ハロウィン肖像画Ⅳ−39 「幸せへの旅 」ゆうこりん(静岡県) | New 天の邪鬼日記

New 天の邪鬼日記

小説家、画家、ミュージシャンとして活躍するAKIRAの言葉が、君の人生を変える。



人の一生は幸せを手にいれるための旅である。

しかしそのためには数々の「許し」という難問が襲いかかってくる。
多くを失い、ボロボロに傷つき、仲間に支えられまた歩き出す。
そして他者を許し、世界を許し、最後に自分を許した瞬間、
「永遠の幸せ」が手にはいる。
「永遠の幸せ」とは、「過去も今も未来も、命ある限り自分は幸せだった」という気づきである。

ゆうこりん(宮沢優子)は20代でアメリカを旅し、レンタカーでグランドキャニオンへ行き、テントで眠った。
自分でお弁当を作理、8時間以上歩いて壮大なコロラドリバーに息を呑む。
この絵はゆうこりんの旅路を描いた。
モニュメントバレーへつづくルート66の一本道に、太陽が沈み始め、赤い岩肌と鮮やかな青の空が美しいコントラストに映える。
手前の荒野は繊細な点描で描かれている。

若き日のゆうこりんはギターを背負い、デニムのダンガリーシャツ、トレードマークであるストライプのTシャツ、赤いホットパンツ、鹿革のインディアンバッグという姿である。
イーグルのネックレスは18歳のオレにインディアンのことを教えてくれた「原宿ゴローズ」高橋吾郎氏の遺作だ。
ゆうこりんは親指を立て、ダンボールに書いた目的地は「To The Happiness」(幸せへ)だ。
画面右下には今までで最大のAKIRAサイン、太陽と月のカチーナ(ホピ族の精霊)が手をつなぎ、踊りながらゆうこりんの人生を祝福にやってくる。
太陽のカチーナは、ファーザーサン、ホピ語では「Tawa」「Dawa」と呼ばれ、世界の創造神である。月のカチーナはOlolo(耳の大きい)などと呼ばれる。

ゆうこりんのハロウィンメイクは、
ひたいのスパイダー:ホピの伝説によると、蜘蛛は赤土と自分の出す糸を混ぜ合わせて人間を作った。
創造性、独創性のシンボル。
複雑な巣を地道にコツコツ紡ぎ完成させる姿から努力、忍耐力、知性も象徴する。
ほほのスワティカ:太陽と幸運のモチーフ。
4つのLからスピリチュアル解釈では、Love(愛)LIfe(命、人生)Luck(幸運)Light(光)。
メディスンホイール(聖なる輪)を象徴し、東西南北、天と地、調和を表す。
右回転の卍は太陽、逆卍は地球の自転を表す。
寺やナチスだけでなく、「ケルト十字」や薩摩の島津氏の家紋も「太陽十字」。メソポタミアのアッシュール神など、古代から世界中で使われるマークだ。

あごのマン・イン・メイズ:メイズは「迷路」の意味で、あなたを迷ませた同じ力が正しい道につれもどしてくれる。迷路を経験したあなたはさらに強く賢くなっているという教えである。

さて、大河ドラマのようなゆうこりん自筆のライフストーリーを紹介しよう。



【1968年10月13日】 石川県金沢市で長女として出生。健康ですくすく育っていたが生後10か月頃はしかに罹る。医者のあせもですの誤診で危うく命の危機が訪れたかもしれないが、同居中の母方祖母の判断で難を逃れる。
誕生のお祝いに父方祖父が買ってくれたステレオで、童謡や唱歌を沢山聴かせてくれたと。私の音楽のルーツはここにあります。

【3歳 幼稚園年少】 友人の姉が弾いているピアノに憧れ、ピアノを習い始め、中学3年生までレッスンを受ける。
その後は弾きたいときに弾きたい曲を弾くという感じで、気分転換で引き続けている。

【小学生時代】 今からは想像できないが、身体が小さかった(背の順で前から3~4番目)が、根っからの負けず嫌い。特に運動は誰にも負けたくないという気持ちがとても強く、なんでも1番じゃないと(スポーツに限る)気が済まない。そのためには努力を惜しまない。
また正義感が強くずるいことや間違ったことを許せず、よく男女問わずケンカしていた。家では高学歴な両親は小さいころからしつけや勉強(学校の勉強は嫌いだった)に厳しく、良く怒られ、叩かれたた。怒られると裸足で家からつまみ出されることが多かった。
愛知県の知立市(田舎の)団地住まいで、よその人が階段を通るたびに恥ずかしい思いをしていて、いつもそこから逃げ出したかった。でも核家族(小学3年生から6年生まで父は単身赴任)だったことで近くに逃げる場所は無く、鍵を開けてもらえるまでいたたまれない気持ちと、なんでいつも親の言うことがきけないんだろうかと自分を責めてばかりいた。
3歳下の弟は私の行動を見て上手に起こられない処世術を身に着けていたようで、怒られたり叩かれたりすることは少なかった。
友達は沢山いる人が素晴らしいという母の考えを信じており、人見知りで友達の少ない自分は恥ずかしいと感じていた。
だから学校で寂しい思いや仲間外れになっていても話すことは出来ず、いつも自分が悪いと思い、クラスでひとりぼっちになっていても平気なふりをしてごまかしていた。

【中学生時代】友人の勧めで入った陸上部。もともと走るのは早かったが、身体が小さいこともあり、さほどの成績ではなかった。
中1の11月で静岡市に転校した際は、同級生から「お前本当に陸上部かよ!!」と言われるほど、どうってことは無かった。
元々人の輪に入っていくのが苦手だったのに、思春期真っ只中での転校はとてもきつかった。
中2で部活内でいじめにあう。誰も口を聞いてくれない、無視される。
そんな中でも黙々と練習をした。部活を休む選択肢は持っていなかった。
その甲斐あって中学3年生の時は100メートルハードルで県で1番となる。
東海4県で3位、全国大会にも2度出場することとなり、自信を取り戻していった。
勉強は相変わらず好きではなかったが、そこそこの成績で高校へ進学する。

【高校生時代】希望校に進学したが、春休みから陸上部への勧誘があり練習に参加することとなる。(本当は団体競技のバレー部に入りたかった)結局そのまま陸上部に入部することとなる。
勉強は1年生の時点でつまずきついていけなくなる。出来ないことが恥ずかしくて親にも誰にも言えず、ほとんどあきらめの境地であったが、常に平気なふりをしていた。
相変わらずクラスでお友達は出来ず、輪になってしゃべている女の子たちをうらやましい気持ちで眺めていた。
入れてと言って仮に入ったとしても、話題がない、話が続かないのでいられない。そんな風に誰とも交われない自分の事を恥ずかしいといつも思っていた。
高2の夏、県大会出場が決まったころ、ひどい倦怠感に襲われ走れなくなる。検査の結果、肝機能に異常があるため運動はドクターストップ、県大会出場を断念する。(今振り返ると鬱っぽかったような気もする)
この時大事件が起こる。県大会の競技場内で陸上部の顧問に殴られたのだ。理由は私がほかの学校の友人の荷物持ち(スタートで脱いだジャージなどをゴールへ運んで待っていく事、私が出られない分も頑張ってほしいそんな気持ちでやらせてもらった)をしたからだった。
各高校個人の順位に対して得点が与えられ、その合計で団体戦が争われている。そんな時にライバル校の応援をするとは何事だ!!という事だった。
このことが原因で部活も学校も辞めろと言われ本当にやめたいと考えたが、部活内の友人や担任の先生のお陰でとどまることが出来た。
謝罪に行きなさいと間をとり持ってくれた担任から言われ体育教官室に行くが、どうしても納得できない私はそこでとんでもないことを口にする。
『来年は伊藤さん(荷物を持ってあげたライバル校の友人)と一緒に絶対にインターハイに行きます』と啖呵を切ってきたのだ。
負けん気が強いものここまでくると凄すぎる。
高2で県大会出場は出来たが、翌年インターハイに出られる保証は何もなかった。そこまでの成績は出ていなかった。それでも悔しくて悔しくて絶対にインハイに出てやるーーーーーーと闘志を燃やすことになる。
練習も重ねたが、きっと運がよかったのもあるだろう、高校3年のシーズン県大会3位、東海大会4位でめでたくインターハイ出場権を獲得し、これで約束は果たした!と満足するのだった。
インターハイの帰りの新幹線内で、私を殴った顧問は「陸上で推薦してやるから大学に行かないか?」と言ってきたが、「看護学校に進学したいので結構です」と断る。
中学生の頃から決めていた。看護師になりたいと。(母方の祖母は看護師、父方の祖母は助産師、何か遺伝子に組み込まれているのかもしれない(笑))



【看護学校時代】勉強嫌いで成績も悪かったが、何とか補欠で入学できた看護学校。
入学させてもらえたことに感謝しながら、毎日学んだ。最初の1年は全寮制だったので上級生と同室。いろんなしきたりや規律を重んじる世界だったが、先輩にかわいがってもらいそれなりに楽しく過ごす。
勉強はみんな同じスタートラインに立ってると思うと頑張る気になった。
専門学校だったのでどこよりも実習の時間が多く大変だったが続けていく中で、産科での実習で出産に立ちあわせていただき、助産師になりたいと思う。
実習の合間に東京へ何校も受験し見事志望校に合格する。(助産学科はどこも募集人数が少ない、15名程度なのでどこの学校もすごい倍率になる)看護学校卒業後そのまま東京の助産学科に進学する。

【助産学科時代】親元を離れて初めての一人暮らし。それも東京での一人暮らしで、今までの真面目生活のタガが外れる。
その時付き合っていた彼(のちに1番目の夫となる)との距離が近くなったことが嬉しくて、たくさん遊んだ。
時々学校はずる休みしたが、実習だけは休まなかった。助産師になりたい動機が不純だ!と担当教員から言われたこともあったが(彼が東京にいたから進学したんだろう)、今は助産師になったことは間違っていなかったと胸を張って言える。この仕事が大好きだから。

【就職のため静岡へ戻る】社会人一年目は、地元静岡の総合病院。(出身看護学校の病院に戻った)白衣を着て仕事ができる喜びと学ぶことが多すぎて大変なこともあったが、若さとパワーが半端なかった。
年2回のボーナスは海外旅行に行くために使い、サイパン、マレーシア、タイ、韓国、ハワイ、アメリカなど近場だがエイビーロードとにらめっこして出かけた。
最後に行ったアメリカは11日間、行きと帰りのチケットだけ持って入国し、レンタカーでグランドキャニオンへ行きテント泊、翌日はお弁当作ってコロラド川が見えるところまで往復8時間以上歩いたのはよい思い出です。
体の大きなアメリカやヨーロッパの人たちに紛れて、華奢な日本人の女の子が二人、リュックを背負って亀のようにゆっくりゆっくり進む姿は今思い返しても笑えてきます。
その後も国立公園を回ってキャンプしながら見た景色は壮大で忘れられません。
旅先で初めてやったウィンドサーフィンにはまり、帰国後ウィンドの一式を購入し仕事前や休みににサーフィンしていたこともありました。
日焼け止めもお化粧もしていないから、おかげで真っ黒(笑)白衣が似合わない似合わない。
28歳で自分の勤めている病院で左卵巣嚢腫の摘出術を受けるが、腹腔内内出血を起こし再度手術となる。



【最初の結婚】仕事とプライベートを充実させながら、学生時代から付き合っていた彼と29歳で結婚。
周りではどんどん結婚していく、そして仕事にも行き詰まりを感じていて、その現実から逃げたい気持ちもあって、彼のお尻を叩いて結婚の話を進めた。
結納が終わって2か月後、長男を妊娠していることが分かり正直驚いた。
結婚する前に妊娠した自分が許せなくて悩んだこともあったが生む決心をして先に進んだ。結婚式の翌日(私が引っ越しをしている最中)転勤だから引っ越しを取りやめるよう夫から電話が入る。
東京での新居はもうすでに決めてあり、そこで夫は生活していたが、転勤が決まりわずか1か月間だけ東京で新婚生活をしたが転勤で再び静岡市へ戻る。
引っ越しして4か月後長男誕生。自分が生まれた病院で里帰り出産し、入院中にマタニティーブルーとなる。
その後は産後うつへ移行していく。産後うつは認知されておらず、家族からの理解も得られなかった。怠けているとか気も持ちようだとか言われ、実家に帰ってもじっくり休むことは出来なかった。
今思うと同居していた父方祖母(助産師だった人)だけは、理解してくれて守ろうとしてくれていたのに、その時の私は気付けなかったなあ。
自宅でも実家でも休める環境がないので、うつ状態はどんどんひどくなり、もう限界と感じた私は初めて心療内科に行く。
内服治療を勧められるが、母乳を辞める決心がつかなくて内服せずそのまま経過を見ることとなる。(ここからうつと長い付き合いが始まる。)体調は一向に変わらずむしろ悪くなる一方、ワンオペ育児は出産後から続いている。全身の関節痛、頭痛、イライラ感、不眠(夜が来るのが怖い、眠れないから、早く寝ないとまたすぐ授乳で子どもが起きてしまう。
子どもはかわいいのだけど、かわいいなあとゆとりをもって過ごせた日は無かったと思う。
いつも怒っていた(長男には本当に申し訳ないことをしたと思っている)そんな自分が嫌で何とかしたいと思っている時に出会ったのがプレイバックシアター(即興劇)だった。プレイバックをしている時だけは、子供の時のように無邪気に楽しい、嬉しいが溢れていてすぐにのめりこんだ。結局スクールオブプレイバックシアター日本校を卒業するまで勉強した。
こんなさ中に夫に二度も浮気される。
2回目は子どもを義理両親に預け、寝台特急に飛び乗り家出した。行く当てもないので数日で帰宅し、元の生活に戻った。
夫はその後転職、私も助産師学生の実習指導のお話を頂き仕事を始めるが、学内のトラブルに巻き込まれ鬱が悪化。始めて薬を飲んで治療することになり退職。
その後は薬を飲みながら健診業務のパートをして家計を助けた。そこから約4年治療し薬を手放すことが出来て、ようやく次男を授かる。
次男の妊娠が判明したと同時期に、夫が仕事していないことが判明。お給料はどんどん少なくなり生活できないほど苦しいなか次男出産。
次男出産後に夫が腰椎ヘルニアになり歩行困難となる。そしてどんどん生活は困窮していく。
出産後1年頑張ったが、精神的にも肉体的にも限界を迎え、実家の両親に相談し別居することとなる。
実家に戻ったが、元々両親との関係性が良くなかった、特に母とは共依存関係にありとても苦しかった(いわゆる毒母だった)から。母娘ケンカが絶えなくて安心できる場所とはならず、実家近くのマンションを借り、私の夜勤の日以外は子どもと3人で生活するようにした。
その後離婚。そして再婚。
(静岡に戻る)再婚後すぐ鬱になった。結婚式も新婚旅行も全てキャンセルした。
3回目の鬱が一番ひどくて、初めて死んでしまいたいと感じるくらい苦しかった。再び診療内科に通院し内服することとなる。
そのうち長男がそして次男が学校へ行けなくなる。長男はベットで寝たきりのような生活、次男は自らもう行きませんと宣言して行かないのだが、毎日言っていない自分を責め続けた。
そして私は鬱。夫以外の3人は1日中家にいた。どうすることもできないで毎日泣いていた頃、ぱんやnico1のマダムが 静岡市で開催されたAKIRAライブに誘ってくれた。
ライブでは最前列でAKIRA歌を浴びた。LIVE中ずっと泣いていた。
ここで聞いたお話や歌が、その後の私を変化させてくれた。
動け動け動け!!を実践し、初開催のAKIRA秘伝伝授合宿@長野に飛び込んだ。
もう行ける場所はどんどん出かけて行った。
その度に新しいAKIRA仲間と繋がり、仕事も再開し、人生が少しずつ拓けていった。
子どもたちの不登校を受け入れるまでに2年かかったが、とにかく自分で動き出すまで待つ、本人の意見を尊重する事貫いた。
そのために両親とは一時絶縁していた。でもこれは私が私を生きるために必要な試練だったと思う。絶縁したことで母が少しづつ変化していった。
過干渉を止め私の在り方を認めてくれるようになっていった。



そんな時に母(82歳)が交通事故にあった。2023年12月26日父と母の55回目の結婚記念日の日だった。
生命の危機が何度も訪れました。
AIKRAさんに出会った頃、私達母娘は共依存関係にあったので私は苦しくて仕方がありませんでした。
ですが子供たちの不登校がきっかけで、母と正面から向き合わされることとなり、一時は絶縁関係にありました。
もう自分に両親は存在しないと腹を括り、一切の連絡を絶ちました。
すると次第に母のほうが勝手に少しずつ変化してきたのです。正直なんの期待もしておりませんでした。
過干渉を少しずつ手放し、私の在り方を尊重するような態度になっていったのです。
こうしてゆっくりゆっくり関係性を正常化(本来あるべき母娘のカタチ)し、帰省することが苦痛ではなくなっていたそんな時の事故。
この世から母がいなくなってしまうと思うと不安な気持ちでいっぱいになりました。ようやく関係性が改善されやっと普通の母娘になれると感じていた時、本当にショックでした。

そして同時に父親のことがとてつもなく心配になりました。
実は父との関係もうまくいっていたわけではありません。
昭和の頑固爺で小さいころから話し合いを経験したことはありませんでした。いつも上から圧力をかけられて終わり。
それでも若いころは反抗して自分のやりたいことをやったりもしましたが、そうすると結構長い時間口をきいてもらえない状態となり、私の中では父は話の分からない人、自分勝手な人、話し合いのできない人、受け入れてもらえないという認識でした。

事故の当日病院の医師から直接私に電話がかかってきました。
「お父さんからお話聞いていますか?お母さんが交通事故に遭い、今大きな手術しました」と。
全く何も聞かされていなかったので、びっくりしすぎて何が起こているのか一瞬分からなくなりました。
母の事はもちろん心配でしたが、事故後一人きりで誰とも話さず病院に待機していた父を想うと、胸が苦しくなりました。どんなに不安だったことだろう…でも子供たちに心配かけまいとして、全て整うまでじっと自分一人の胸にしまっていたのだと気づきました。生まれて初めて父親の強さと愛おしさとを感じたかもしれません。

その後は母の事も父の事も無我夢中でサポートしました。毎日生存確認ね(笑)と言って、朝父に電話しました。会話なんてほとんどなかった父と娘ですが、何とか元気づけたくて電話すると「おお~生きとるよ!」と言います。
こんな軽い会話54年間したこと無かったなぁ。初めて心通う会話をしていたかもしれません。
また昼休みには毎日毎日母と顔を見ながら電話で話しました。両親とこんなに電話で話をするなんて考えられないことです。
でも必死でした。2人ともが元気で母の退院の日を迎えてほしい!!それだけ。
手術の度に帰省し医師からの説明は全て私が聞きました。
母の精神的な状態や不安、こうしてほしい要望も全て私から医師に伝え、受け入れて頂く事が出来たおかげで6回というとてつもない数の大きな手術を、母は乗り越えてくれたのだと思います。
一人暮らしとなった父の食事は、帰省するたびに沢山の作り置きを冷蔵庫に入れ、不足分は静岡で作って宅急便で送りました。(ありがたいことに、義理の妹も同じようにしてくれました。)両親とのこんなに密なやりとりを生きているうちにすることが出来るなんて考えても見なかった。

そしてこの激動の中、私はこんなことを考えるようになりました。母はわたしに何を教えようとしているのだろうか?
そこで気づいたのが【今を生きる】でした。
人間いつ別れが来るか分からない、自分の命もいつ終わりが来るのかわからない、いまこの一瞬を一生懸命に生きなければいけない!人間にはとてつもない生命力があるんだ!そんなメッセージだと感じました。
そして父からは、父親として家族を守る器の大きさと耐える強さを学びました。
母の事故がきっかけで、私の両親って凄い人なんだと初めてえ感じさせてもらえました。

2023年4月12日、母が115日間の長い長い入院生活を終え、なんと2本の杖歩行自分の足で歩いて退院することが出来ました。
母と色んな話をしたり、ギターに合わせて唱歌や童謡を一緒に歌ったり、楽しい時間を沢山過ごすことが出来て嬉しかったー。
両親と一緒にご飯を食べられる幸せ
父と母が向いあっていつもの様に会話しながらの食事はお互いに嬉しそうで、微笑ましく思いました。

両親への感謝と共に、もっともっと自分を生きていかなければ、自分の正直に生きていかなければという気持ちが強くなりました。
この気持ちは合宿仲間だった新潟のともえちゃんが亡くなったときにも強く感じていたことでした。でもいろんな理由をつけて一歩踏み出せずにいました。

私が経験してきたこと良いことも悪いことも全てが繋がって今ここに、私は私のままでいいのだ!と気づけました。
そんな私がこの先どんな道に進むのか、何が出来るのか?はっきりとしたことは何も決まっていません。でも55年間経験してきたことを総動員して誰かのお役に立てること、美味しく、楽しく、歌ったり音楽しながらやっていきたいと思っています。(以上ゆうこりん筆)



ゆうこりんの壮絶なドラマに感動し、この歌が降ってきた。

「セートゥ・ムスタラ」(超え難きを超えよ)
サンスクリット語のマントラ解説
http://sanskrit-vocabulary.blogspot.com/2015/09/setusama.html
「セートゥ(सेतु [setu])」の意味は「橋、境界、障害物、束縛するもの」
「タラ(तर [tara])」は、「超える、泳ぐ」「超えよ」という命令形。

「セートゥ・ムスタラ」(超え難きを超えよ)KeyーEm
1 Em Am Em F#7 B7 Em
父は恐るべき暴君だ 母は憎むべき支配者だ
わたしは家族を許せない ああもう死んでほしい

わたしはあんたのオモチャじゃない わたしはあんたの家畜じゃない
二度と顔なんか見たくない 何年会ってないだろう?
E7 Am D7 G B7 Em F#7 B7
突然母が病に倒れ 別人のように弱り果ててた
父が必死で介護している なぜだか涙が流れてた
Em C D7 G B7 Em C B7 Em B7
セートゥ・ムスタラ 耐え難き困難に 立ち向かう無謀さを与えたまえ
セートゥ・ムスタラ 超え難き境界を 超える一歩踏み出せる愛をください
2
うろたえる父をなぐさめて 死にそうな母を励ました
家族がひとつになったとき 長い長い呪縛がとけた

「こんなわたしになったのは 親のせいだ」とうらんでた
「こんなわたしになれたのは 親のおかげ」に変わった

親を許せたその瞬間に わたし自身を許せるなんて
過去は一瞬で書き換えられる 感謝の涙が止まらない

セートゥ・ムスタラ 耐え難き困難に 立ち向かう無謀さを与えたまえ
セートゥ・ムスタラ 超え難き境界を 超える一歩踏み出せる愛をください
3
誰もみな未熟な人間 誰もみな必死で生きてる
許し合う勇気 弱さの絆 へだてるちがいを超えてゆけ

セートゥ・ムスタラ 耐え難き困難に 立ち向かう無謀さを与えたまえ
セートゥ・ムスタラ 超え難き境界を 超える一歩踏み出せる愛をください

ハロウィン肖像画Ⅳ−39 「to the happiness 」ゆうこりんF15号。652×530mm

★ハロウイン絵画Ⅴ 1名募集!

2024年7、8月タイで描いてくるハロウィン肖像画限定5名に、

甲斐美香(神奈川県)、宇野紀和子(岐阜県)、むつみ(オランダ)、えみ(北海道)が決定しました!

4名が決まったので、空席はあと1名です。

くわしくはこちらのブログを参照してください。



★15th ネアリカフェスのメモリアル動画(1時間)が完成しました。

さとうみつろうさんとの対談とコラボ演奏、ネアリカ制作、受賞作品発表など盛りだくさんです。



★AKIRAのウィークリーVログ