映画『好きでも嫌いなあまのじゃく』の感想 | アキラの映画感想日記

アキラの映画感想日記

映画を通した社会批判

渡る世間に鬼はなし

 

 

好きでも嫌いなあまのじゃく

 

『泣きたい私は猫をかぶる』の柴山智隆が再び所在なき若者を描く。セカイ系をはじめとした最近のアニメでは日本人の性根の歪みを妖怪に置き換えるという営みが水木しげるの時代以上に増えてる気がします。この作品で連想したのは『岬のマヨイガ』や『すずめの戸締り』という3.11にファンタジーを絡めた系だった。なぜなら居場所を語りながら、その掘り込みが極めて浅いって所で共通してるから。この物語の主人公は割と裕福な家庭で良い子ちゃんに育った男の子で、それが鬼の娘に出会って共に旅をするうちに本当の自分を晒す勇気に目覚めるってな内容。良い子を演じて嘘をつけばつく程に雪のような瘴気が人体から放出され普通の人間もやがて鬼に変わる。プチ『鬼滅の刃』を思わせる設定な訳だが、そんなに自分を偽る事自体が悪い事なのだろうか?むしろ悪いのは本音の部分が幼稚なままであるって所です。だからドメスティックな土着の繋がりや宗教で倫理道徳を育てなければいけないのに、そもそもが欺瞞で包まれていては欲望の根底は腐る一方です。だから正直になる事は倫理を習得し絆を作る第一歩でしかない。そこをまるで解決点であるかのように描くのはいかかなものか。

 

どうもこの主人公はケータイを持っていないのか置き忘れたのか連絡したくないのか成り行きで旅立ってから家族に安否報告の電話すら入れない。そんな彼に連絡を促したのは旅先で出会った人々だった。「タイミングを逸してしまう事がある」なかなか正直かつ見事な説得文句です。それこそ人生の先輩の貴重な助言。本当に重要なのはこれらの斜めの繋がり。この作品の世界観自体は割と緩くて完全に腐った人間は全く出て来ない。ただ些細なすれ違いがあるだけ。その意味で毒にも薬にもならない駄作に感じてしまいます。むしろ建前を捨てる勇気に価値があるのは相手の本音を利用して搾取しようとするクズがこの世の中には溢れているから。その面を描かずに本音を晒した所で何の価値も感じません。それこそ吉田恵補作品の人物のように本音は保身やポジション取りや承認欲求という極めて浅ましい劣情と願望にあるがポリコレとコンプラで覆い隠した怪物がリアルな現代日本人だけに。その西洋イデオロギーに腐った卑しい本音を義侠心で矯正する事なしに他者と繋がれるだけの感情が育つ事はない。だから本作は前作に比べて極めて浅い駄作で単なるキレイ事にしか聞こえないのです。