Vol.1029-2/3に続けてご覧ください。
▼冠纓神社の神門、神門と奥に社殿
▼社号標、さぬき十五社第七番冠纓神社
▼冠纓神社之景、注連柱
▼狛犬
▼手水舎、水神
▼開運の桃、桃をまわそう
▼境内-1、御神木と鳥居
▼御神木(かむたま龍樟樹)、境内-2
▼「さがして、見つけて、参拝。」、境内-3
▼清澄の鐘、龍王神社
境内社・龍王神社は社名から龍蛇神を祀っているものと思われます。
なお、社殿には「恋愛成就・良縁成就」の案内板が掲げられ、周囲には陰陽石なども安置されている。
▼さざれ石、さざし石と国歌の説明板
▼子宝・安産の石、願い石・叶い石
▼安倍清明神社
境内社・安倍晴明神社はかつて冠纓神社の神主であったとされる陰陽師・安倍晴明を祀っている。
なお、現在は小さな社殿があるが、古くは磐座(もしくは石碑)が裸で祀られていたようである。
▼男石・女石、御力(みりょく)巡り-1(右に賽の神)
▼賽の神(サエノカミ) (道祖神)-左側は農人形社(のうにんぎょうしゃ)、御力巡り-2(右に燈籠)
境内社・賽の神とは集落の防賽の神であり、外から襲ってくる疫病や悪霊を村境、辻、峠、橋の袂などで防ぐ神とされている。なお、冠纓神社の賽の神は元々神社の南の辻にあったそうで、明治初年の道路拡張工事のため合祀され、祭神は猿田彦命(サルタヒコ)を祀る古代の性器崇拝を伝えるものであるとされている。また、男女の縁結びや出産に御利益があるとも云われているようである。
境内社・農人形社の農人形とは水戸で作られる素焼きの人形であり、水戸藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)が農民と五穀に感謝し、農民の像を作って食膳に置いたことに由来するものとされている。
大正時代、地元の由佐尋常高等小学校では校庭に農人形社を造って礼拝していたとされ、戦後の神道指令(国家神道廃止)に伴って現在地に遷されたんだそうである。
▼1699年の銘がある燈籠、御力巡り-3
▼御力巡り-4、境内-4
▼厳島神社へ進む、右は本殿、本殿
▼厳島神社
境内社・厳島神社で、境内の池に鎮座しており、社名から宗像三女神を祀っているものと思われる。
▼厳島神社の記念碑、厳島神社から見る裏参道
▼厳島神社から戻る、社殿-1(右奥に白鳥神社)
▼白鳥神社(しろとりじんじゃ)
境内社・白鳥神社で、祭神に日本武尊(ヤマトタケル)を祀っており、「今から800年ほど昔、大川郡白鳥町に鎮座する白鳥宮の火災により、その宮の御幣が冠尾(かむろ)の木に飛んで来た」という伝説に由来するとされている。
▼社殿-2、境内-5
▼祖霊社、忠魂社(招魂社)
境内社・祖霊社は社名から土地や神社に関わる祖霊を祀っているものと思われる。
境内社・忠魂社は社名から招魂祭に関わる社、もしくは地域の英霊を祀っているものと思われる。
なお、周囲には四体の狛犬が配され、社殿には中華風の龍の彫刻があしらわれている。
▼神馬像、社名不詳の社
社名不詳の境内社は鳥居の後ろに木を祀り、鳥居の下には「敬神崇祖」と刻まれた銭形の石碑が安置されている。
なお、「敬神崇祖(けいしんすうそ)」とは「神を敬い先祖を崇める」の意であるとされている。
▼境内-6
▼社殿-3、神門
▼社殿-4
▼社殿-5
▼裏参道口へ向かう、神門を潜る
▼二の鳥居越しに見る表参道(奥に一の鳥居が見える)、裏参道を進む-1
▼裏参道を進む-2
▼裏参道を進む-3(右に冠山書道塾)、冠山書道塾
▼左は関係者の出入口、裏参道口を進む-4
▼友安三冬像
江戸時代後期の国学者で、天明8年(1788)冠尾八幡宮の神官の子として生まれ、高松の菊池高洲に漢学を、備中(岡山県)の藤井高尚(たかなお)に国学を学ぶ。文政7年(1824)高松藩主松平頼恕(よりひろ)の侍講となった。
文久2年10月10日死去(75歳)。
▼冠纓神社境内案内図、冠纓神社社叢説明板
▼裏参道口を進む-5、裏参道から見る厳島神社
▼裏参道側の狛犬と鳥居、裏参道口に着いた
▼裏参道口を振り返る、冠纓神社を後にして香南町横井へ進む
(次報Vol.1030に続く)
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