いままで、この問題をこういう露骨な書きかたをしたことがないのだが、「平凡」三誌(月刊「平凡」、「週刊平凡」、「平凡パンチ」)がどういう経緯で廃刊になったのか、そのことをキチンと、わたしのブログの読者には説明しておいた方がいいと思う。

 

これが月刊「平凡」の最終号。

 月刊雑誌の「平凡」が廃刊になったのは昭和62年の12月、昭和という時代が終わる一年前、石原裕次郎が死んで六ヶ月後、裕次郎よりひと月早く、もう一人の昭和の二枚目スターだった鶴田浩二も病没しています。世の中はバブル景気の真っ最中。

 昭和62年の12月は昭和天皇が薨去される一年前、美空ひばりが亡くなる1年半前のこと。廃刊号は120万部という、恐るべき部数であったと言われています。それまでも、通常号が80万部とか90万部という、巨大な部数、売れていたのに廃刊にしたのです。

 廃刊の雑誌が百万部を超える部数発行されるなどという話は聞いたことありません。

 これは一つは、この雑誌にかかり切る社員編集者が三十人以上いて、その人たちが高齢化し、高い給料を取って、そういう人件費だけで、具体的な数字は書きませんが、何億円という固定費がかかっていたことがあります。

 

 この時期、マガジンハウスは女性誌が「アンアン」が40万部とか50万部、「クロワッサン」、「オリーブ」も同様、男性誌の方は「ポパイ」が60万部、「ブルータス」20万部、わたしたちが(わたしと石川次郎で)創刊した「ターザン」にも目鼻が付いて、横文字タイトルのライフスタイルマガジンが、膨大な量の広告を吸い込んでいて、巨大な利益を生み出す雑誌のシフトを作りあげていたのです。この時期、講談社を凌ぐ広告収入(*百50億円)を得ていました。広告的には出版界のトップ企業でした。

 

 そのなかでは、かつて男性週刊誌として一世を風靡した「平凡パンチ」も同じ憂き目に遭うのですが、大部数を発行していても、利益率の低い雑誌というか、赤字の雑誌は、世間の評判や雑誌としての存在意義に関係なく、経営的な視点から廃刊誌にさせられていった、ということなのです。編集部に在籍していた人たちはたまったものじゃありませんでした。行き場所もなく、みんな悲痛な体験をさせられた、それでも、高い給料にしがみついていて、会社をやめる人はいませんでした。

 「週刊平凡」の場合は、編集改造してなんとか、という話があり、〝セレブマガジン〟と銘打って、有名人の情報誌にしようとしたり、〝猫の週刊誌〟みたいなことをやったり、いろいろに手を加えて作り直しが繰りかえされたのですが、いずれもうまくいきませんでした。改造が決定したとき、50万部くらい出ていて、返本率が30パーセントを超えるような状態で、これはダメだ、という話になって作り替えをやったのですが、結局、その部数以上に売れる新しい雑誌の形を見つけ出すことができませんでした。

こちらも月刊「平凡」と同時期、62年の10月に発売になった号が最終版になっています。

 

「週刊平凡」最終号。

 雑誌を改造しようとしたことについて言うと、これは、基本の発想として、広告導入が可能なオシャレな雑誌につくり変えるという、当時の泥臭い芸能界と正反対の考え方で本を作り、けっきょく、誰も読むヒトがいなかった、ということだったと思います。

 何年かの試行錯誤があり、そのあと、「週刊平凡」はもとの芸能週刊誌、スキャンダル路線の雑誌にもどった記憶があります。いずれにしても、この雑誌も社員編集者を30人あまり抱えていて、それだけで人件費が毎年何億円とかかる、それに取材費もかなりいい加減な使われ方をしている、印刷代は大日本印刷とか、凸版印刷とか、高い印刷代の会社と付き合ってきていて、週刊誌の形態のママで刊行をつづけて採算が取れるような状態ではなくなっていたのです。

 これは企業の裏話なのですが、このとき、社長の清水龍夫さんは、マガジンハウスにとっての「平凡」(月刊「平凡」と「週刊平凡」と「平凡パンチ」の三誌)の役割は終わった、と考えたようです。清水さんは日本橋生まれの江戸趣味のおしゃれな人で、月刊の「平凡」に入っていた、背が高く見えます、というような広告や整形美容の広告や包茎手術の広告などを雑誌に載せるのを嫌って、それらの広告は年間一億円くらいあって、月刊平凡の屋台を支える一助だったのですが、これらの広告掲載を排除したのでした。

 社名を平凡出版からマガジンハウスに変更したときから、都会的な、オシャレな雑誌をいっぱい出している出版社にしたいと考えていたようです。ですから、「平凡」三誌もそういう雑誌に作りかえられるのであれば、存続させる。ダメならやめると考えていました。

 

 それともう一つは、芸能界が産業規模を拡大して、プロダクションが権利意識みたいなモノを強烈に主張するようになり、タレントが新人としてデビューするときにはなんでもいいから載せてくださいと、米つきバッタのように頭を下げるクセに、一度、タレントとして人気者になるとアレはイヤだこれはダメだ、これをやるならいくらよこせ、見たいな利権の塊になっていったのも、相当気に入らなかった。雑誌として相手の言うことを聞くんだったら、広告を出してくれる企業と付き合うよ、芸能界とは仕事しない、という判断が、あったようです。

 別に芸能界と無理して付き合う必要はない、という話です。

 現場の雑誌の担当者たちは、それが仕事ですから、芸能プロダクションのわがままな言い分を受け入れて、仕事していたのでしょうが、相手の言いなりで本を作っていた、ということだったと思います。それが、八十年代の後半の、衰弱してしまった芸能雑誌の形でした。芸能プロダクションの方は、タレントの価値というものをさまざまに利権化して、肖像権とかパブリシティ権というような形で商売するようになります。アニメのキャラクターと同じようなパテント商売です。現在も、この考え方が芸能プロダクションの基本の考え方になっている、と思います。

 

 社長の清水さんが、役員会でこの話を持ちだしたとき、反対する人は誰もいませんでした。芸能雑誌の親玉というのは、斎藤茂さんというヒトがいたのですが、この人ももう6、7年前に退社していて、週刊誌としての改造にもみんな失敗していて、情熱を持って芸能雑誌を作りつづけたいという役員はもうひとりもいなかった。みんな、横文字雑誌で広告がたくさんはいってくる雑誌の発行責任者ばかりで、そんな面倒な雑誌をわたしに任せてくださいなどと言う人はいなかったのです。

 いま考えてみれば、たとえば、年四回、季節ごとに芸能の情報や話題を集めた季刊雑誌をつくるとか、人気者の写真集を中心にして「平凡」というブランド名を生かしたシリーズ作品を作るとか、「平凡」というブランドを存続させる方法はいくらでもあったと思います。

社の気風として、そういう冒険を繰りかえして出版社として大きくなってきていたのですが、このときにはもう、そういう新しい冒険は、新雑誌でやればいい、という考え方になっていました。わたしはその頃、そういう新雑誌の冒険編集者で、自分たちの雑誌を作るのが面白くて、芸能雑誌が廃刊になるのを傍観していた立場でした。

 「平凡」は自分が育った雑誌だったので、「ひどいことをしやがる」とは思いましたが、自分は自分の雑誌のことが手いっぱいで、なにも言えませんでした。大衆文化が芸能を基幹にして成立しているモノだったことを思えば、誰かがなんとかしてもよかったのではないか、今でもそれは思います。

 これはいまでもそうですが、マガジンハウスは完全に広告収入依存型の、テレビ局と同じような、電通の子会社みたいな出版社になってしまったと思います。企業として生き延びていけるのであれば、それも一つの選択肢、ということなのですが。

 特に、いま、わたしたちが昔作って180円で売った雑誌がオークションで何千円もの値段で取引されているのを見ると、雑誌のなかにいまでも変わらない、なにか、普遍的な価値があるのだなと思います。この問題はいずれ、作品としてキチンとした形にまとめるつもりでいます。

長くなりましたが、芸能雑誌の「平凡」が廃刊になった事情を書きました。

このあと「平凡」の模倣誌だった「明星」のことをどこかで書くつもりです。

 

この話はひとまず、ここまで。