『クラウドアトラス』の感想from映画生活 | アキラの映画感想日記

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映画を通した社会批判

2013-03-29の投稿

クラウド アトラス

 

 

表層こそ本質

 

「僕の孤独がさかなだったら、巨大さと獰猛さに鯨でさえ逃げ出す

 -俺は死んでないぜ-音の積み木だけが、世界を救う」

中村義洋監督の『フィッシュストーリー』ではタイトルとなる音楽がロックだったが今回はクラシック。複数の時代の出来事が微妙に関連して未来へ繋がっていくという構成がソックリな内容。今回の作品は世界を救う訳じゃないけど。ドルマル監督の『ミスターノーバディ』は更にそこに複数のパラレルワールドが重なるという具合だが、この手の作品に重要なのは個々のキャラに感情移入できるかではなく、そこに貫かれたテーマ性だと思います。そしてエピソード同士の繋がりによって相乗効果で増幅されるカタルシス。ヴィジアルやテンポといった表面的要素の統制も重要。そういった意味で今回の作品はこの手のオムニバス的に語られる作品としては、秀逸な部類に入ると思います。

 

私はカルマだのソウルメイトだのメンタル系のカルト宗教じみた説は信じないが、ソルジェニーツィンの考え方には同意するし、人と人の繋がりは因果応報であり、集団幻想も時には真実となり得ると考えています。この作品のそれぞれの時代の登場人物は、あたかも輪廻転生を思わせるような所があるけれど、それは個人的には、もっと具体的な繋がりがあったのではないかと推測しています。それに共鳴する出来事や台詞でカットバックするという手法は、あえて似た台詞を切り取っている訳だがら、生まれ変わって同じ台詞を吐いているというより、誰でも口にするような台詞をあえてキーワードとして繋げていると考える方が自然です。

 

この作品を貫くテーマは私としてはソルジェニーツィンの思想だと感じました。個人主義の現代で自由という幻想のもとに一般的に考えられているより良くも悪くも深い部分で人間同士は繋がっている。その繋がりは世間に嘆かれるよりも因果応報でフェアな関連性がある。物事は全て表面的に見た通りであり隠れた部分に本質など存在しない。それが分からないのは観察力が足りないか理解力が足りないか或いは冷酷な事実から目を背けたくて分からないふりをしているか。本質は物事の表面にしかありはしない。人と人の繋がりは表面だけが生むものだ。途中からフィジカリストである私自身の主張になってしまったようなので話を戻します。

 

航海の話、同性愛の話、原発の話、作家の話、近未来の話、文明崩壊後の話。これらのエピソードを行ったり来たりして物語は紡がれる。個々の話としては大した事のない内容なのだがリンクする事で、人と人との繋がりというテーマが圧倒的なカタルシスを与えてくれる。かつて『ラン・ローラ・ラン』のオープニングで90分という時間の制約をどう使おうと自由だという主張をかましていたトム・ティクヴァ自身の主張をしっかりと形にしたカタルシスです。

 

今回はウォシャオスキー兄弟と組んだという事だが、内容は明らかにティクヴァ一色。ポップな画面作りも選ばれる題材も彼ならではの世界観。『マリアの受難』や『プリンセス&ウォリアー』を思わせる老人ホームという隔離された施設から『バンク』を思わせる巨大組織の陰謀まで、美味しい所満載。映像的にも徹底的にティクヴァ節といった所です。彼のポップな色使いを見ていると、本当に映像派と呼ばれるべきは英国のグリーナウェイや、その弟子のジャーマンや、そのまた弟子のメイブリなどではなく、この手の商業路線で時に奇抜な効果でミスリードを誘ったり内容の方をないがしろにしながらも、自由な絵作りをする彼のような作家こそがヴィジアル派と呼ばれるに相応しい気がします。