映画『奇跡のひと』の感想 | アキラの映画感想日記

アキラの映画感想日記

映画を通した社会批判

奇跡のひと

マリーとマルグリット

 

 

先天障害が厄介な所

 

ドイツの巨匠ヘルツォークの初期作品に『闇と沈黙の国』というドキュメントがある。ここで描かれるのは後天的にめくらになりつんぼになった人間でありアーサーペンの『奇跡の人』でも知られるヘレンケラーにしても後天的な聾盲者な訳だ。それに比べ先天的な障害による聾盲者は周囲の対応が大きく変わる。フレデリックワイズマンの障害者四部作の三作目『多重障害』に登場する子供たちが正にそれだ。まるで置物のように何の反応も示さない。いわゆる障害って奴は併発する事が多く、そのほとんどの場合、重い知的障害を伴っている。だからコミュニケーションの術を教えても、そもそも意識や人格自体が存在しないという場合が多いのだ。この映画のように聾盲者の中に人格を発見できるのは数少ない例と云える。シスターが直感的に彼女の中に人格を感じたのは奇跡と呼んで良い確率の低さ。

 

アメリスというと割と可愛らしい作品が多い印象だったが、この作品は思いのほか肉体派。聾盲者に対してコミュニケーション手段の教え方を知っていても先天的だと見えて聞こえていた経験がないから簡単にいく訳がないのだ。キャットファイトのレズビアンショーかと思うほどに、とことん肉体でぶつかり合う過程を嫌気がさすほど丹念に描いている。シスターは肺病を抱えて病弱な訳だが、それでも体を張って格闘しながら彼女を育て上げる。すると彼女の成長がシスターの想像を凌駕してゆくという様が見ていてハッとさせられる。ブランコのシーンにはやられた。コミュニケーションしたいというだけの目標は彼女にとっては低過ぎた。そりゃ障害者でも人間なんだからナメてちゃいけない。よく云われる事だが一般的な健常者が思う以上に彼らのスペックは高い。