映画『猿の惑星 聖戦記』の感想 | アキラの映画感想日記

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映画を通した社会批判

収容所ひとつ
 

猿の惑星 聖戦記


旧シリーズは子供時代に正月の深夜番組で一気見して学生時代にティムバートン版リメイクにガッカリし大人になってから『創世記』以降を見てる訳だが次第に興味が失せてて今更になって3本目を拝見。旧シリーズの時間軸からすれば最初の作品に至るまでに起きていた事を描いたエピソード0が本シリーズに当たる訳だが、それは同時に歴史が変わった後の『征服』と同時間軸でもあるというややこしい設定。旧シリーズ3作目以降はタイムスリップにより生まれた別時間軸なので結論を知った上で見てる訳だが、どうまとめるかが気になっています。ただ本作を見ると欧米SFも衰退したという落胆に拍車をかけてしまいます。タイトルが大げさなので世界中で大戦争が起きるのかと思って見てたらシーザーの家族が殺されて復讐へ向かう単なるロードムービーでした。その道中で人間の子を拾って疑似親子的な絆を見せる。この幼女が後に一作目のヒロインになるのかもと勘繰りたくなる所です。とにかくSFってジャンルは科学的裏付けで起こり得る壮大な現象や摂理の変化に翻弄される人間を無慈悲に描くというダイナミズムあってこそ魅力を発する訳だが、それを実現できてるのは近年じゃ中国のリウツーシン位しかいないのではないだろうか。

 

この作品は猿社会を作った重要人物であるシーザーの個人的な復讐劇。家族を殺した軍人が仕切る収容所を見つけ出して、そこで奴隷化させられてる仲間たちを開放する。この収容所は雪山の山腹にあり、せいぜい千匹足らずしか収まらない集落。狂人と化した軍人が組織からも背き孤立する形で運営される。それ故に人間側の残留軍からもパージされ攻撃を受ける。そんな軍人ひとり殺した所で歴史的に何の意味があるだろうか?その意味で本作は何一つダイナミックに話が動いたりしない。それが旧シリーズに比べて圧倒的につまらない点です。ただ有名コンテンツの設定だけ拝借して幼稚なお茶の間娯楽の土壌にしてしまう。これが近年欧米で酷くなる資本文明による知性的文化への殺戮です。つまり浅ましい大衆に媚びて残酷な真理を語らない商業的選択。本作も動物愛護だの家族愛だのポリコレとコンプラとテンプレを唯々諾々とトレースするだけのゴミです。もはやSFにおいても腐敗堕落した欧米に優位性は全くありません。こんな娯楽を見ても分るように今や自由民主主義圏の文明は強欲基準の損得勘定の為に倫理も知性も放棄しています。