『忘八武士道』の感想from映画生活 | アキラの映画感想日記

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映画を通した社会批判

2020-12-28の投稿

ポルノ時代劇 忘八武士道

 

 

 

死ぬも地獄、生きるもまた地獄

 

マカロニウェスタンと同様にポルノ時代劇も王道ならではのテーゼを辿らなくても良いが故に時として鬼面白い作品に仕上がる。この作品もそんな一例。予期できない仕掛け合いに最後まで目が離せないクレイジーな代劇。今作の設定を現代に置き換えるとすれば大企業VSベンチャーの市場争いって所だろうか。いわゆる管理売春組織として老舗の吉原に対し巷の茶屋で店員が売春したり個人で立ちんぼをして売春したりするものだから吉原の収入は減少。客を取り戻すために吉原は腕の立つ人斬りを雇って強硬手段に及ぶ。この構造って今も昔も変わっていない。トップクラスの大企業って奴は政界とも太いパイプを持っていて既得権を壊すベンチャーが現れるとホリエモンみたいに検察に冤罪逮捕させたりして手段を択ばずに潰しに来る。ここ最近の疫病騒動を利用したショックドクトリンでも潰されるのはストックの少ない中小だから、トップクラス企業からの発注がないような所はなかなか生き残れない。そこには不公平感もあるが確かに業界トップクラスともなると人材力まで一流の所は多い。よく広告業界では「電通はデカいだけの恐竜だ」と社員を鼓舞する弱小企業が多いが、デキる奴ほど電通に引き抜かれるし優秀なクリエイターには電通出身者が多い。デカいだけでなく個々の人材力からして一騎当千。実力だけでも圧倒的な上に賄賂も枕営業もあらゆる汚い手を使い手段を択ばす企画を実行しているので低能な上にナイーブな一般企業は全く歯が立たない。それこそ天才的な実力を持ちながら金儲けの為には手段を択ばないユダヤ人みたいな連中。寄らば大樹の陰とか長い物には巻かれろって言葉がある通りトップクラスの企業にはトップクラスの人材が集まる。この物語の主人公である最強の人斬りも成り行きとはいえ老舗である吉原の側で草鞋を脱ぎます。

 

"忘八者"って蔑称は今となっては完全に死語だが現代でも通じる言葉に置き換えるとすれば鬼畜外道かネオリベか。つまり8つの徳を忘れた恩知らず恥知らずのろくでなし。ヒモのような生き方をするポン引き等への蔑称。吉原で女性を食い物にしている忘八集団に拾われた主人公は晩年の『地獄』のラストシーンで脈絡もなく表れて片っ端から鬼を切りまくった石井輝男作品の顔役とも呼ぶべき辻斬り。だが彼は忘八とは違う。いわば忘八は畜生道を極めた連中だが彼が歩むのは修羅道。人の道に外れているという意味では一緒にされがちだが修羅の道を歩む者は畜生のように卑しくはない。ただただ暴れ回るだけ。だから本能のままにジェノサイドはするが損得勘定では動かない。むしろ卑しい忘八の畜生どもとは相容れない価値観で気まぐれに動く。だから時として堅気よりも立派に振る舞えるのだ。ナチュラルな人間の感情には他人への同感力があり、それも私欲に勝るとも劣らない人間の本能なのだ。ネオリベやグローバリストや自由という利己主義に腐った現代の凡人の方が、この手の本能のままに生きる獣よりよほど畜生道に落ちた忘八と呼べる。だからこそ我々はこの人殺しにヒロイズムを感じるのだ。ただただ本能に従うという生き方を選べる心の強さを持ち合わせないヘタレは気付かないうちに畜生道を歩みハンナアーレントが定義する所の"凡庸なる悪"へと変貌する。だからこそ我々は考える事より感じる事を優先し自然発生する自分の心の声を聞き続ける必要がある。その声は必ずしも利益には繋がらない。だが、その声を無視し始めた時、人間は忘八の鬼畜道を歩み始めるのだ。この辻斬りはニヒリストではあるが自分の心の声を聞いている。こういう生き様は見習い続けたい。