あれからもう10年か……。
阪神大震災のニュースをオレはインドのブッダガヤできいた。
母の死をきっかけに震災前の神戸からフェリーで中国に渡り、チベット、ネパール、インド、タイ、そして震災直後の神戸へもどったが、こんな悲惨な光景ははじめてだった。戦争中のイランでさえもまだ神戸の比ではない。瓦礫の山を目の当たりにしたオレは呆然と立ちつくすしかなかった。
「アジアに落ちる」の終章でこんな一節がある。
誤解を恐れずに、正直に書く。
それは、とてつもなく安らかな風景だった。
人間のために作り出されたすべての物たちが役割を終え、モノという無名のかけらとなって眠っている。
そしてゆったりと、ただゆったりと夢見ている。
春の雨から人を守り、
夏の太陽から人を守り、
秋の風から人を守り、
冬の雪から人を守り、
じーっとじーっと建っていた。
あるモノは時を刻み、
あるモノは食べ物をのせ、
あるモノはコーヒーを満たし、
あるモノは体を包み
あるモノは道を歩き、
あるモノは水を運び、
あるモノはガスを燃やし、
あるモノは電気を灯し、
あるモノは食料を冷やし、
あるモノは衣服を洗い、
あるモノは画像を映し、
あるモノは声を伝え、
あるモノは時速一〇〇キロで走った。
みんな本当によく働いてくれた。
さあ、もう君たちの仕事は終わった。ゆっくりおやすみ。もう楽しいことも、つらいことも、悲しいことも、何ひとつ思い出さなくていいよ。太陽が昇っても、ずうっとずうっと寝てていいんだよ。物質文明の終焉する姿なのか?
死んだ街、それは一番美しい街だった。
神戸の再建は目をみはるものがあった。今までバラバラだった人の気持ちがひとつになって助け合ったからだ。退屈な日常では人間本来の力がしぼんでいくが、いざとなると野生が目覚める。それぞれが同じ痛みを抱えながらも必死に元気を出して生きていた。
原爆投下後の広島や焼け跡の東京、終戦直後の日本だけでなく、神戸でも新潟でも、911後のニューヨークでも現在のプーケットでも同じ感想をもらすだろう。
「人間て、こんなに強かったんだ」と。
最後に神戸でもっとも印象に残ったエピソードを「アジアに落ちる」からのせておこう。
朝の六時から、いつものように赤いポリタンクを下げて水を配っていた。見慣れぬ老婆が半壊した家の前で、オレに向かって手を合わせている。
「あんたやね、毎日花瓶の水をかえてくれていたんは? 夢ん中で死んだじいちゃんに叱られたんや。『ヒゲのあんちゃんが来てくれるから、こうして新しい水で歯が洗えるんや。ご苦労さんのひとことも言ってこい』って」
「す、すいません。おばあちゃんのとなりの家が最後だったんで、あまった水をこの花瓶に入れていただけなんです。オレは子供の頃からジンクスにこだわるたちで、この区画を終わったという儀式のつもりで……死んだおじいちゃんも、歯を磨くんですか?」
「じいちゃんは飯を食い終わった茶碗に入れ歯をひたして、お茶を飲むんや。息子たちは汚いっていやがっていたで。わたしは茶碗に飯一粒を残しただけで、じいちゃんにひっぱたかれたん。あんたは残りカスをやる、じいちゃんはそれをありがたく受けとる。どっちも相手のことなんか思いもよらへん。それが無償の愛なんや。もっともっと人間は好き勝手にふるまえ。わがままになればなるほど仏様に近づくんや!」
おばあちゃんはもう一度しわくちゃな手を合わせるとオレに向かって深々と頭を下げ、ニッコリと笑った。オレは自分が恥ずかしくなって、ただ恐縮するばかりだった。
死をくぐりぬけた人間の笑顔ほど、美しいものはない。
この国が失くしてしまったパズルのかけらを探しにアジアへ出かけたはずなのに、一番大切なひとかけらを見つけたのは神戸だった。生きている喜びを全身にみなぎらせ、逆境を笑い飛ばす圧倒的な笑顔だ。
PS
震災をくぐり抜けてきた10年来の友人から年賀状がきた。
彼らは三宮駅北口から1分のところで小さな居酒屋をやっている。値段も良心的だし、美味いつまみが好評だ。なにより、小百合ちゃんと永井くん夫婦の心暖まるもてなしが泣かせるのよ。神戸に行くことがあったらぜひぜひ寄ってみて。
笑和屋(しょうわや)078-321-6939 神戸市中央区中山手通1-8-1 明関ビルB1