先週4月27(日)の「官兵衛で國創り」の終わりに、信長に仕える官兵衛の同志であった荒木村重が相次ぐ失策により心がいよいよ揺れ動く様が描かれました。元々全く用意してなかったのですが「これは村重に出演してもらうしかない。」と感じ、村重の地元である伊丹市には具体的にあては無かったのですが「えいやっ」とばかりに次回予告で「荒木村重の地元伊丹では?」と書いてしまいました。

 そして東京企画会議から帰り、昨日あたりからそろそろ誰かを探さないと、と、スタートしました。たまたま思い出した総務省地域情報化アドバイザーで高校の先生の畑井さんが確か、伊丹市の商店街で何やらやっていた・・、ということで連絡先を調べ、早速電話です!!。

 「どーもどーもお久しぶりです。実はコチラの東峰村では軍師官兵衛のすぐ直後に「官兵衛で國創り」をやっていて・・・」「はあ?、こちら伊丹市も官兵衛で盛り上がってますよ」「で、3日後なんですが出演をお願いしたくて・・・、いや、パソコンがあれば・・・、いや一人でいいし・・、いや専門家より地域の住民で・・・、いや、・・・」「わたし、明後日に大事な創立記念日の行事がありまして・・」「そうですかあ?大変ですね。ところで当日は夜の・・・」「実はわたしあまり村重さんの事は詳しくなく・・・」「大丈夫です、地元の声が今どんな感じか?わかれば有り難いなあーぐらいな・・・」「ほんまに?」ということで少々強引でしたが畑井先生に引き受けていただきました。

 ところが昨日になってICT業界では各地で活躍している畑井さんもSkypeやGoogle+、Facetimeなどは使ったことが無くて「全然わからへん、いつも誰かにしてもらってて・・・」ということがわかりました。そこで我が八百万人広報チームの出番かな?と思いきや、あっという間に伊丹市のまちづくり情報プラザの仲野さんを摑まえてくださってOKとなりました。

 ところがここでまた新展開!!この仲野さん、相当関わっていられる方で出るわ出るわ!!次々と荒木村重の関連の動きをご存知、しかもご自分も相当関わっておられる。で、話はトントン拍子にすすんで村重パート2、さらにパート3企画があれよあれよという間に見えてきました。

 佐用町、姫路市、伊丹市と「官兵衛で國創り」は遂に播磨攻めの中心に入って参りました。畑井さん、仲野さん、さらに・・・、というわけで「官兵衛で國創り」はまさにネット時代だからこそできる出会いと打ち合わせ、そして放送態勢を着々と築いています。

「官兵衛で國創り」5/4(日)午後8時45分から 番組視聴と関連情報はとうほうTVホームページで。 


 今年の1月18日から熊本日々新聞社の連載小説で「リーチ先生」が続いています。と、いうのを村民スタッフで大工のときんちゃん(辻富貴男さん)から聞いていました。ときんちゃんから記事をもらって読んでみると原田マハさんという作家の小説で東峰村の小石原焼に深く関わる英国人の陶芸家バーバード・リーチさんが主人公です。

 バーナード・リーチは柳宗悦、濱田庄司ら共に昭和初期の民藝運動を支えた英国人陶芸家です。日本各地を歩く中で「小石原焼の窯元が移り住んで興した大分県の小鹿田焼(おんたやき)」を見いだし、柳宗悦らと小石原も訪れました。小石原焼は柳宗悦を中心とする民藝運動に取り上げられる事によって有名になり民陶の里として高度経済成長期に乗り一気に時代を駆け上がりました。

 さらに柳に師事し後に分派する実業家三宅忠一(すき焼き、しゃぶしゃぶで知られるスエヒロの創業主)が小石原焼の発祥の地、皿山の興隆の大きな原動力になりました。さて、この小石原焼の民陶むら祭が5月3日から5日まで今年も開催されます。正直言って「官兵衛で國創り」と「民陶むら祭」の接点を模索していた数日です。

 高取八山が官兵衛、長政父子に朝鮮から連れて来られ開いた高取焼。そして官兵衛の孫、三代光之公が招いた伊万里の陶工たちと高取焼子孫の焼き物の融合にはじまる中野焼が小石原焼となります。焼き物の歴史は官兵衛に通じるのですが、これには大河ドラマに等しいほどの民陶の歴史ドラマがあるのです。しかし、昨日の深夜から今朝の未明にやっと抜け出しました。

 熊本の新聞小説「リーチ先生」を知り、再び小石原焼のルーツに到りました。しかもこのルーツを解いていけたのは大工のときんちゃんのおかげです。村民スタッフの力は凄いのです。

*このブログはNHK大河ドラマ追走番組「官兵衛で國創り」と連動しています。
*次回第17回「官兵衛で國創り」は~官兵衛と民陶むら祭の接点~ をお送りします。

*「官兵衛で國創り」の視聴、関連情報はとうほうTVホームページ
*「官兵衛で國創り」FBページ


 一度信長について書いておかないといけないという気持ちがずっとありました。「軍師官兵衛」は今、信長という破格のスケールで生きた人間の話とも読めます。

 一般的には殺戮を繰り返し、血も涙も無い非情の武将ととられる一方で戦国の革命児としては誰もが認めるところです。天下布武を宣言しました。天下布武というと「武」をもって天下を治めるというイメージが勝手に出てきますが、言葉を調べると「七徳の武」をもって天下を治めるということらしく信長が吉法師(きちほうし)と呼ばれた子どもの頃の養育係だった沢言(たくげん)宗恩という臨済宗の僧が信長に進言したものらしいのです。

 Googleで調べると 七徳の武の「武」は暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにするの七つを意味し、それらを全て兼ね備えたものが天下を治めるに相応しいという意味です。中国の周時代を描いた春秋左氏伝が基になっている。(Yahoo知恵袋、Wikipediaによる)ということで、そうならば信長が周囲の理解を求めずとも一人孤独な戦いをしている姿がぐっと浮かびます。生来の自由人、革命児、創造者という資質が既存の権威や守られるだけの伝統を次々と破壊し、後々秀吉が天下の名城大阪城を築くことになる上町台地を手に入れることが天下布武の大きな課題であったこともわかります。

 石山本願寺との執拗な戦いが何故続いたのか?疑問が解けます。しかも毛利水軍がその背景にいたということもあり、壮絶な天下統一への戦いが繰り広げられたのでしょう。これも当時の信長が見据えていた一つの課題に過ぎず、恐らく何百何千という「課題のタスク」を秀吉や柴田勝家、明智光秀などの優秀な武将に託し解決していったのでしょう。統一の目的は戦国の乱世を終わらせるため。度々秀吉や官兵衛が言い、竹中半兵衛が官兵衛を諌める時に使う信長家臣団の「大義」です。

 信長はこの大義を理解し、大義を実現するために一途に働く家臣を大事にします。軍師官兵衛でも家臣一人一人に対する時の表情が見事に描かれていると感じます。理解しなくても天下統一に役立つものは登用する。しかし、役立たなくなったら・・・、それは摂津國を任され本願寺と泥沼の戦いを続けていた荒木村重という武将に起こる悲劇に描かれていきます。

 信長の人間としてのサイズは計り知れないのでわたしが何と言っても届きませんが、一つの言葉で表現すると「意志」の人と感じます。意志はどこから来るか?これは堂々巡りに陥りますのでやめますが「天下布武」でしょう。「新しい時代の平和」を誰よりも望んだのが革命児だったということをよく理解していたのが家臣団の、ある意味で末端に位置し、播磨を治め、筑前に入ることになった官兵衛だったのでしょう。信長の「大義」を実現する強い意志をもった人間の一人として。

 信長が最初に官兵衛を呼び寄せて謁見した時に名刀「へしきり長谷部」を与えたことは瞬時に人物を見抜き、先の先を読んだ信長の官兵衛評として「なるほど」とうなづけるものでした。「軍師官兵衛」いよいよ信長の一挙手一投足に注目です。

☆NHK大河ドラマ追走番組「官兵衛で國創り」関連サイト とうほうTVホームページ 「官兵衛で國創り」FBページ

*写真はNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」ポスターより。

 


 日本列島を18年かけて様々な地域を歩くだけでなく住みながら一緒に地域づくりをしてきた実践人生で常にど真ん中にある課題はいつも「誰がやる?」です。丁寧に言えば「誰が最後まで責任をもってやり切るか?」です。ただし目的が明確でないとやるだけでは意味がありません。

 そこから派生するもうひとつの課題は「わたしがやる」と手を挙げた人が疎外されていくことでしょう。それには手を挙げた人の問題もあります(目的が違う場合など)。が、逆もあります。こういう時に今「軍師官兵衛」は本当に勉強になります。前回でしたか?秀吉に惚れ込んだ官兵衛が秀吉に気に入られようとするばかりに本来の目的、戦国の世で言うと「大義」を見失いかけます。播磨をひとつにするために自分の殿、小寺政職が秀吉に会うことが求められますが、殿は言うことを聞きません。

 殿に翻弄され、お家の一大事、と考えあぐねているところに、秀吉から義兄弟の証しとしてもらった大切な誓紙(秀吉が官兵衛に渡した義兄弟宣言書類)を火にくべながら「大義は何か?」と厳しく詰め寄る竹中半兵衛。慌てて誓紙を奪い返す官兵衛。この瞬間の態度に官兵衛が大義を忘れ、秀吉の気に入ろうとすることばかりに心を奪われていることが露(あらわ)になります。

 大義は「戦国の世を終わらせること」、半兵衛は淡々と語ります。秀吉の家来になったのもその実現の道が最も近いからと言います。そして、半兵衛の𠮟咤激励に目が覚め、殿が度肝を抜く様な解決策を考え出し、官兵衛は秀吉と殿の出会いを演出します。これには秀吉という「稀代の役者」と官兵衛という「稀代の軍師」がタッグマッチを組むという稀代のコンビの信頼に基づいた関係があります。実質的な義兄弟です。いや、誓紙も不要な兄弟です。秀吉もまた「大義は戦国の世を終わらせること」と百姓からのしあがって来て考えはじめた人間です。信長の背中を見続けたのです。そして、「軍師官兵衛」黒田官兵衛がドラマの中でやっと誕生します。

 企業、役所、NPO、任意団体、・・・どの組織でも同じです。「大義は何か?」自己の都合や利益、名声、世間体などに目を奪われていれば大義はなし得ません。

「我、人に媚びず 富貴を望まず」

官兵衛の人生を見事に表現する名言です。わたしが「軍師官兵衛」を追走する「官兵衛で國創り」を企画し、実践しているのはこの名言の実践であり実戦を目指すからです。

全国の大義を成そうとする皆さんと共に。 


 岡田クンもビックリ!?福岡発 おらが村の官兵衛追っかけ番組で村おこし! というタイトルの記事が2ページに渡って「女性自身」に掲載されています。わたしもビックリ!!です。

 そろそろ全国紙が来ても良い頃だなとは永年の勘が働いていましたが「女性自身」は想定外でした。しかも僭越ながら記事はかなりしっかりしたものです。要するにわたしたちがやっていることをそのまま書いてもらっています。普通なら女性雑誌で岡田くんと結びつけるとちょっと田舎をくすぐったり、面白可笑しく書くパターンが想像されます。しかし、さにあらず!!本質的な記事を堂々とあの「女性自身」で書いていただきました。

 そのセンスは「凄いなあー」とおもうのと「なるほどね」ともおもいます。記者さんに訪問を受けた最初の日に1時間ぐらいのつもりで来られたと思いますが何と4時間近く話していました。こちらも取材者が本質的な質問や興味を持っていただくのがわかるといくらでも話しは出て来るのです。まさにこんこんと水が湧き出るように。

 そして生放送当日の記者さんの姿勢も素晴らしかったのです。取材終了後、さらに「女性自身」発売後、ずっとその記者さんの一貫した取材姿勢を感じます。皆さんぜひご一読ください。この「女性自身」はわたしのこれまでの活動を官兵衛と東峰村で凝縮して表現してもらったものと感じています。このような記事が載る「女性自身」は新たなマーケットを開拓するでしょう。そういう意味で今回の記者さんは「女性自身」の軍師だったかも知れませんね。
(掲載は176-177ページ)

とうほうTVホームページ

Facebookページ「官兵衛で國創り」

Facebook 岸本晃


 

岸本Facebookから。
《最新News》RKB担当ディレクターからコメントが入りました!!(勿論真ん中の人)
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ディレクター担当した森田と申します。本日午後2時10分くらいから放送いたします。スタッフ皆様の活躍及び番組の魅力をご紹介しています。是非皆様ご覧いただき、「今日感テレビ」の視聴率アップにご貢献くださいませ。


 村民スタッフがどんどん活躍してくれています。東峰テレビ開局からやっと2年3ヶ月ほど、最近の活躍ぶりはとても頼もしい限りです。

 官兵衛の命日は「ときんちゃん」こと元大工の辻富貴男さんといつもの京子さんがカメラマン、リポーターとして参加。県知事や官兵衛の黒田第16代当主、元衆議院議員の山崎拓会長、崇福寺住職などなど並みいるお偉方の中に交じってマスコミ各社に物怖じもせず堂々の取材活動でした。特に法要が終わってから出席された小川知事、イベント終了後に帰ろうとされているその時、わが京子さんがしずしずと音も立てずににじり寄り知事に突撃!!

 まずは名刺交換、と、それはまさに 完全に独占インタビュー状態でした。一瞬戸惑っていた知事、しかしそこで起こったことは??! 明日3月23日(日)午後8時45分から「官兵衛で國創り」生放送でそのハプニングを!!それを追っかけたカメラマンで大工のときんちゃんは??

明日の日曜日午後8時45分から「官兵衛で國創り」生放送にて!!

放送は とうほうTVホームページから

 


 昨日、後藤又兵衛のエピソードを求めて嘉麻市を訪問しました。嘉麻市は元々山田市と田川郡3つの町が合併してできた市ですが、黒田二十四騎の中でもさらに黒田八虎といわれる後藤又兵衛と母里太兵衛が時代を継いで治めていました。

 後藤又兵衛は幼い時にすでに両親を失い、官兵衛、光に育てられます。官兵衛の長子 松寿丸(後の長政)と兄弟のように暮らしますが主従の関係は厳しいのは当然です。軍師官兵衛でも常に又兵衛は松寿丸に反発してるかのように描かれています。実際、官兵衛が亡くなると二人の仲はいよいよ悪くなり又兵衛は遂には官兵衛に与えられていた大隈城を出奔してしまいます。

 出て行く前は酒を吞みに東峰村の松尾城をよく訪ね、又兵衛が渡った橋は「後藤橋」と親しまれました。その又兵衛の嘉麻市での行状は如何に?ということで昨日嘉麻市役所のケーブルテレビに取材に行きました。又兵衛の話を伺うためにわたしたちはあるお店にお邪魔しました。大正時代の創業で今でも続くそのお店には又兵衛の名前が刻印された饅頭「又兵衛饅頭」がありました。

 すでに92歳のお母さんと息子さんのお嫁さんが毎日元気に饅頭づくりをされています。そしてお嫁さんから又兵衛が好きだった義父の又兵衛話を伺いました。明日の又兵衛物語?! は「後藤橋」と「又兵衛饅頭」です。

「官兵衛で國創り」生放送は 3月9日(日)午後8時45分からとうほうTVで http://www.ustream.tv/channel/tohotv


 「軍師官兵衛」は地域づくりにとっては見事な教材になってきています。「軍師官兵衛」でわたしが密かに注目しているのは「櫛橋左京進」の存在です。

 官兵衛の妻「光(てる)」の兄で官兵衛と共に仕える御着城主小寺政職の重臣です。左京進は官兵衛を「正統の小寺家」とは違い「よそ者」だとして最初から反発します。それにも関わらず官兵衛が次々と成果を上げていきますのでますます苛立ち、自分や一族をも含む小寺家の将来を結果的に危うくする毛利と通じます。

 我々は信長の天下となる歴史の結果を知っていますので官兵衛に味方しますが、その当時は信長か?毛利か?全員が迷っています。そこへ小寺家全てのことを考えて信長を選び、竹中半兵衛という稀代の軍師とも出会い、競っていく官兵衛。片や小寺家の中だけで競い、播磨のみならず全国の動きがあっという間に一族の運命を左右するその時に状況が見えていない左京進、左京進にのってしまう小寺家城主。いずれ時が来れば運命は決まります。

 この「左京進」は全国どの地域にもいますし、真に全体を何とかしようとする人間には構ってられないほど一瞬一瞬が大事なわけですが、どうしても絡み付いてきます。自分の名誉?プライド?利益?生き残り?のため。しかし、結局はその動きは自分をも滅ぼすことになっていくわけですが、大事な時には本人には見えないので滅亡を突っ走っていきます。全国様々な土地でこれまでに地域づくりや活性化をやってきましたが「軍師官兵衛」がなぜ?國創り=地域づくりにつながるのか?これはもうこれまでの実戦と成果と、これからの想像力にかかっているとしか言えません。

 官兵衛としては「左京進」と共に滅ぶわけにはいかないのです。家族を家臣を、そして小寺家を守るための決断をし続けるわけですから。「軍師官兵衛」はまちづくりに取り組むわたしにとって最高の教科書になってると9回見て感じています。何よりも私自身が毎回官兵衛とそのお仲間、勿論、信長、秀吉にも学び、その放送の直後に「官兵衛で國創り」という実戦をやらせてもらっています。

 時代は人の暮らしを映す鏡です。後悔は先に立ちませんから瞬間瞬間が大切です。官兵衛にとっては「左京進」も小寺家の一人、しかも妻「光」の兄です、官兵衛の心境や如何?左京進が「わかる」ためには痛い目にあわなければ仕方がないですが、戦国の世は明日は死が待つ身です。

 官兵衛の突破力の源は真です。真は人を貫きます。素手で敵の城主に会いに行く力は真の気持ちのみで向かうからです。戦国の世によこしまな動機から生まれた小手先の悪知恵は出る幕はありません。行動の無い不満者「左京進」には建設的な未来がないのです。