『パリ横断』の感想from映画生活 | アキラの映画感想日記

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映画を通した社会批判

2008-09-18の投稿

パリ横断

 

 

豪快ジャンギャバン

 

愉快、痛快、壮快。これは面白い。物資不足に悩む第二次世界大戦の終戦直前に闇市場の豚肉を届けるべく夜のパリを駆け抜けた男たちの物語。嫉妬深い愛妻家の元タクシードライバーが呑み屋で知り合った画家と共に肉を運ぶ。妻と密会される事を恐れての誘いだった。この画家を演じているのが我らのジャンギャバンな訳だが、このキャラがやる事なす事なんとも厚かましく豪快で爆笑シーンの連続。ひとり頭500フラン足らずの仕事で契約するはずが目ん玉ひんむいて大声でがなりまくり雇い主を脅しつけ5000フランもふんだくる。それどころか勝手にラム酒を呑んだり、荷物の豚肉を野良犬に与えたり、警察に荷物を没収されたふりをして別の闇市に流して儲けようなんて悪巧みを始めたり。彼は金に困らないほどの有名画家。にも関わらずあえて危険な橋を渡り善良な相棒を諭す。「金持ちは失う事を恐れているが、元々何も失う物がない貧乏人まで臆病になる必要はない」

 

地下鉄の入り口でバイオリンを奏でる老人。彼が弾いていたのはフランス国歌。そこへナチス将校が現れる。通行人たちの空気が張り詰める。するとナチス将校はバイオリンの音色に聴き入って彼にコインを施す。この冒頭部分にしても地元のフランス人も知らない画家を敬愛し庇おうとする将校たちにしても、終戦間もない頃の仏映画に描かれるナチスは文化面でフランスに対する憧れにも似た敬意を払っている事が多い。ドイツ人はクソ真面目だが冷血ではない。それぞれに人情がある。このような懐の深い人間観が作品にクレールにも似たやさしさを漂わせるクロードオータンララ。笑い事じゃ済まない危機的状況を描きながらここまで笑わせてしまうのは、その懐の深さ故かもしれない。

 

「権威主義を論破したはずの世代が今や権威主義でフランス映画への価値観を捩じ曲げている」この作品を紹介してくれた知人は呑みの席でそう語った。彼はリアルタイムでヌーベルバーグによる汚染を目の当たりにした世代。私はそこに付け加えた。実績のある権威主義を口先で論破し頭でっかちな空っぽの権威主義を打ち立てたからフランス映画は世界に忘れ去られた。私はカイエデュシネマの批評を否定はしないが今同じ過去の映画として対等に比べるとゴダールやトリュフォーやロメールやリヴェットが論破した過去の監督たちより良い仕事をしてるとは思えません。あらゆる疑問点をやり包めるだけの蘊蓄はあるが、それを味わいとして感じさせる含蓄がない。左岸派の中には記録や前衛の延長で鋭い創作を続けたレネやルーシュのように尊敬できる作家もいるが一般に浸透した右岸派はフランス映画の入門に向いていない。あまりにもネームバリューばかりが肥大化した彼らの影響があまりに強いので今では”フランス映画=小難しく気取った非娯楽”というイメージが一般的に蔓延しています。そんな偏見はフランスが娯楽映画最前線だった20世紀前半の作品に最初に出会っていれば吹っ飛びます。そして娯楽性においても芸術性においても確実にヌーベルバーグ以後に比べて質が高い作品はゴロゴロあります。残念ながらその多くは上映の機会があまりに少ない。

 

私が知る限りで断言するならば「ヌーベルバーグ以外は映画じゃない」とヒステリックに語る連中ほどフランス映画を知らない。狭い殻に閉じこもってる井の中の蛙です。一部のシネフィルを崇拝する事で自分もシネフィルになった気で狭い知識をひけらかす。右へ倣えで無責任に褒め称えるが面白さすらも理解していない。そんな連中が幼少時代から名画座に親しんだ我々映画ファンの芽を摘む。私の世代でもゴダール同様に独善的な方法を選んだマイケルムーアをドキュメント作家とする誤認がドキュメント史を知らない層に蔓延したり数少ないタランティーノ作品に触れただけで自分はサブカルに精通したと勘違いした輩がB級の認識を偏らせたり。結局、更に面白い作品を探し片っ端から娯楽を漁る映画ファンと違って、この手の輩は知ったかぶりをするのに都合の良いカテゴリーを作り上げたいだけの教条主義者。それらの狂信が一般客と本当に面白い傑作との間を隔ててしまうとは何とも勿体ない。インテリぶった連中の狂信が蔓延る事で一般客に食わず嫌いを起こさせる。もし常にこの作品のように蘊蓄ではなく含蓄溢れる娯楽を提示し続ければ食わず嫌いなど起きないだろうに。