本日はアレクサンダー・テクニックのレッスンに行ってきました。
いつの頃からか、私は歌のレッスンには行かなくなりました。
外の耳は必要と思うものの、まずは自分のやりたいことをできるだけやりたい。
曲作りには、弾き語りならひとりで、伴奏つきのときはピアニストとともに練習を進めていくのが自然な形となりました。
そんな私が続けている習い事、アレクサンダー・テクニック。AT。
フランス語では順番がひっくり返り、テクニック・アレクサンダー。
先生の手、カラダをとおしてエスプリにまで到達します。
エスプリ?精神というか、心といったらよいのか。
姿勢術またはボディワークと紹介されることがあるようですが、いやいやそれは不十分。
体の中には、私が住んでいます。
頭の中にだけではなく、体中に。
カラダをほぐし、生まれたときからの自然なものにちかずけていくことで
心もほぐれていきます。
また説明は後日においといて。
日本から戻ってきて2度目のレッスン、とっても疲れました。
私はテーブルに横になっている。
先生の手によってヒントをもらい、余分な緊張をほぐしていく、といったところです。
マッサージではありませんし、ハタから見ていたら、私は本当に寝転んでいるだけみたいに見えることでしょう。
なのに、オレンジジュースの顆粒が時間をかけてそこに沈んでいくように、
かきまわした川の水が、いつしか砂と水になるように、緊張がほどけていきます。
肩がとても広くなってきた、といわれました。
肩は、いつでも緊張を受け次第、ぎゅっと力の入る反応を示すところです。
もちろん、力が入らなくなるわけではありません。
でも、力が入っても、それに気がついて、抜きやすくなります。
先生にはいろんな話をします。
ジョニー・デップの映画の話も、真面目な話も、アレクサンダー・テクニックそのもについても。
少しは、このアレクサンダー・テクニックの先生になる勉強をしたいという気持もあるのですが、
いかんせん、このか弱い手、怖い。
時間的にも、難しいかもしれない。
けれども、歌のレッスンには、多くのヒントをくれます。
「肋骨が変形してる歌手がときどきいてね・・・」と先生。
「肋骨を開いて」と」指導し、そのときに両手を肋骨の下に入れさせる方法があります。
無理に肋骨を開かせるので、それで負担がかかり変形するらしいです。
背骨がすっと伸びていれば、肋骨は「閉まっている」ことにはならないのです。
うつむいていたり背骨が曲がっていたら閉まっていますが、
その背骨に空間を与えていくことを想像すると、それだけでも変わってきて、
肋骨は、歌うのに十分に”開く”のです。
切り離せない発声・呼吸については、実際の体の仕組みから学ぶ機会がありました。
よくまぁ、それまで自己流でやってきたものだ、と思ったものです。
(もっとも、先生についていたので自己流ではなかったのですが)
目からうろこでした。
それ以来、歌うのが楽になりました。
精神的にもアレクサンダー・テクニックは私を解放しているのに一役かっています。
アレクサンダー・テクニック「だけが」私を助けているわけではないのですが・・・・
夢の話もしたくなって、少しだけ話しているうちに時間切れ。
家に帰って、連れ合いをとっつかまえて話しました。
無料の精神分析(やや自己)です。
でも、話をしただけです。
その夢には身近な主人公があり、それは私の責任感から来るのではないか?と十分に考えられるパターン。
「でも、私、そんなに責任を感じている自覚はないんだよね?」
といいながら、とにかくその夢に関係ありそうな人との逸話を並べてみました。
フランス語にするので、とつとつと、また時間的に順番に考えながらです。
あらためて話すと、イベントはいくつもあります。
責任感も、いろんな感情も、なぜかいつもより増幅されて感じます。
結局「かなり責任を感じていたのかもしれないね」
ということに近い結論を出しました。
自分でしゃべって自分で結論を出す。
「あんたいい精神科医だね」
これじゃ、チャーリーとチョコレート工場のウオンカさんですな。
でも少しすっきりしました。
話すだけでも整頓がつくことがあるんだなあ、とあらためて思いました。
しかし、自ら疲れるようなことをしてしまったわけで・・・夜はテレビの前でボーっとしていました。
フランスはまだ夜中です・・・おやすみなさい。