舟木一夫と共に㊷

「平凡」と「明星」㊤

ー1987年12月号で廃刊ー

 

 舟木一夫がデビューした時から「月刊平凡」と「月刊明星」は必読誌だった。「月刊近代映画」もそれに近かったが、全巻舟木特集の時に買っていた記憶がある。「週刊平凡」ゃ「週刊明星」も舟木が表紙を飾っている号を購入していた。これらの中でも「月刊平凡」と「月刊明星」の表紙に登場することは芸能人の人気のバロメーターになっていた。2つの月雑誌について書く。まず「月刊平凡」から―。

 

 2つの月刊誌ともこの頃の表紙は毎号男女の組み合わせで、1人で出ることはなかった。舟木が「月刊平凡」の表紙に女優か女性歌手と2人で顔を出すのは、以下のように1963年12月号から1968年2月号までの計14回。最も多いのが吉永小百合の3回、次いで和泉雅子の2回、松原智恵子らは1回だけだ。その年の何月号か、相手はだれか、2人は表紙の撮影中にどんな会話を交わしたのかなどを掲載する。(敬称略)

 

   ■1963年12月号⇒三沢あけみ

 この号のタイトルは「若く明るいコンビ号」。編集者は舟木と三沢が日本レコード大賞の新人賞を受賞するのは間違いないとふんで表紙にしたのだろう。舟木は「舟木一夫クンの作ったページ」を編集し、大好きな横綱柏戸関を1日記者として訪ねるなど楽しんでいる。確か、柏戸関が引退した際は断髪式に呼ばれて出席したのではなかったか。

 

 

   ■1964年4月号⇒本間千代子

   この号は探したが、見つからなかったため「表紙のおしゃべり」はなし。表紙を撮ったのは2人が共演の初めての東映映画「君たちがいて僕がいた」の撮影が行われている頃ではなかったか。

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   ■1964年7月号⇒高田美和

 「表紙のおしゃべり」というコーナーで舟木と高田が対談している。高田「なかなかリールさばきがお見事だけど、魚釣りやったことがあるの?」/舟木「モチ! よく友達と木曽川に釣りに行ったっけなァ」。他の方との対談でも舟木は泳ぎは木曽川で鍛えたなど、木曽川の話は何度も出している。あすの「明星」の対談では美和の父・高田浩吉の話も登場する。

 

―映画「青葉城の鬼」(1962) のスチール写真, 高田美和 Wikipediaより―

 

   ■1964年11月号⇒姿美千子

 表紙のおしゃべり~舟木「どこへ行ってもオリンピックムードがいっぱいだネ」/姿「もうすぐですもの。銀座を歩いていても、外人さんの多いこと…」。東京オリンピックは10月10日開催なので、対談時は日本中が五輪への期待で満ちていたことが良く分かる。ちなみに、東海道新幹線の開通は10月1日だった。

 

―女優・姿美千子のブロマイド(1960年代前半)―

 

   ■1965年2月号⇒吉永小百合

 表紙のおしゃべり~舟木「やっぱり日本の女性は着物がピッタリ」/吉永「私でも似合うといいたいんでしょう」/舟木「それに日本髪もスゴクいかしてる」/吉永「でもこのヘアスタイル苦労したのよ。舟木くんの顔の長さに合わしたんだもの」。「いかしてる」という言葉は流行した。今回、「平凡」と「明星」での2人の対談を読んでいて、結構フランクに話しているんだと思ったりした。

 

 

―女優・吉永小百合の写真 (1962年)Wikipediaより―

 

   ■1965年6月号⇒和泉雅子

 表紙は2人が花のブランコに乗っているポーズ。「表紙のおしゃべり」で和泉が「子供たちも喜びそうネ」と言うと、舟木は「大人もけっこう喜んでる。マコちゃんのお鼻も、さっきから開きっぱなし」。まぁ、この2人の会話はこんなものだろうで納得。

 

―女優・和泉雅子の写真(1963年)Wikipediaより―

 

   ■1965年11月号⇒九重祐三子

 2人は久しぶりの出会い。「表紙のおしゃべり」で、映画「東京は恋する」を撮り終えたばかりの舟木に九重が「年内はもう映画は撮らないんですか」/舟木「もう一本やることになっている。十月末から入ると思うんだけど『高原のお嬢さん』を…」/九重「ずいぶん撮るのネ。まるで映画スターみたい」。

 

 

   ■1966年2月号⇒吉永小百合

 

 

― 文部科学省ホームページより ―

 

1959年の映画『まぼろし探偵』。左は加藤弘Wikipediaより―

 

 

   ■1966年5月号⇒恵とも子

 恵とも子は父が米国人で“ハーフタレントのはしり”と言われた。舟木より5歳年下。東芝からレコードも出している。この2年後に渡米して結婚しているようだ。長く芸能活動はしなかったが、なぜか印象に残っているタレントさんだ。2人は「表紙のおしゃべり」でよくしゃべっているが、とらえどころがないため掲載を断念した。

 

 

 

 

 

   ■1966年8月号⇒和泉雅子

 表紙のおしゃべり~和泉「デビュー3周年おめでとう」/舟木「サンケイホールで三日間、記念のリサイタルをやるから見に来てね」/和泉「モチ行くわよ。ちょうどビートルズの公演が武道館であるんですって」/舟木「ビートルズに負けたなんて言われないよう最高のショーにしてみせるよ」。ビートルズの来日公演は6月30日から7月2日までの3日間、日本武道館大ホールで計5回開かれたのに対し、舟木は7月1日から3日まで東京・大手町のサンケイホールで行われた。マスコミではガチンコ対決と騒がれたが、舟木は取材に「気にしていません。ビートルズの客と僕のお客さんは違いますよ」と言ってのけている。ちなみに、舟木の公演も連日、超満員だった。

 

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   ■1967年1月号⇒松原智恵子

 表紙のおしゃべり~舟木「『雨の中に消えて』ではお疲れさま」/松原「もう一度、三枚目的なものを撮りたいですね。なんだかあのテレビ映画では舟木さん、生き生きしてた」/舟木「いつも三枚目だからと言いたいんでしょう。ちゃんと分かるんだから、チーちゃんの考えてること」。和泉雅子が「舟木くん」と呼んでいるのに対して、松原は「舟木さん」。これは、今も変わりませんね。

 

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  ■1967年5月号⇒山本リンダ

 舟木が「一心太助」の撮影が予定をオーバーしたため、リンダを3時間待たせた後の「表紙のおしゃべり」。リンダ「こんなに遅くまで撮影じゃ大変ですね」/舟木「映画の撮影はその日になってみなければ何時に終わるか分からないので困っちゃうワ(とリンダの「こまっちゃうナ」を口ずさむ)」/リンダ「いやーネ、舟木さん!」。読んでいて、これはヤラセではなさそう。

 

 

 

   ■1967年10月号⇒吉永小百合

 

 表紙のおしゃべり~舟木「教習所へ行ってるんだって!」/吉永「もう卒業しちゃった。この雑誌が出るころはスイスイよ」/舟木「頭に来た! 周りの人はみんな免許証取っちゃうんだから」/吉永「今頃若い人が運転できないなんておかしいわよ」/舟木「とたんにこうだから。やりにくくてしょうがない!」/吉永「こんど乗っけてあげるわ。ドライブに行きましょうよ」/舟木「冗談じゃない! 助手席に乗るなんてまっぴらですよ」/吉永「こう頭にくるようじゃ、運転する資格ないわね。ドライバーはいつも冷静でなくちゃ」/舟木「まいったまいった。今日は運転のマネでもさせてもらうか」

 

 

   ■1968年2月号⇒由美かおる

 1967年の音楽番組「レ・ガールズ」(日本テレビ)では、同じ西野バレエ団の金井克子、奈美悦子とともにミニスカート、網タイツ姿で踊って大人気だった。ちょうどその頃の舟木とのツーショットだ。「水戸黄門」の“かげろうのお銀”役での入浴シーンも話題になったが、お色気は今も健在ですね。

 

 

 

 

 

★★★

 

 「決定版  舟木一夫の青春賛歌」が発売されます。前著「舟木一夫の青春賛歌」を全面リライトしたうえ、このブログの内容などを追加して作りました。巻頭には舟木さんの最新インタビューが掲載されているほか、これまでの全シングルのジャケット写真、芸能生活の歩み(オリジナル)などあらゆる記録が収められています。

 

 

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