はじめての奄美ガイド | New 天の邪鬼日記

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小説家、画家、ミュージシャンとして活躍するAKIRAの言葉が、君の人生を変える。

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はじめての奄美である。
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台風で船が欠航したので、急きょ飛行機で上陸した。
いつもギリギリセーフである。
海は沸き立ち、防波堤を高波が洗い、看板は吹っ飛び、すべての店は閉まってる。
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それでもあこがれの奄美である。
田中一村(画家)と島尾敏雄(小説家)と元ちとせ(歌手)と朝崎郁恵(歌手)の奄美である。
まずは奄美の歴史をかんたんに紹介しよう。

奄美大島は九州と沖縄のあいだに位置する人口7万の島であり、住所は鹿児島県になる。
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その歴史はあまりにも波乱に満ちている。
「明治維新は奄美のおかげ」と言ったら、みんな驚くだろう。
奄美大島の名産物は「黒糖」である。焼酎やかりんとうやさまざまなお菓子に使われている。
約400年前、薩摩藩支配下時代にサトウキビの精糖がはじまり、後に「黒糖地獄」と呼ばれる悲惨な状況をもたらす。いわば黒糖はその甘さと裏腹の「魔物」だった。
薩摩藩は奄美の農家から砂糖約700グラム(一斤)に対し米三合で黒糖を交換し、大阪の市場でその四、五倍の価格で取引をして暴利をむさぼる。島民は「砂糖を指先につけてなめても鞭打たれた」というほどの圧政に苦しんだ。
奄美が薩摩へ「同化」するこを許されず、貨幣の禁止、往来の禁止、衣服身なりは琉球風のものを強制され、姓を許された島の支配層も一字姓に限定される。
「黒糖」より薩摩藩は膨大な利益を得、それを資金にして明治維新を起こすのだ。
1858年、井伊直弼の登場で江戸の政争に敗れた西郷隆盛は、奄美大島へ流罪になる。
西郷どんは愛加那という「島妻」をめとり、二人の子供をもうけ、奄美で3年間を過ごす。
西郷どんは島にいるあいだは島人を苦しめる薩摩役人に食ってかかったが、明治になって鹿児島県が砂糖専売制度を継続するときには手を貸す。
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さて時代は戦争へと突入する。
太平洋戦争時、沖縄同様、奄美郡島はいわゆる本土を守る「前線基地」であった。
不況下の島で食っていけなくなった島人は兵隊にとられ、満州開拓団として大陸に渡っていった。
作家・島尾敏雄氏は海軍の特攻隊長として加計呂麻島に赴任、爆弾を積んだ小型艇で敵船めがけ突っ込む特攻隊長だった。1945年アメリカの空襲が郡島で激しくなり、同年3月米軍は沖縄に上陸、沖縄では「集団自決」を選ぶ人が後を絶たず、奄美でも集団自決の場所が集落で決められていた。
村人は自分たちが自決する壕をコの字形に自分で掘った。
しかし同年8月、奄美は米軍の上陸を見ることなく、集団自決が実行されることなく、島尾敏雄氏の特攻艇も出発することなく、終戦を迎える。沖縄よりは被害が少なかったとはいえ、空襲などによる死者、行方不明者は632名にのぼった。(参考文献「奄美、もっと知りたい」神谷祐司著)

日本にも飛び火したヒッピームーヴメントは、さまざまなコミューンを日本中につくりあげる。
1975年、奄美大島へヒッピー10数人が久志集落に入植し、「無我利道場」というコミューンをひらく。ナナオさんやボンさん、山尾三省さんやナーガなども参加している。
近くの無人島枝手久島にできる石油基地の建設に反対する島民と行動をともにした。石油基地の計画は立ち消えとなったが、その後、賛成派や村の有力者たちが、「ヒッピーは村の掟に溶け込まない」などという理由で「追放運動」をはじめる。反対派に雇われた右翼のダンプカーが入植者の家に突っ込み重傷者がでる事件にまで発展した。その後入植者と追放派住民のあいだで和解条件案を提示する裁判がおこなわれ双方和解が成立する。

歌手元ちとせさんは瀬戸内町嘉徳という、人口50人足らずの海辺の集落で生まれた。幼少の頃から島唄民謡の大会で優勝している。東京のメジャーデビュー前に地元の「セントラル楽器」より発表したCD「故郷・美ら・思い」(シマ・キョラ・ウムイ。民謡22曲収録)をゲットした。ひたむきで純粋な声が胸を打つレアな傑作である。
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奄美の風景を世界にしらしめた日本画家・田中一村(1908-77)は、オレと同じ栃木県出身である。
この人の描く南国植物が意志をもった生物のごとくすごいのよ。
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田中一村が暮らしていた貧しい一軒家が残されている。うちよりボロい平屋だ。
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一村は幼少の頃から画才を発揮し、東京美術大学に入学するが2ヶ月で退学してしまう。千葉寺にて日本画の作成をつづけるが画壇での評価を得られぬまま、50歳で初めて奄美大島に渡る。大島紬の染色工をしながら奄美の自然を独特の画風で描きつづける。姉・喜美子の協力のもと生涯独身をつらぬき、貧乏と戦いながら絵画一筋の生活を送った。生前は人目に触れられることなく保存されていた作品群が奄美パーク内にある「田中一村記念美術館」にて収蔵展示されている。
一村の孤独と情熱がひしひしと迫ってくる傑作ばかりである。
これは生で見なくちゃね。

大島紬村(大島郡龍郷町赤尾木1945)はいいよう。
入場料500円でスタッフが一人ついてくれて丁寧に大島紬の歴史を説明してくれる。実際に糸を田んぼの泥で染める現場も見られるし、奄美の国宝化した熟練職人のおじちゃんおばちゃんたちが大島紬を織り成す。
一村もこうやって染色をやっていたんだなあ。
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おすすめスポットは西のはずれにあるホノホシ海岸だ。
黒潮の波打ち際で丸くなった石が転がっている。
寝転がって大空をながめながら耳を澄ますと、波が引くたびシャラシャラときれいな音をたてる。
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高知山展望台のながめもすごい。
奄美大島郡加計呂麻(かけろま)島が一望できる。この美しさは溶けるぜ。
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※奄美グルメ情報
奄美でいちばんのおすすめは「ゆらい処大蔵」(奄美市名瀬金久町7-1 電話0997-52-6529)に止めを刺す。女店主ルミコさんが徹底的にこだわった魚料理はどれも超絶の美味しさ。しかも安い。
New 天の邪鬼日記-091010nabe貴重なダルマオコゼの鍋、

New 天の邪鬼日記-091010sazaeさざえのつぼ焼き。やばいっしょ!

New 天の邪鬼日記-091010aomatuアオマツのアラ煮

New 天の邪鬼日記-091010yakou夜光貝のつぶ味噌和え

奄美名物「鶏飯」(けいはん)といえば、「鳥しん」か、元祖鶏飯食堂「みなとや」(奄美市笠利町 電話0997-63-0023)でしょう。
鶏飯は1000円で、ごはんに別皿の具をのせ、何十時間も煮出した鶏のスープをかけて食べる。
「ただのチキンお茶漬じゃん」と思っていたら、とんでもない美味さである。
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「マリンステーション奄美」内「レストランゆうな」(奄美郡島国定公園 電話099-772-1001)の伊勢海老の鬼瓦焼きは時価とはいえ、半身2皿(1匹分)で2300円という安さ!
タルタルソースが絶妙で、足までほじってしまう。
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とうふ惣菜・食堂「島とうふ屋」(大島郡龍郷町中勝1561-1 電話0997-55-4411)もむっちゃおすすめだ。昭和チックな食堂はいい雰囲気だし、豆乳と豆腐は食べ放題って!
惣菜のテイクアウトもできる。おからコロッケ2ヶ100円、とうふコロッケ2ヶ100円、ゆば巻き300円てありえない安さでむっちゃ美味いのよ。
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薪の石窯焼パン「パン工房麦の実」(大島郡龍郷町中勝2840 電話0997-62-3993)
天然酵母のパンを石窯で焼いている小さなパン屋さんは、気持ちがこもってるねえ。
丁寧に焼き上げられたパンは皮がパリッとし、モチッとしたなかの歯ごたえがたまらない。
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ちゃんこ居酒屋と郷土料理「神鷹」(大島郡瀬戸内町古仁屋大湊8-14 電話0997-72-1919)は、加計呂麻島へ行くフェリー乗り場がある古仁屋(こにや)で一番人気の定食屋である。
New 天の邪鬼日記-091010karaageチキンの南蛮揚げ(800円)はきび酢を使った甘酸っぱい味でボリュームもたっぷり。


どこのスーパーでも売ってる「みき」を飲んでびっくりした。
「これって甘いおかゆじゃん!」
おかゆでありながら飲み物である。これがセネガルで食べたおかゆとそっくりで、病みつきになるのよね。
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奄美はすばらしい!
沖縄や小笠原ともちがう魅力がある。
本土と沖縄のミックスとはいえない独自の文化がある。
日食ブームが終わった奄美でゆっくりと命の洗濯をしてみよう。
美しい海と情の深い人々の笑顔がきみの心をほどいてくれるだろう。
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