映画『サイコト』の感想 | アキラの映画感想日記

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映画を通した社会批判

出っ歯

サイダーのように言葉が湧き上がる

 

地方のショッピングモールを舞台にした典型的なボーイミーツガール。ありふれた超ド直球のラブストーリー。パステルカラーのオシャレな絵作りと老人ホームでのレコード探しというギャップ。ブラジル系と思しき少年が俳句をライムと呼ぶ感性が温故知新って感じでイケてます。ヒロインはライブ配信でファンを獲得するネットアイドルな訳だが出っ歯を気にしてマスクを手放せない。そんな彼女と想いを寄せ合う主人公は微妙にコミュ障気味。自分の言葉で話せないから俳句として記す事でしか素直な気持ちを表現できない。この感性には最近見た石井裕也の『生きちゃった』を連想させられました。あの作品では最も大切であったはずの妻に対して「愛してる」程度の当たり前の感情すら表現できなかったのに外国語でならいくらでも云えるという所がテーマの中核にあります。それは"うっせえわ"が若者の共感を得て大ヒットする病んだ世相ならではの悩み。つまり上の世代の劣等感と現実逃避が言論封殺を生んでいるのです。だから若者は不道徳な古い世代に従うか見限る事しかできない。どうせ口先で何を云おうが自己の利益を最大化する事にしか動機がない不道徳な世代を相手にする事は時間の無駄。無能世代という暴力装置に晒された現代の若者は黙る事に慣らされてしまっている。ヒロインと出会う事で、そこを突破する勇気を得るという訳だ。この作品に描かれるのは老人と十代の子供ばかりで親への掘り下げは全くない。ただ友達のように接して来ようとする年上の存在。含蓄なき大人たちの中では反抗する言葉すら見当たらない。そんな飽和化された世界では恋愛感情位しか叫ぶ言葉が見当たらないのだ。この世代は黙って従えばドン詰まって野垂れ死ぬ状況にあります。だからこそ黙らされない事に意味がある。レールから離脱せねば、そのレールの先は既得権世代の胃袋。食い潰されるだけ。"うっせえわ"だけでも良いから発して無能な大人の言論弾圧を突破しましょう。

 

ちなみに私は藤井道人や石井裕也のような自分よりちょっと年下の世代でも良い作品を撮ってる人を見かけるとファンになります。かつて私がまだ20代の頃、結構有名な超大御所カメラマンと同じ現場を踏んだ事があった。そのカメラマンは戦中世代で私とは半世紀分以上年が離れている雲の上の人だった。そのカメラマンは私に出会い頭に「僕は君のファンだよ」と口にして肩を叩いた。どうも学生時代の受賞作に目を通し気に入ってくれていたらしい。それも適切に内容が分析できている様子で的確なアドバイスも頂けました。こんなにベテランになっても若者の作品にまで目を通す勉強熱心さにも脱帽だったが当時の私のような小僧っ子でもちゃんと評価する姿勢には一発で憧れてしまいました。こんな老人になりたい。それに対して先輩の作品すら勉強していないバブル世代の上長は価値も分からないまま権威に諂い嫉妬心剥き出しの嫌がらせばかりしていた訳だが。どちらにせよ私が若い頃に出会った戦中世代にはカッコイイ老人が多かった。それに比べると戦後の大人は自己顕示欲と妬み嫉みを剥き出しにするようなクゾガキが道義心も持てずに無駄に年を食った薄汚い老害だらけで、ごく一部の実力で結果を出し続けてる連中以外は反面教師にしかならない。つまり私は戦中世代の立派さを知っているからこそ、その振る舞いを真似て、なるべく若者たちが薄汚い既得権世代どもの食い物にされないように努めているのです。この作品に登場する老人たちは残念ながら戦中世代を思わせるような立派さを見せてはくれない。ただボケているようでいて物事の道理は意外と理解してたりもします。もしダメな大人に囲まれて同調圧力で声も上げられないのなら、そうでない大人を探すか逃げ出すか抗うかしないと今後の世代には道が開かれていません。だからこそ若者には本当の言葉を取り戻して欲しい。あの立派な大御所カメラマンのように応援できているかどうかは分からないが戦中世代のほどんどが召した今、古い世代を全て叩き潰してでも若者たちには道を開いてやりたいのです。