばらくいました。渋滞しはじめた国道のほうを見たりしながらいると西の空の大きな雲が幕のようになってその真下に太陽がしっかりと存在を示すようにメラメラと輝いていました。
 ぼんやりと眺めているだけでやさしい気持ちになります。そしてそのまま優雅で緩やかな時を迎え、しばらくそのぬくもりに抱かれていました。30分近くあったと感じるその瞬間瞬間の変化を感じたときにシャッターを押しました。Facebookにアップしたのはそのまだ一部ですが連続する写真を眺めているととても癒される光景の集まりでした。こういうとき動画からはそれほどの感じが伝わってこないのです。
 村の生活はいつも天空と共にあるので瞬間瞬間の変化を楽しませてもらっていますが移動の多い暮らしぶりがさらなる楽しみを与えてくれます。あの瞬間がFacebookやLINEに乗ってそこにいなかった他者に伝わっていく感じは頭の中のことを伝えるよりは遥かに豊かで清清しく、また奥深く広い内面世界の創造につながっていきます。
 

 東峰テレビがまもなく10月末で満3年になります。随分色々なことを企画し、実践してきました。ちょっと前にも書きましたが今年はホームページがやっと少しずつカッコがついてきました。今日見たらなかなかいい配置になってきました。

 トップ動画は昔ながらの独特のリズムと歌詞で珍しい竹地区の初盆踊りが追体験してもらえます。右に来ると東峰にゅーすスペシャル放送中の東峰学園運動会の女子中学生のカウガールズ姿が新鮮です。その下ではスポニチの記者さんから取材を受ける少年野球チーム片岡くんと記者さんのツーショットがなかなかいい感じです。第95回村民ひろばです。

 真ん中の下には全員映ってませんが村民スタッフのメンバー紹介、左側には毎日の番組表が並んでいます。クリックすると中身がわかるのですからこれも長い時間をかけてやっと実働が普通にできるようになりました。人が仲良く暮らして子どもたちが活き活きしている東峰村を一目で知ってもらうにはホームページだとずっと考えていました。情報が満載の知識表示型のホームページではなくていつ来てもいろんな人が出入りして賑やかで人の表情で村の幸せ度がわかるものがこの村に最も適していると考えてきました。

 最近だんだんと若い世代も動いてきました。若い息吹を潰すこと無くおおらかに成長させてあげられるような東峰村を一緒に村民の皆さんと目指します。

@とうほうTVホームページ http://www.tohotv.jp


 東峰村の旧村のひとつ宝珠山地区に残る二人の木こりさんのうちの一人、和田一喜さんに一昨日村民ひろばスタジオに出てもらい山の作業やこれからの山がいよいよ手が入りにくい状況になっていく話をゆっくりと伺いました。一喜さんとは1年半ほど前に庚申さんという伝統の祭りで屋椎地区にお邪魔したときに初めて一緒に呑んだことがあり、すでに気安いお仲間の一人でした。木こりの作業は東峰テレビの新人の東くんに付き合ってもらって撮影してきました。
 
 急傾斜の山中をチェンソーや燃料を抱えて入っていきます。作業も重労働ですが一喜さんが69歳、一緒に作業する先輩井上さんを一喜さんは師匠と呼びますが一喜さんよりひとつ上の70歳です。直径数メートルもある木を切り倒しどちらに倒れるか見誤らずに確実に作業をすすめるのは映像で見るに比べるとはるか過酷な仕事だろうと推察しますが、一喜さんの持ち前の愛嬌ある笑顔がそう感じさせません。一喜さんは実は木こりのキャリアはまだ6年ですが自称「山の匠」と話しています。
 
 69歳の割には童顔で笑顔が多いので「たいがいきつい」といってる話も意外と周辺には伝わってないと感じます。本人はかなり本気で来年春を最後にやめようと考えておられます。しかし、もう一人の師匠を一人残すわけにもいかず迷うところだそうです。しかし、かといって生命賭けの仕事をこれ以上続けられるか、大きな深刻な課題です。万一、一喜さんがやめたら山を守るのは師匠一人になるのですがそうなるとこれまでの数倍も作業効率が落ちるのは必至です。認識はしてましたが実際に目の前にこういう形で東峰村にも高齢化のシビアな面の課題がじわりじわりとボデーブローのように効いてきています。

 平成8年春からスタートした住民ディレクター育成事業は山の木を育てるように慌てずにじっくりと取り組んできました。地域活性化のためにテレビをはじめとするメディアを使う能力を養うことが目的でした。メディアはいずれ多様で使いやすく、低コストになることを想定しての事業興しでした。平成8年春にすぐはじめたのが「使えるTV」という地域活動をする人達(住民ディレクター)のための使える番組づくりです。

 この場で実戦的に住民ディレクター育成もやってきました。そして最も大事にしてきたのがマスメディアとの棲み分けです。番組づくりを目的とするマスメディアのディレクターとは全く違って番組づくりのプロセスを数多く経験することで地域づくりに役立つ企画力を養うことが目的です。ですからマスメディアと組んでも決して番組づくりの専門家にはならない、番組づくりは地域を創るための道具でありオマケであるという考えを一貫してきました。

 それから15年、そろそろかな?と最近考えているのが番組づくりをひとつの目的にすることです。多様な地域活性化策のひとつの目的です。その気で勘定すれば全国に何千といる住民ディレクター経験者や地域づくりに邁進している住民のネットワークで制作する番組をそろそろ目的としていいほどに足腰を鍛えました。番組づくりのプロに怯まずに連携できる底力がついてきています。その感触は民放で13年間あらゆる番組を制作した経験から直観的にわかります。今までも自分の直観に従ってプロとの正面からの連携を避けてきたのです。封印を解く時が来ました。

 と、いうわけで現在住んでいる東峰村の村民スタッフを核に熊本のNPO法人くまもと未来、全国組織の(社)八百万人などの恊働に加えてメディアのプロの参加を含めたアマ・プロ融合の新しいネットワークメディアの発信事業の創出をはじめます。基礎体力づくりに15年余りをかけてきました。岸本プロデュースの真髄は120歳人生の折り返し点でやっとスタートラインにつきます。

@写真はJCNくまもとのスタジオ見学した東峰テレビ村民スタッフ 


 とうほうTVホームページの活用が遅れていますが制作スタッフが勉強を重ねてきたので少しずつ間隔を短くして更新をかけるようにします。現在のトップ項目は竹地区のひろつぐくんと岸本で福岡・熊本研修について紹介しています。たまたまになりますがひろつぐくんの地元、竹地区の初盆踊りというのは江戸時代の末期から今に伝わっていると言われている非常に貴重な盆踊りです。歌詞も当時の時代を思わせますし、リズムが独特で「あーーあ、なるほど、日本人はこうやって踊っていたんだなあー」という感じです。今年は千葉から移り住んできた星さんが取材してすっかり「竹World」に嵌ってきました。まもなくトップ項目でお伝えします。