『コズモポリス』の感想from映画生活 | アキラの映画感想日記

アキラの映画感想日記

映画を通した社会批判

2013-04-29の投稿

コズモポリス

 

 

リムジンで散歩

 

「もし医者が患者を実験台にしなければ未だに医学は原始時代だ」みたいな台詞が滝田監督の『病院へ行こう2』(1だったかも)にあったけど、それには私は全面的に同感です。医者は患者を人間扱いしてはいけない。周防監督の『終の信託』みたいに個人的感情の自己投影で判断を誤ってもらっては困る。ワイズマンの『臨死』みたいに感傷的に絶望されても困る。他人の痛みが分る医者はヤブ医者だとすら思います。非人間的なまでに合理主義で冷静沈着な診断こそが「この人は的確な治療方法が分かっている」と患者を安心させられる。つまり患者より上の立場から客観的に見ていて欲しいのだ。

 

そんな視点を感じるのがクローネンバーグ作品。ホラー映画の異端児という以前に映画界の異端児と呼べる気がします。文学表現や劇映画の多くはテーマの根源がパトスに起因する。それに対し彼の作品はロゴスに起因する。セックスに快楽はな...く暴力に痛みがない。なぜなら彼の映画は対等な人間ではなくモルモットに対する実験のようなものだから。「私のカタルシスは単純なものではない」と彼自身も云っているが、それは極めて理性的な思考がテーマの根底からあるから。パトスが肉体に起因するのに対しロゴスは無に起因する。そんな空っぽさを彼のメッセージには感じます。単純にキューブリックのように客観に徹している訳ではなく、目的の中心にすらも主観がない。

 

今回の作品は実験映画とカテゴライズできるような内容です。まるでクローネンバーグ自身へのインタビューを劇映画の形式にしたような対話劇。物語はとある若手実業家が街を横切って馴染の床屋へ行くというだけ。その道中に様々な人物と会話するが、それはドラマではない。単にクローネンバーグ自身を投影したような主人公の哲学を晒しているだけで、バックに起こる暴動やテロなどは彼の言葉を具体化したイメージ映像みたいなもの。インタビューにインサートが入るようなものです。だからゴダールの『気狂いピエロ』みたいにナレーションで語られる哲学が背景で本当のテーマは物語自体にあるというタイプとは逆で、ここでは言葉こそが物語でありテーマなのです。

 

これまでの作品では『ステレオ』や『裸のランチ』や『クラッシュ』を連想させられる直接的にテーマを語る哲学映画。今回の作品の中では理性が無に起因するという話をしているシーンもあるけど、それこそが彼の表現の中核に最も近い思考に思えます。一貫して合理主義な人体実験。表現への欲求でもホラーブームに乗じた商業志向でもなく、理性的な興味による実験。だからこそ快楽や痛みの前に尾甘美でインモラルなカタルシスが彼の作品にはある。ただ彼の趣向はフェチでもあるので中途半端な変態じゃ共感できない。特に今回の作品はディープな彼のファン以外にはたぶん理解不可能。